冷女と呼ばれる先輩に部屋を貸すことになった   作:こなひー

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第10話 不穏の影

 実子からの怪しい誘惑を振り切った健斗は、業務を終えてさっさとオフィスを出た。健斗には彼女が自分に対して何故あんな行動に出たのかが理解できなかった。無意識の内に戸惑いと不安を振り切るために早く帰ろうとしていたせいで、軽く息を切らした状態で帰宅した。

 

「音無君、おかえりなさい」

「ふう……ただいま戻りました、泉さん」

「どうしたの? なんだか汗をかいているみたいだけど……」

「あ、いえ! 今日は早く帰りたかった気分だったので!」

「ふふっ、そういう気分の時もあるわよね。タオルを持ってくるわ」

 

 健斗は実子の事については玲には言わないことにした。自分の看病で散々心配をかけてしまった事から、これ以上彼女の心配事を増やさないようにしようと思ったからである。自分は隠し事が下手だと自覚しているので、悟られないように息を整えておく。そこに小さめのタオルを持ってきた玲が戻ってきた。

 

「ほら、じっとして……」

「え、えっと……」

「どうしたの?」

「まさか、拭いてもらえるとは思ってなくてですね……」

「いいじゃない、誰にも見られていないんだし」

「そうですけど……」

 

 二人の距離は、明らかにどんどん近づいている。今のようなスキンシップも何の疑問もなくするようになっている。健斗が気恥ずかしそうにしていると、玲はふと違和感を抱く。そして彼の胸元に鼻を近づけだしたのである。

 

「泉さん? ど、どうしたんですか?」

「……君の服から香水の香りがするわね」

「え?」

 

 玲は健斗の顔に目を向けて、少しだけ目つきが険しくなった。健斗はドキリとして思わず目を逸らしてしまう。

 

「もしかして、岡本さんに迫られたりしたのかしら?」

「っ!?」

「当たりみたいね……」

 

 玲はなんと健斗のワイシャツにほんのわずかに染みついた香水の匂いで、彼が実子に近寄られていたことに気づいたのである。図星を言い当てられてしまった健斗は流石に隠しきる事は不可能であると悟った。

 

「……また雑務を頼まれそうだったんですけど、ちゃんと断りましたよ」

「そうだったの、ちゃんと断れて偉かったわね」

 

 玲の目から険しさが消えて、優しさを含んだ視線に変わった。そして汗を拭いていた手とは逆の手で、彼の頭を撫で始めたのである。予想外の行動に健斗は全身が硬直して、ただ彼女のされるがままとなっていた。

 

「あの……俺も大人なので流石に恥ずかしいといいますか……」

「いいじゃない、頑張った事を褒めてもらうのに大人とか子供とかは関係ないでしょう?」

「!」

(嗚呼……、やっぱり俺はもう泉さんから離れられない。泉さんには、笑顔でいてほしい)

 

 部屋を貸すという契約が始まる前から、健斗はずっと玲に対して特別な感情を抱いていた。しかしこうして距離が縮まるたびにその気持ちは更に増していく。もういつ爆発してしまうかわからないほどだった。

 

 そしていつからか、玲も同じような気持ちになっていた。健斗がいてくれたからこそ、彼女も冷女になりきってしまいそうな所を踏みとどまることができた。彼女も彼に特別な感情を膨らませていたのである。それと同時に、玲の中に渦巻いていた黒い感情が出てきてしまった。

 

「それはそれとして、香水の匂いが服につくほど密着してきたという事? ……やっぱり岡本さんに会ったら厳しく言っておかないといけないみたいね」

「あの、泉さん? 顔が怖いです……」

「あら、ごめんなさい。ちょっと熱くなってしまったわね」

(泉さんには、笑顔でいてほしい。……いやほんとに)

 

 健斗に近づこうとしている実子の事が気に入らないのだという事を、彼女自身はまだ自覚していなかった。健斗も理由についてはあまりわかっておらず、とにかく自分が彼女の怒りの矛先にならないように気を付けようと心に誓うのであった。いくら好きでも怖いものは怖いのである。

 

 

 仕事終わりのコーヒーを二人で飲み終えて、玲は帰る支度をする。玄関に二人で向かうまでの動きもすっかり慣れたものだった。玲は扉を開けて、健斗に微笑みながら挨拶を交わす。

 

「それじゃあ、また明日ね」

「はい、お疲れさまでした! 明日もまたコーヒー用意しておきますね」

「ええ、楽しみにしてるわ」

 

 玲の姿が見えなくなるまで見送った後、健斗は玄関の扉を閉める。そのまま鍵を閉めようとしたのだが、彼女が急いで戻ってくるような足音が聞こえてきた。鍵を閉めるのを止めて扉を開く。すると息を盛大に切らしてこちらに駆けてくる玲が視界に飛び込んできた。

 

「泉さん? 何か忘れ物でも――」

 

 健斗が言い切る前に、玲が突然ガバッと健斗に抱き着いた。抱きしめる両腕の力の強さから、健斗は彼女の必死さを感じとった。

 

「い、泉さん!? 一体どうし……」

「お願い! 音無君!」

 

 ようやく顔が見えた彼女の目には、今にも溢れそうな涙が溜まっていた。明らかにただ事じゃない状況に健斗は息を飲む。そして彼女は、絞り出すように彼に言った。

 

 

「……助けて」

「っ!?」

 

 彼女の抱え続けていた問題が、とうとう抱えきれない所まで来てしまっていたのであった。

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