その日、私は朝から具合が悪かった。
頭が重く、体もだるい。どうしちゃったんだろう、せっかくの休日なのに家で寝ていたくない。今日は姉も仕事で家にいないし。
そんなわけで、自分を奮い立たせて、わざわざ渋谷まで遊びに行った。
ところが具合は一向に良くならず、むしろ悪化していく。寒気がする。体の節々が痛い。これは……風邪かな。息が切れてきて、渋谷の雑踏のなかで座り込みそうになった。さすがにまずい。遊ぶどころではない。帰ることにしよう。
徐々に強くなる頭痛を抱え、電車にのる。始発だから座れるのが唯一の救いだ。ぐったりと背もたれに身を寄りかからせる。額に手を当てると、ほんのりと熱い。
━━はやく、家に帰って寝よう。
電車が動き出した。吊り革につかまった人々が揺れる。私の頭も揺れる。うん、めまいがする。これ、家にちゃんと辿り着けるかなあ。
などと思っていると、視界の隅を何かがかすめた。あのひと……見覚えがあるような……
あるどころではなかった。電車のドア付近に、細身の女性が私に背を向けて立っている。
喜多ちゃんだった。
なんでここに……いや、私と同じで、渋谷に買い物に来て、帰るところなのかな。
学校では、ほとんど喜多ちゃんと会うことはない。担当するクラスも学年も違うのだ。これは正直、見込み違いだった。なんとなく、同じ学校に通えば話す機会があると考えていたのだ。
私と喜多ちゃんが知り合い━━幼馴染であることも、ほとんど誰にも知られていない。職員室に押しかけて強引に話に行こうかな、なんてことも考えていたのだけど、私もまだ学校になれるのに大変で、そんなことをする余裕はなかった。
喜多ちゃんは、無言で窓の外を見ている。
喜多ちゃんて、今どこに住んでいるんだろう。
姉の家から出て、どこかに引っ越したことは知っている。実家に戻ったのか、それとも別の場所にいるのか。
そんなことを考えていると、電車が駅についた。下北沢の隣の駅だ。
喜多ちゃんが降りていく。
咄嗟に、私は立ち上がっていた。
何してるんだろう? 頭が重い。全身が痛い。私はふらつく体を、気力だけで支えていた。
何をしているかといえば、喜多ちゃんの尾行である。駅前の住宅街を、喜多ちゃんは颯爽と歩いていく。私はだいぶ離れた場所から、おぼつかない足取りでそれを追う。
このあたりに住んでるのかな……いや、そういう問題じゃないでしょ……なにこんな、ストーカーみたいなことして……
思考がぐるぐると頭の中で渦を巻く。回っているのは思考だけじゃない、視界もだ。もはや私は、まっすぐ歩くことさえ、難しくなっている。
どのくらい歩いただろう。たぶん10分ほどだろう。一件の小綺麗なマンションに、喜多ちゃんは入っていった。ここに、住んでるのかな。せめてマンションの名前だけ見ようと、私はエントランスに足を踏み入れた。
そしたら躓いた。
地面が、私の目の前にあった。壁のように立ちふさがって前に進めない。違う、倒れているんだ。倒れたまま私は、起き上がれなくなっている。
どうしよう。手足に力が入らない。気が遠くなる。自分がどうなっているかもわからない。私は、私は……
「……ふたりちゃん?」
どこか遠くで、声がする。聞き慣れた、あんなにも好きだった、喜多ちゃんの声が……
そして意識が、闇に飲まれた。
ここはどこだろう。
見知らぬ天井だった。白っぽいシーリングライトが私を見下ろしている。殺風景なくらい、飾り気のない部屋だ。私が寝ているベッドのほかは、簡素なデスクと、クローゼットくらいしか置かれていない。誰の部屋なの? というか、どうして私はここに?
「ふたりちゃん? 目が覚めた?」
声がする。視界にすっと髪の長い女性が入ってくる。喜多ちゃんだ。
「あっ……喜多ちゃ……」
「倒れてたのよ。私の家の前で」
喜多ちゃんは心配そうな顔で、私の額に手を置く。
「すごい熱よ。病気だと思う。大丈夫、気分は悪くない?」
「あの……わたし……」
朦朧とした頭で、私はなんとか弁解しようとする。
「私、朝から……具合悪くて、でも、喜多ちゃんの、後ろ姿が見えて……ついていこうって……それで……」
ああ、何を言っているんだ私は。弁解というより告白だし、そもそも支離滅裂すぎる。熱のせいだ。ぜんぶ、熱が悪いんだ。
喜多ちゃんはため息をついて、体を起こした。
「とにかく、病院へ行かないと。お姉さんにも連絡したわ。すぐ来れるみたい。ふたりちゃん、起き上がれそう?」
「……え」
お姉さんて誰だろう。喜多ちゃん、一人っ子じゃないっけ……とか考えたあと、唐突にそれが私の姉、つまり後藤ひとりであることに思い至った。
そんな。
「あっ、きっ、喜多ちゃんっ」
私は必死に、ベッドから上体を起こした。途端に強いめまいと吐き気が押し寄せてくる。
「あっ、あのっ、お姉ちゃんにはっ……」
「うん、落ち着いて、ふたりちゃん」
「お姉ちゃんには……言わないでっ……」
涙がぽろぽろと出てくる。
だって。わざわざ喜多ちゃんにストーキングみたいな真似して、しかも倒れて、担ぎ込まれて、迷惑をかけて……何をしているんだろう私は。こんなの、姉に知られたら、どう思われるだろう。
「あの、おっ、お願い、しますっ……」
必死に涙を拭う。泣いてる場合じゃない。落ち着かないと。でも、涙は次から次へとあふれてきて、嗚咽も止まらなくて、いつしか私は、幼い子どもみたいに泣きじゃくっていた。
ごめん、お姉ちゃん。ごめん、喜多ちゃん。どうして、どうなって、なんで、私は、私は……
喜多ちゃんは、なだめるように私の頭を撫でてくれる。
「ふたりちゃん、落ち着いて。大丈夫だから、ね」
「き、喜多ちゃん、お願い、お願いっ」
「だめよ、それは」
喜多ちゃんは、しかし、首を振ってきっぱりと言った。
「あなたはまだ未成年で、子どもなの。大人の庇護下にあるのよ。まだあなたは、あなた自身への責任を持つことができない。だから」
私や、お姉さんがいるのよ。
その言葉は、とても遠くから聞こえる。
分かってる、分かってるよ。でも、どうしたらいいか分からないんだよ、喜多ちゃん。
熱のせい。全て熱が悪い。私が支離滅裂なのも、こんな感情的になっているのも、ぜんぶ、ぜんぶ……
意識が薄れていく。
ふと顔を上げると、そこに姉と喜多ちゃんが並んで立っていた。
意識が飛んでいたらしい。どのくらい経ったんだろう? 時計を見ると、もう夕方に近かった。一時間くらいは気を失っていたのかも。
姉は、喜多ちゃんに頭を下げていた。
「すいません、喜多先生。妹が、とんだご迷惑を」
喜多ちゃんは手を振ってそれに応える。
「構いません。それより後藤さん、病院は」
「はい、連れていきます。タクシーを呼んでありますので」
なんだなんだ━━
ふたりの大人が、大人らしい会話をしているのを、私は呆然と聞いていた。なんで、なんで他人行儀なんだ。そんな口調で話す仲じゃないでしょ。誰かが聞いてるわけじゃないんだ、ここには私しかいないんだぞ。いつもみたいに話してよ。ほら、あのころみたいに、私と一緒に、笑顔で、明るく……
姉が、こちらを向く。
「ふたり、起き上がれる?」
「あっ、あっ、あの」
「それとも、救急車呼ばないとダメ?」
「……」
私は首を振った。体はだるいけれど、ちゃんと動く。ふらつく体に気を入れて、どうにかベッドから立ち上がる。
「さ、行こ」
「……」
私は喜多ちゃんのほうを向いて、頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。喜多……先生。とんだ迷惑を、かけちゃって、すいません」
「いいのよ、だから」
喜多ちゃんは微笑み、そして姉に視線を向けて、
「あとは任せて大丈夫? 後藤さん」
「はい。さ、行くよ、ふたり」
私は、力なく肯いた。それしかできなかった。
タクシーで病院へ。診察された結果、インフルエンザであることが分かった。点滴を打たれたのち、解熱剤と薬をもらって帰宅。
このへんから記憶が曖昧。姉に寝かしつけられ、憎まれ口を叩いたような、もしくは泣き言を言ったような。全ては霞の彼方である。
翌朝。目が覚めたら、熱はすっかり下がっていた。今の薬ってすごいんだなあ。でもまだ体はだるいし、一週間くらいは保菌者だから家を出られないんだよね。
部屋から出て居間に行くと、姉がソファに寝っ転がってテレビを見ていた。
「あ、ふたり起きた? 具合はどう?」
そういう姉の目の下にはくまがくっきり。もしかして、寝てないのかな?
「うん、具合良くなった。たぶんもうだいじょうぶ」
そう言ったあと、急に不安になって、私は言った。
「ああ、ごめん、お姉ちゃん。移しちゃったかも」
病院の行き帰り、姉にすがりつくようにしないと歩けなかった。これだけべったり接触したら、ソーシャルディスタンスも何もあったものではない。
けど、姉はへらへらと笑って、こう言ったのだった。
「いいよー。もし移っちゃっても、仕事に行かなくて良くなるから」
「……」
何を言ってるんだ、この姉は。
ありがたいことに、姉にも喜多ちゃんにも移らなかった。姉は残念そうな顔をしながらスタジオ仕事に出かけていった。
ま、姉に関しては、しばらくあとにインフルよりひどい目にあうんだけどね。それはまた別の話。
それより。
「あ、あの、喜多……先生」
学校の廊下。一週間ぶりに登校した私は、ばったり出会った喜多ちゃんに頭をさげる。
「本当に先日は、申し訳なかったです。ええと、なにかお礼を」
「もう、いいのよ。後藤さんたら」
喜多ちゃんは苦笑して手を振る。
「私が具合悪くなったら、後藤さんは助けてくれるでしょう? そういうことよ」
「……はい」
そうなのかな。
自信がなかった。私は、人に思われているより打算的な人間だと知っているから。
病気で倒れた喜多ちゃんを想像する。もちろん助けるよ。病院にも連れていく。でも。
「また姉と一緒に住んでください、って言ったら、どうする?」
そう呟いた私の声は、もちろん、誰にも聞こえなかったはずだ。
そんなことを、少しでも考えてしまう自分は最低だ。私はその日、歯が痛いのかとクラスメイトから疑われるほど渋面のまま過ごした。もうありえないと思う風景。でも。でも。
また、喜多ちゃんとお姉ちゃんが一緒になってくれるなら、私は死んでもいい。