「はじめまして、後藤ふたりです! 神奈川から引っ越してきました。よろしくお願いします」
私は笑顔でそう言って、頭を下げた。
学校生活の開始。第一印象こそ大事。新しいクラスメイトを前に、自己紹介を簡潔に済ませる。目立つつもりはなかった。中学時代のような目にあうのはもう御免だ。
新しい学校。新しい教室。新しい制服。
自己紹介を終えた私は、椅子に腰を下ろす。嬉しいことに窓際の席だった。細く開いた窓から、乾いた風が緩やかに吹き込んでくる。窓の外には青空と、一面の桜並木。どういうわけか今年は開花が遅くて、4月はじめの今頃になって桜が満開になったのだった。これもまたひとつの幸運なのかもしれない。幸先の良い滑り出し、と言っていいんじゃない?
それがいつまで続くかはわからないけれど。
「ねえ、後藤さん」
後ろから声。
クラスメイト全員の自己紹介と担任の挨拶が終わり、明日以降の授業の予定を確認して、それでもう今日は散会だった。私はさっさと腰を上げて帰宅準備に入った。夕食の準備をしないといけないし、おまけに明日はバイトの面接がある。やることがたくさんだ。しっかり、ミスのないようにしなければ。
そんなことを考えながら鞄を手に取ったとき、声をかけられたのだ。
振り向くと、クラスメイトの女の子が三人。さすがにまだ名前は覚えられていない。その子達は、はにかむような、何かを期待するような顔で、私を見ている。
「うん、なに?」
「えっと……」
その子達は顔を見合わせ、肩を叩き合い、笑いあいながら、こう聞いてきたのだった。
「あの、後藤ひとりの妹さんって、ほんとなの?」
そらきた。
表情にこそ出さなかったが、私は内心で天を仰ぎ、肩をすくめていた。いずれ知られるだろうと思っていたけど、まさか入学初日からこうくるとは。いったいどこから情報が漏れたんだろう。わざわざ地元と離れた学校にきたのは、こういう声と目から逃れるのが目的のひとつだったのに。
それはともかく。
私は少し困ったように眉を寄せ、しかし笑顔を浮かべたまま、こう言っておいた。
「あはは……えっと、ノーコメントで!」
そして私は彼女らに手を振り、「また明日ね!」と付け加えた。そのまま鞄をとりその場を去る。
だいたいこれでどうにかなる。高校生くらいになれば、みんな他人との距離感を図れるようになって、こういう反応をすれば自ずと察してくれる。と言っても全員ではないけれど。まあ、しつこい子には、その都度対処すれば良い。
早足で廊下を行く私は、窓の外の明るい春の青空を見ながら、しかし暗い染みのような不安を、心の奥底に押し込めようとした。
あれは私が小学三年生になったころだったと思う。
結束バンドがデビューして数年。少しずつ知名度は上がっていたけど、まだまだ全国区と言うには程遠い状況だった。だから学校でも私の姉がミュージシャンだと知っている人は少なかった。たぶん知っているのは、親しく遊ぶ数人の友人くらいだ。
それが、ある日。
「ねえ、ふたりちゃん」
クラスメイトのひとりが、私の眼の前にタブレットをかざして、こう言った。
「これ、ふたりちゃんのお姉ちゃんだよね?」
動画が再生されている。映っているのは……
『ひゃわあああああ!』
悲鳴を上げて分裂する姉の姿だった。
有名オーチューバーのチャンネル。そこに姉がゲスト出演していた。内容は出演者にドッキリを仕掛けるという、こう言ってはなんだが大変くだらないものだ。どういう経緯で姉が出ることになったかは知らないが、その発案者は見る目があったと言えよう。
『ひええええっ!!』
こわもての男性に絡まれたり、渡されたプレゼントがびっくり箱だったり。
そういうしょうもないドッキリに、姉は律儀に、見事なリアクションを取ってみせた。爆発したり、溶けたり、粉になったり……
そりゃ、ウケるに決まっている。動画は数百万再生を超える大バズりになっていた。
私は唖然とした顔でその動画を見ていたのだけど。クラスメイトは、無邪気な笑顔で、私にこう言ったのだった。
「ふたりちゃんのお姉ちゃんて、おもしろいんだね!」
この日から、私は後藤ふたりではなく「後藤ひとりの妹」になった。
皮肉なことに、この動画をきっかけに姉は全国区の有名人となった。バンドでもなく、ギターの腕前でもなく、体質や挙動のほうが注目されてしまったのだ。
その後、しばらくは動画やテレビに引っ張りだこだったが、やがてフェードアウトし、忘れられていった。当時の詳細な事情は知らないけれど、本人が音を上げたからとも、虹夏ちゃんがストップをかけたからとも言われている。付言すると結束バンドの売上はたいして伸びなかった。ああいうのを喜ぶ層は、たぶんあまり音楽を聞かないのだ。
おまけに余波は私のところにまで来た。学校ではからかわれるし、実家にはメディアが押しかけてくる。正直、かなり鬱陶しかった。おまけに友達まで私と少し距離をおきはじめた。幼稚園のころ、私と一緒に姉をユーレイとからかっていた彼女らは、あの動画を見て何を思ったのだろう。
ともかく、どういうわけか私は、地元で姉に次ぐ有名人になってしまっていた。正直なところ、姉に恨みを抱かなかったとは言えない。ちょうど反抗期の時期だったし。家族との関係もすこしこじれ、中学時代には多少の揉め事も起こしてしまった。わざわざ遠く離れた秀華高校を進学先に選んだのは、そうしたしがらみから離れたい、というのもあったのかもしれない。
経緯は違えど、図らずも姉と同じ選択をしていた、ということに気づくと、複雑な気持ちになってしまうが。
そんなことを考えながら、昇降口にたどり着き、下駄箱から靴を取り出す。
すると白いものが落ちてきた。なにこれ? 拾い上げると、ルーズリーフの切れ端だ。丸く小さな文字で、こう書かれている。
「話があります。女子更衣室まで来てください」
……。
果し状? それともラブレター? いずれにせよ、入学したその日にこれは早すぎるイベントじゃない? 私は無言で、紙を折りたたむと懐に入れた。こんなの、無視してもいいんだけど。
すぐ近くなんだよね。女子更衣室って。
先ほど担任の先生から説明を受けた。体育のときに使う更衣室は、昇降口のすぐ隣にある。ここで着替えてすぐ校庭に出ていけるから、なかなか動線を考えた素晴らしい配置であると言えよう。ただ、更衣室はかなり狭いらしい。むかし姉がそう言っていたのを小耳に挟んだことがある。それが嫌で、一部の女子は教室で着替えるのだとか。……そのために、制服の下に体操着を来てくるのだそうだ。ジャージで登校する姉は相当な変人だと思っていたけれど、この高校の基準ではそれほどでもなかったのかもしれない。
私は靴を下駄箱に入れ直して、更衣室に向かった。……十数歩でたどり着く。本当にすぐ近くだ。
一応、ノックをする。
返事は返ってこない。
そっと扉をあける。少し重い扉が、がらがらと音を立てて開いていく。
扉の向こうに黒いカーテンがあった。一応ちゃんと外から見えないようになってるんだね。
そのカーテンを開けると、ようやく中が見えて。
薄暗い更衣室に、ひとりの女の子がぽつねんと立っていた。
私と同じ新入生、だと思う。小柄で細身の女の子だ。同じクラスではない、はず。くしゃくしゃの癖毛が肩に垂れ、大きなメガネの向こうから不安そうな目がこちらを見つめている。
しばし無言で、私達は見つめ合った。どう声をかけるべきか。ええと。私は咳払いをした。
「あの手紙をくれた人?」
私はそう言った。
女の子は口を開き、しかし何も言わずに、小さくうなずく。
たまたまここにいた人とかではないんだな。私は後手に扉を閉めた。なんの用か知らないけれど、さっさと済ませたい。
「話ってなに?」
気が急いているからか、それとも緊張ゆえか、私の言葉はいささか不躾だった。
女の子は何も言わず、おどおどと両手を胸の前で揉んでいた。ちょっと涙目になっている。なにこの人? なんだか姉みたいでイライラするな。
しばしの沈黙ののち、女の子は小声でこう言った。
「あ、あの、後藤ひとりさんの妹、だよね?」
「……」
違うって答えたら、どうなるのかな。
そんなことが頭の片隅をよぎったけれど。それでも結局、私はこう答えていた。
「うん、そうだけど」
あ、認めちゃった。
ごまかすとかしたほうがいいのにな。これでもう明日から私の出自は学校中に知れ渡るだろう。まあ、いいか。あんまりウソを付くのが得意ってわけじゃないし。
ともかく、私の返答を聞いて、その女の子はぱっと顔を輝かせ、
「あの、あの、じゃあ」
懐を探って、何かを取り出す。
「これ、お姉さんに、渡してください!」
両手で差し出してきた。
手紙だ。きちんと封をされている。封筒の表に書かれている文字は、「後藤ひとりさんへ」と読めた。姉へのファンレター、ということなのだろう。たぶん。
それを受け取る。と、女の子は突然、頭を下げたまま突進し、私のすぐ脇をすり抜けた。そのまま更衣室から飛び出して行く。
「……」
なんだったの、あの子?
どこかでチャイムが鳴っている。私は手に持った手紙をもう一度見直す。特におかしなところはない。毒とかは仕込まれてないと思う。
「ファンレター、か」
小さな声で呟く。
そういえばさっきの子、名乗ることもしなかったな。
「ただいま」
小声で言ってドアを後手に閉める。
帰りにスーパーによって食材を買ってきた。居間のテーブルに買い物袋を置き、生物をとりあえず冷蔵庫へ放り込む。今日は何を作ろうか。安かったものを手当たり次第に買ってきたので、料理のイメージがいまいち明確にならない。
「あ、ふたり、帰ってきたんだ」
姉が自室から顔を出した。いつものようにギターを抱えている。
「どうだった? 新しい学校は」
「……」
姉の問には答えず、私は無言で例の手紙を取り出す。
「これ、お姉ちゃんに。学校の子から貰ったの」
「へ?」
不思議そうな顔で、私から手紙を受け取る。しばしそれを見つめたのち、その顔がにわかに曇り、
「ま、ま、まさか果し状……!?」
「いや、ファンレターじゃないの」
「あっ、そ、そうだよね」
姉の顔はたちまち緩んだ。
「わ、わ、私、今の女子高生にも知られてるんだ。へ、へぇ〜」
「……」
アホ面のままの姉は、そのまま手紙を手に自室に引っ込んだ。なんとなくついていくと、姉はデスクからハサミを取ってジョキジョキと封筒を開けている。
中から手紙を取り出して、読んだ。
「……」
表情はほとんど変わらなかった。
読み終わると、手紙を畳んで、再び封筒にいれる。
そして……デスクの引き出しのなかに、無造作に放り込んだ。
「て、ちょ、ええっ?」
私は思わず声を上げてしまった。
「? なに、ふたり?」
「いや、その、あの……」
中途半端に身を乗り出した私は、しかし口ごもってしまう。何を言えばいいか分からず、迷った末にこう口にする。
「何が、書いてあったの?」
「ええと、うん」
姉は中途半端な笑みを浮かべたまま、伏し目がちな顔でこう言った。
「ファンですって。これからも応援してます、って」
「……」
うそだ。
直感的に、そう思った。姉のうそは聞き慣れている。別に珍しくもない。でも、なんで……
なんで、そんなうそを?
姉の表情からは、その心は読めなかった。私はなぜか寒気を感じていた。姉のことはよく知っている。誰よりもよく知っている。でも、それはやはり自惚れにすぎないのだ。眼の前にいるのは、私の知らない姉だった。今までに見たことのない姉だった。どうして。
「……今日の夕飯、なにがいい?」
なのに私は。
そんなどうでもいいことを聞いて。知りたいという思いに蓋をした。知るのが怖いという思いに負けた。
姉は、あっけらかんとした顔で、こう言った。
「ふたりの作るものなら、なんでもいいよ」
どこか遠くで、雷の音がした。
窓の外を見る。よく晴れたいい天気だ。晴天のなんとやら? でも、確か天気予報で、これから雨になるとか言っていたような。
実際、その夜には季節外れの大雨が振った。春の嵐だ。世の中、予測のつかないことばかり。
秀華高校に入学して以降。
私はそれを思い知らされて生きることになる。