公立の中学校に通う男の子には、好きな女の子がいる。彼の席から斜め前で、右手にペンを持ち、左手の人差し指で前髪をかきあげる、黒髪で狐耳の子だ。
授業をけだるげに聞き、人差し指を器用に回して髪の毛を束ねては、右手を動かして板書された事項をノートに書き写す。
短髪の彼女はうなじが浮いている。背首の線に沿って、生糸よりも細い髪の毛が生え揃い、ところどころは列に従わず、跳ねている。乳白色の細やかな肌と、線が見えるほど引き締まった後ろ首の輪郭が下地になった彼女のうなじは、臆病がちで彼女に声をかけられないでいる彼にとって、心を満たす癒しである。
指をそこに這わせられたら、身を震えさせるくらい嬉しいだろう。掌全体をくっつけて、そこを撫でたら、少々の立ち眩みを憶えるくらい、興奮するに違いない。想像すると、何故かミルクの匂いも伴って彷彿し、鼻腔をくすぐる。
鼻の下を伸ばして彼女の素肌を注目するうちに、なんの収穫もなく授業が終わってしまうのが、ここのところの彼の日常であった。
気がついたら、自分の机に座り通しでいるのは彼だけで、他の男子は部活や遊びのために下校し、ガールズトークを繰り広げる女子の数グループだけが教室に残っていた。
教室の窓からは小金色に焼けた日差しが差し込み、教室に茜色の風合いをもたらす。空の彼方は若い朱色だ。もう放課後である。
少年がずっと見澄ましていた少女も、帰宅せずに席で待機し、教室に残っていた。しかし女子グループには参加していない様子で、まさに今、鞄を手に持って席から立ち上がった。
このまま十秒とかからないうちに教室を出て行ってしまうだろう。そうしたら、何故かは分からないが、少年は少女との縁を失ってしまう未来を直感した。それだけは嫌だと願った彼は、根拠や話題を考えるよりも先に体が動き、教室の出入り口の扉に手をかけた少女に追いつく。
「ねえ」
そして、臆病な彼が、彼女に話しかけることができた。夕焼けによる緩慢な時の流れが少年に味方をしてくれたのかも知れない。
「初めまして。好きだ。よければ、友達になってよ?」
話題を考えなかったせいで、いつも心に思っていることを、そのまま口に乗せて喋った彼だ。少女は、いきなりの文言に動揺して、目を見開き、瞳孔を絞って彼の顔を見る。眉まで吊り上げた、彼女の驚いた姿は新鮮だ。
少女の鼻の頭が、夕焼けではない赤色でいっぱいになる。人間特有の両耳とは別についている、頭部の二つの狐耳がじたばたと震えて、その震えが収まると、今度は定期的に痙攣を起こすようになった。
それぞれで話題を繰り広げていた女子グループも、当然のことながら、異様なことをおっ始めた二人を食い入るように注目する。先ほどまでの、ざわついており心地よさがあった教室内は、沈黙以上に押し黙ってしまった。
少年が少女に喋りかけて、1分が経過し、少女はようやく動揺の波を制御できるくらいに立ち直る。
「私は嫌いよ」
そして、少年を突き放す言葉で沈黙を破った。
がーんである。少年は目を瞑り、うめき声を出して、肩に襲い掛かる重圧に耐えた。しかし圧し掛かる重みは尋常ではなく、ついには膝をつき、手を額にやって縮こまった。
大げさなリアクションをとる少年に対し、少女はたじろいで、一歩後ろに下がる。されど、一度味わったこれ以上ないほどの恥ずかしさが、好意という名前の火種に、ほんの少しだけ変化したのか。彼を思って、二歩ほど彼に歩み寄り、彼の落ち込む背中を指で遠慮がちに突いて、立ち上がるように要求する。
「いきなり好きだなんて言われても、困る。何にも接点が無いじゃない」
「ごめん……」
立ち上がった彼に本音を伝えた少女は、しょげている少年の有りようを見て、いたたまれなくなる。
「謝らないでよ。どうして、私を好きになったの?」
「実は、ずっと見つめていたんだ」
「え? どこから?」
「自分の席から。狐子ちゃん、席が前だから……」
「も~! そんなの、ストーカーじゃない。こわい! 嫌い嫌い。大嫌いよ!」
少女は強い口調で彼を批難して、咎めた。がっかりしていた少年の気持ちはさらに落ちて、底板を突き破ったらしく、限界を迎える。頬はやつれて瞼は下がり、起立したままの足はふらふらだ。
「会話してくれてありがとう。嬉しいよ」
「何よ、腰が低いわね……」
「迷惑をかけてごめん。それじゃあ……。明日も元気で」
よぼよぼと自席に戻り、机の横の鞄かけに引っ掛けていた学習鞄を取った彼だ。その後、少女がいない、反対側の出入り口から帰宅しようとする。
少女は彼の様子を訝しげに観察していたが、彼が反対側の出入り口に向かっているのを見て、少年が傷心を背負ったまま消え去ろうとしていることに気がついた。
「ちょっと! どうして帰っちゃうのよ?」
「え? 迷惑をかけたから、面目がなくて。ごめんね……?」
「そうよ! もっと、謝ってよ」
「うぅ~」
「そんなに苦しまないで。でも、その、そうよぅ……」
少女は、始めこそ強気だったが、段々と弱弱しく、かつ柔らかい語尾に転調していき、少年を引き止める。
少年は苦悩であえぎ、その場に立ち止まって彼女の方へ振り返る。
「謝ってもらうためには、帰られちゃ困るのよ」
少女は自分の言葉の意味合いが妙な方向へ進んでいることを、おぼろげに知覚する。
しかし少年は、彼女の感情の微妙な揺らぎを感じ取ることができない。よって、板ばさみになったようにしどろもどろとしてしまう。
「でも、俺も、息苦しいよ。家に帰って、今日のことを忘れたい……」
少女は信じられないことを聞いて、芯まで驚いた。せっかく剥き出した勇気を反故にしてしまうというのだ。
「忘れないでよ!」
「どうして? お互いに忘れたほうが、苦しくないよ」
「だって……」
少女は言ったあとに、教室の黄金色や、地平線の燃え立つ茜色よりも浮き出るくらい、赤面する。そのとき少女の心の中で、それがひび割れる音がした。
仮にも女子生徒をしている少女は、それの正体を知っていた。そしてもちろん、ひび割れの度合いは、ほんの少しだ。外見上は全くの無傷で、ただ、内部ではごくごく小さな傷が走った、その程度である。
それでも割れたのだ。少女はひび割れた事実にためらったが、同時に、それがはじけなかったことを残念に思った。また、別の思考線で、「私自身が私を誘導しちゃったんだな。やっちゃったな」とも反省した。
少女はすぐさま腹を据え、事実を受け入れた。しかし受け入れたところで、心臓を横にゆさぶる、いびつな動揺は残る。
「そうやって、女の心を、面白半分にいたぶるあなたなんて、大嫌い。あなたって、すっごく、いじわるなのね?」
「へ?」
呼吸がうまくできず、息でつっかえて、途切れ途切れに話しながら、少女が少年に迫る。少年は少女の言動を理解できない。
「どうして俺がいじわるなの。気持ち悪がられるようなことをやったから?」
「ほら! いじわるした。そんなこと、違うに決まってるでしょ」
「じゃあどういうこと?」
「またいじわる。じらさないでよ? 一緒に、帰るのよ」
骨の髄までどよよんと下降していた少年は、少女の提案を聞いて、瞬時に若返った。老廃物がたくさん溜まっていたさっきまでの少年の体は、少女の声で美容され、今ではつるつるしている。
腰まで漬かっていた沼は一気に干上がった。
わかりやすい彼の態度を見る少女は、殆ど彼のことを知らないが、知らないなりに嬉しく思う。
「ほんと! 嬉しいな。心変わりしたの?」
余計な一言を聞き届けた少女は、少年を厳しい視線で睨み、彼にさらに近寄って肩を叩く。
「健太郎くんって、いじわるなだけじゃなくて、失礼なのね」
一発叩いただけでは気が済まず、背中も平手で打って、おまけにまた肩を叩いた。
「いきましょ。恥ずかしいな、もう」
少女は少年の手を掴んで引き、出入り口を素早く空けて廊下に出た。騒ぎ出す女子グループの声は聞かぬフリだ。
開いた扉を締めて、照れ隠しに教室側の壁に貼られた様々な告知ポスターを見やり、彼を誘導しつつ廊下を小走りで渡る。
あっという間に昇降口に到達した。少女は少年の手を握ったまま、上履きを足だけを使って脱ぐと、鞄を下駄箱の上に置いて、上履きのかかとに指をあてがって拾い、それを下駄箱の上段にしまった。下段に置いてある外履きのローファーを掴んで、玄関のコンクリートの上に放ると、これまた足だけを巧みに使って履く。
少女の指先は、うなじの色に合わせるように白い。かつ滑らかである。それでいて、彼女が触れたものには色がつくほど、その指先は特殊だ。
色の名前は透明であり、透明が強調される。
生娘の皮膚が、指の表面に魅力を上乗せしているのだろうか。触りたいという欲求が心の隅に沸き立つ少年であるが、まさに現在、その願望は叶っていることに気がつく。
少女の手を握っているほうの指の根の関節を動かして、手触りを改めて確かめると、成長期でまだまだ伸びる余地がある彼女の手は、ふっくらと肉付きがいい。そして、少女の手の繊維が無垢であることが、彼の手のひら越しに伝わる。
薬指を伸ばして、少女の中指の先端にあてがい、そのまま掌まで下ろすように指を伝わせると、彼女の指の腹の感触がなんとも気持ちいい。もう一度、同じ手順を踏んで試してみるが、胸に沁みる充実感は変わらず、たまらない。
調子に乗り、指三本を少女の手のひらにあてて、大きく上下に擦った。少女の手の感触を満遍なく味わえる。至福である。
感動し、ふにふにと少女の手を弄くり遊ぶ少年の異変に、帰り支度をしていた少女も気がつく。握手していた側の手を離して、彼のお腹の横を小突くと、下駄箱の上に置いた鞄を取り直した。
「えっち。知り合ったばかりなのに、信じられない」
「ごめん……」
正気を取り戻した少年は、少女の行動に習って上履きをしまいつつ外履きを玄関に出した。その外履きを足に入れて、忘れ物がないかチェックをして、帰りの支度を整えた。二人は並んで昇降口を後にし、建物の影が差す校門を通る。
帰り道の通学路の足元には、若い緑色をした、円を四分の一に分割したような、扇子の形をした葉っぱがまばらに散らばっていた。
「あ、イチョウが落ちてる。まだ、夏真っ盛りなのに。でももう、汗ばまなくなったわね。不思議ね?」
「そうだね。言われるまで、夏だって思わないくらい、今日は平温でいるな。なんだか珍しい」
少女は瞼をやや細めて、喜ばしげに少年を見つめ、嫌味なく、くすくすと笑う。
「やっと普通の会話ができたね?」
少女に囃された少年は、いままでの行動を反省すると共に、恥じらいがぶり返してやりずらそうにする。
ふと、二人が空を見上げると、夕焼けは今がまさに最も輝く時だった。赤の色半紙を視界に透かせたような風景が、至るところに
広がる。いちょうの葉も、建物も、二人の足元も、皆、炎の彩りで焼ける。
夏服で、肘から下が布で覆われていない少女の腕の肌が、ピンク色のような、明度の高い緋色に晒されて、透き通る。触れても、触れられず、通り抜けてしまいそうだ。
「影と形だけの世界に、色というものが帯びる感じが、好きなんだ」
「へえ?」
「だからね。夕焼けが見える日は、ついつい、眺めのいい教室で、堪能してから帰るんだ」
「詩的なことを言うんだね」
「そうかな?」
少年が気がつくと、紅色の日光は、少女の肉体の全てを貫通していた。少女の体越しに向こう側が見えた。
ずっとは見ていられない。地平線に浮かぶ夕焼けの芯は、眺める内に、若々しい白交じりの黄色から、熟した橙色へ成長し、やがて夜の色に向かって閉じていく。時間の経過に連れて、鮮度がたちまちに失われていく夕焼けを、少年は惜しく思う。
そして、きっと少年の体も、少女の体と同様のことが起こっている。少女が少年を見て感動しているからだ。
やがて、夕焼けの中に生じた夜が大きくなり、空の朱色を全て吸い込んで、跡形も無く消えてしまった。細々とした雲の隙間には夜の証である闇が浮かんでいる。
「私たち、ずっとこの場で立ち尽くして、夕焼けを眺めていたのかな? もう夜だよ。帰らなくちゃ……」
「つき合ってくれてありがとう」
「そんな。とんでも……、あるわよ」
「うう~」
「ふふっ」
上機嫌に少年をやり込める少女だ。
「夢より夢みたい。いきなり告白されるなんて、思ってなかったもの。夢心地……」
「え? あの、」
「調子に乗らないで」
少年の言い出した言葉は、少女に遮られてしまった。
「『初めまして』なんて、最初に言ったでしょ。だから、許してあげない! まだまだ嫌いよ?」
「そんなあ。初めてなのに、初めましてと言わなかったら、失礼じゃない?」
「いいの! 好きになって欲しかったら、行動で示してよ? 明日も、また」
「うん。また明日」
「あなたから話しかけるように!」
少女の叱咤を受けると、少年は、記憶が飛ぶように家まで帰宅していた。少女がどのように帰ったのかはおろか、自分がどのような手段で帰ってきたのかすら、まっさらに分からない。
少女が帰り際に夢心地と呟いていたが、彼こそその言葉の余熱を感じ、熱風にそそのかされていた。