藤田ことねと美鈴プロデューサー 作:杞憂コアラ
きっと、何かの間違いでした。
何かの間違いで、私はあのようなことを言いました。
彼女を──藤田ことねさんを初めて認識したのは、まりちゃんと一緒に中庭で話しているのを見かけた時です。不器用で、他人から見ればあまり感じの良くない態度を取ってしまうあの子が、笑顔で話しかけてくる藤田ことねさんに対してはある程度心を許していたようでした。
そんな和気藹々とした二人の姿を見た時、少し嫉妬したんです。
けれど安心もしました。今の私とまりちゃんは喧嘩中。私から話しかけることができない今、彼女に仲の良い友人がいることは嬉しくもありました。
そう思っていたのですが。
「……美鈴。私のクラスの人が最近すごく疲れてるんだ。居眠りするし、レッスン中に倒れたこともあるし……。」
発端は、藤田さんの身を案じて喧嘩中でありながら私に相談してくれたまりちゃんの好意でした。
お昼休みに中庭を訪れると、藤田さんはすぐに見つかりました。私のお気に入りのベンチでお昼寝をしている彼女は、目の下に薄いクマができています。
「──藤田さん。藤田ことねさん。」
「んっ!?」
浅い眠りからか、すぐに飛び起きた金髪の三つ編み少女は背伸びをして、ふわあと大きな欠伸を一つしました。
「どしたの、はた……美鈴ちゃん。」
「もうすぐ授業ですよ。」
「エッ、もう!?」
「はい。ところで……あなた、週に何回バイトをしているんですか?」
あたふたと教室に向かおうとしていた彼女がぴたりと止まりました。不思議そうに向けられる視線に、何故かもやっとします。
「もしかして心配してくれてる?」
「気になるだけです」
「エ~?してるじゃ~ん。ありがとナ~♪」
「………」
軽薄な態度を取る彼女をじっと見つめると、彼女はその場で考える素振りを見せました。
「えーっと、少ない時は3回だけど、ここ最近は……」
そう言って彼女が両手の指を使いだしたのを見た瞬間、私の表情は凍りつきました。
「このくらいかな。」
「……どうして……?」
「とにかくお金が欲しいんだよね~。じゃ、そゆことで!」
立ち去ろうとした彼女を、私は呼び止めました。
「待ってください……!まりちゃんから聞きました。レッスン中に倒れたり、座学の時間は時々保健室に行っていることを!」
「アイツ……大丈夫だっつーの。」
「……!」
不意に、彼女は人が変わったように一変してぶっきらぼうな声を出しました。普段の、どんな人にでも笑顔を振りまく姿とはあまりにもかけ離れていて、その冷たさはまりちゃんに向けられたものでした。
どうにも頭が熱くなります。冷静でないと分かっていながら、私は口を開きました。
「まりちゃんはあなたを心配しているんですよ。余計なお世話のようにおっしゃらないでください、藤田さん。」
むっとした私の言葉に、感化されたのかも知れません。彼女は笑顔を一瞬崩してこう言いました。
「……うん。余計なお世話かも。あたし、大丈夫だからさ。」
その瞬間、決定的な軋轢が彼女との間に生じました。まりちゃんの好意を無碍にされ、私の言葉が拒絶され、黒い感情が心の底から溢れ出してきました。Syng Up!が解散するときだって、ここまで変に昂ることはありませんでした。
まだ立ち止まっている藤田さんに、私は冷静に言葉をぶつけました。
「どこが大丈夫なんですか?お金を稼ぎたいのなら、アイドルとして成功すればいいでしょう。バイトのせいで授業が疎かになっているのなら本末転倒です。
今にして思えば、これこそが最悪の選択でした。事情も知らずに、私は彼女に決して言ってはならないことを言いました。
「あなた、アイドルになる気はあるんですか?」
禁句を口にした途端に、私の熱がさっと冷えました。不気味な程に身体が冷たくなって、ようやく私は本当に冷静になったのだと気付きました。藤田さんは、目を見開いて固まっていましたが、やがて怒りを爆発させるように叫びました。
「あるに決まってんだろっ!!」
驚いて、私は蛇に睨まれたように動けなくなりました。激しく息をして汗を流している藤田さんもまた、私に掴みかかることはありませんでした。私たちは僅か数十センチの距離で見つめ合ったまま、その間に広がりゆく大きな亀裂を前に、お互いの元へと踏み出すことなど決してありませんでした。何も言えないまま、時だけが過ぎていきます。
お昼休みが終わるチャイムの音が、キーンコーンと鳴り響いて、私たちの止まっていた時間を動かしました。
「あ……」
涙ぐんでいる藤田さんが、しまったという顔をして俯きました。
「……ごめん、美鈴ちゃん……」
踵を返して校舎の方に走り去る彼女を、私は呆然と眺めることしかできませんでした。眠気を忘れ、重苦しい空気に息も忘れ、ただただ立ち尽くしていました。
手を伸ばしたかった。声をかけたかった。あの日、何か行動を起こせていたなら。酷いことを言ったと謝れていたのなら。
全部、私の間違いでした。
─────
真っ黒なスーツに身を包んだ私は、しゃこしゃこと歯磨きをしながら鏡の中の私を見つめていました。伸ばしている長い髪が、首を傾げるとゆらゆら揺れます。
初星学園に在籍していたあの頃から2年の月日が流れました。今日から私はアイドルと兼任してプロデューサーになります。
理由はいくつかありますが、何よりも、私をプロデュースしてくれた星南先輩の背中を追いかけて、トップアイドルになりましたから。それから、誰かのお世話をしたいという普遍的な欲求に歯止めが効かなくなってきました。
後は──
(そろそろ参りましょうか。)
脳裏に誰かを浮かばせながら、私はアパートの自室のドアを開きました。
今日は晴れやかな青空。110プロダクションへの道を歩きながら、大きな欠伸をします。お昼寝をせずにはいられないお天気ですが、流石に入社式に出ない訳にはいきません。
そうして、受付が開始される30分前には大きな建物が見えました。ほっと一息ついた後、側にあったベンチに腰掛けます。
(まだ早いですね……。少しだけ、少しだけまどろんでもいいでしょうか)
誰の返答も待たずに、私はスマホを取り出して、15分後にアラームを設定しました。これで中々目が覚めなくとも、受付が終わるまでには起きるはずです。
穏やかな呼吸を繰り返していると、やがてとてつもない眠気が襲ってきました。身を任せるように、私は瞼を閉じました。
(……?)
微睡む中、何時間も経過したような感覚に襲われます。設定していたアラームは一向に鳴ることなく、私は目を瞑ってうとうとし続けていました。
もしや、何か不味いことが起きているのでは。スマホの充電が切れたり、あまりに熟睡していたせいで耳に音が入らなかったり、ケースは色々考えられます。いい加減意識もはっきりしてきたので、私はゆっくりと瞼を開きました。
(……えっ?)
厳粛な雰囲気。周りに座る大勢のスーツを着た人々。前方には制服に身を包んだ学生たち。
見間違いでなければ、私は何らかの入学式に立ち会っていました。
入社式ならぬ、入学式。
(これは、夢の中でしょうか?)
そう思ってほっぺたを強めに摘んでみましたが、鈍い痛みが走ったのですぐにやめました。
内心困惑しながら鉄パイプの椅子に座り続けていると、ようやく意識がはっきりとしてきました。とどめに、聞き覚えのある声が、しかし今聞こえるはずのない声が聞こえました。
「──月村手毬さん。」
「はい!」
まりちゃんの声が体育館中に響くと、目が覚めるどころか放心しそうになりました。名前を呼ばれ、返事をする。入学式のお決まり事です。問題は、アイドル科の1年1組として、私の大切な親友が威勢の良い返事をしたことでした。
次々に知っている名前が、あさり先生の声によって声高らかに呼ばれます。その度に皆が声を出します。
「花海咲季さん。」
「はいっ!」
何が起こっているかなんて、まるで分かりません。夢ではないのに、夢以外には有り得ません。
有り得ない。けれど。
「藤田ことねさん。」
「はい!」
これは神様に与えられた、一世一代のチャンスなのでしょうか。
─────
1年1組、藤田ことねさんには二人のプロデューサーが付いています。1人目は、生徒会長にして現在の
2人目は、私。仮にこれが夢でないとしたら、20歳のまま、まだ藤田さんが初星学園にいた頃に戻ってきてしまったらしい、秦谷美鈴です。
「まずは私たちにプロデュースを任せてくださったこと、本当にありがとうございます。」
「いえいえ!なんたってあのトップアイドル、美鈴ちゃんのスカウトですから!むしろ、ありがとうございますっていうか……」
「まあ。お褒めいただき嬉しいです。」
訝しげに顔を覗く藤田さんに、私は最大級の笑顔で返事をしました。
数日前、入学式が終わった後の私はすぐに生徒会室へと向かいました。そこで星南会長を仲間にし、スムーズに藤田さんのスカウトに成功したという訳です。
プロデュースするからには、全力を尽くす所存です。最悪な未来を回避できたとはいえ、まだ桜の舞うスタートラインに立っただけの話です。この春、中頃の梅雨、HIF本戦を迎える夏までに、彼女を稼げるアイドルに育てる必要があります。私はあらかじめ考えていた方針を藤田さんに告げました。
「ではまず、一ヶ月半以内にアルバイトを全て辞めてください。」
「ムリで〜〜〜〜す♪」
即、断られてしまいました。
「………」
「………」
じとりと見つめていると、元気いっぱいに笑みを浮かべた藤田さんの顔を徐々に汗が伝い始めます。そして、笑顔のまま彼女は抗議を始めました。
「あのぉ、全部は勘弁してもらえませんか……?あたし、昨日雇ってくれたバイトもあるんで……」
「では、そのバイト以外全て辞めましょう。」
「極端すぎますってぇ!!」
しばらく口論した結果、昨日始めたらしいアルバイト以外は一ヶ月後に辞めてもらい、代わりに私が提示した学園内の仕事を受けてもらうことで合意しました。
マシになった、と喜ぶべきでしょう。私が知っている藤田ことねさんは、バイトに専念するあまり学校を辞めてしまったのですから。しかし、彼女にかかる負担は依然として重たいまま。
(ならば、こちらにも考えがありますよ)
私はあることを決め、職員室に向かいました。
「……ふぅ。つっかれた~~!」
寮の敷地内に入ると、あたしはすっかり真っ暗闇に染まった空にぐぐぐと両腕を伸ばした。スマホを開くと、時刻は20時半。吐いた溜息は夜に吸い込まれて、影も見えないあたしに孤独が纏わりついた。
「学園生活始まったって感じするなぁ……っと。」
独り言を呟きながら、玄関の人工的な光に向かって歩く。異変に気付いたのは、自分の部屋の前に立った時だった。
「えっ?」
明かり、ついてる。
鍵、開いてる。
出る前にちゃんと電気消したから、電気代が、とかそういう怖さじゃないと思う。あたしの頭の中は一気に警報をけたたましく鳴らした。他の寮生?それともストーカー?ドアを開けた瞬間、不審者と出くわすとか?
「………………」
どうしよ、滅茶苦茶怖い。多分真っ青な顔をして、しばらく立ち尽くしていた。とりあえず寮の管理人さんに尋ねに行こうと思って、音を鳴らさないよう慎重に忍び足をした。これが犯罪的な何かではないことを信じて。
そして数分後。あたしはずかずかと大股で歩き、勢い良く自室の扉を開いた。
「プロデューサーっ!!あたしめっちゃ怖かったんですけど!?」
「まあ。そんなに騒ぐと響きますよ、藤田さん。」
スーツの上にエプロンを着て三角巾を被った元トップアイドル、美鈴ちゃん。机に料理をずらりと並べているこの人は、どういう訳かあたしのプロデューサーだ。
「わざわざ寮に入る許可貰って、どういうことですか!」
「帰ったらまず手洗いうがいですよ、藤田さん。料理が冷めないうちに、一緒に食べながらゆるりと話しましょう?」
「うっ……。説明してもらいますからね。」
あたしは洗面所に行って、ばしゃばしゃと手を洗い、ついでにこの現実が夢かどうか確かめるために顔を洗った。
うん、夢じゃない。にっこり笑顔の美鈴プロデューサーが、あたしを待ってる。
席に着くと、お米も味噌汁も焼き魚もまだ湯気が立っていた。グリルも無いのにどうやってですか?と聞くと、焼き魚はフライパンでも作れるということを初めて知った。目の前に座ったプロデューサーと、美味しそうな和食に感謝を込めて、あたしは手を合わせた。
(……うま〜〜っ!)
口に運んだサバの塩焼きは脂が乗ってて米とよく合う。思わず顔が綻ぶくらいだった。白味噌で作られた味噌汁を一口飲むと、ほっこりと落ち着くような味わい。そうしてあっという間に完食してしまったあたしを、プロデューサーは黙ってじっと見つめていた。
「ごちそうさまでした!めーっちゃ美味しかったです!」
「お口に合ったようで良かったです。ふふ、何か忘れてませんか?」
「え?……あっ、どうして晩ご飯作ってくれたんですか?」
すっかり頭から抜けていたけれど、あたしは聞いた。困惑とかはいつの間にか消えちゃってる。どうやら、プロデューサーはこれから学校のある日は毎夜寮に来て、あたしのバイトの疲れとかを癒したいようだった。
「いや〜。ありがたいんですけど、流石に毎日は〜……」
入浴剤が溶けたお風呂に浸かりながら、あたしは抗議した。
「プロデューサーも大変じゃないですかぁ?こんなお世話みたいなことを毎日……」
ドライヤーで髪を乾かされながら、あたしは大きな欠伸をした。
「疲れちゃいますよぉ〜……」
歯磨きをした後、ベッドに寝転んだあたしは、瞼がどんどん重くなるのを感じながら、プロデューサーにふにゃふにゃと言った。
「おやすみなさ〜い……」
はい、と優しい声色の返事が聞こえる。ぱちっと電気が消えて、同じようにあたしの意識は沈んだ。
ぴぴぴぴぴぴ、と目覚まし時計の鳴き声が聞こえる。実家で使っていたもので、これがあればすぐに目を覚ませる。確認もせずに手を伸ばして、あたしはうるさいアラームをぴたりと止めた。
こんなにぐっすり眠ったのも、疲れが一切無いのも、久しぶりかも。せっかく早く起きられたし、あたしはランニングに行くことにした。
(……おおおおおおお!?)
びっくりしたのは、嘘みたいに手足が速く動くことだった。身体中から力がみなぎってくるような感覚。洗っても洗っても取れないようなしつこい疲れが、綺麗さっぱり消え去っていた。
「身体かっる〜〜〜〜〜〜!!」
「ことね!?待ちなさい!」
途中で追い越した星南ちゃんと何故か勝負になって、それは結局負けたんだけど。汗だくになった二人で一緒に笑って、素直な気持ちで握手をすることができた。
それからのレッスンも凄かった。振り付け自体は完璧に覚えていたので、あとはあたしが100点満点のダンスをするだけ。張り切って踊ってる最中、プロデューサーと、何故か星南ちゃんも見に来てくれた。
(プロデューサー!いつもよりめーっちゃ踊れますよ!あたし、本当に才能あるのかも!)
最後の決めポーズでレッスンは終わり!珍しくダンストレーナーさんが褒めてくれた。誰かに認めてもらえるのって、すごく嬉しい。ちらりと美鈴プロデューサーの方を見ると、彼女はにこりと微笑み返してくれた。
─────
あの日の出来事はよく覚えています。
放課後、まだ1年生だった私が何も知らないまま生徒会室のドアの前に立つと、微かに会長の声が聞こえてきました。
お取り込み中でしょうか。そう思いつつ、気になって少しだけドアを横に引くと、よりはっきりとした声が聞こえます。
「──ことね。違うの、冗談なんかじゃないわ。励ましでも、お世辞でもない。あなたには比類なきアイドルの才能があるのよ。」
途端に背筋が冷えた私は、すぐ横に隠れました。盗み聞きだなんて、やましいことをする趣味はありません。けれどこの時、この時だけ、私は立ち去ることができませんでした。
「……すみません。劣等生のあたしには、どうしてもその言葉を信じられないです。」
言い争いをしたあの日より、彼女の声は幾分か弱々しく聞こえました。生気の抜けたような声に、私は耳を澄ませます。
「お願い、お願いよ……あなたが
"あなた、アイドルになる気はあるんですか?"
先日放った心無い言葉が、私の首を絞めて息をしづらくしていきました。心臓がどくどく鳴りました。
「あなたの事情は、今更ながら知ったわ。……その……家計が苦しくて、来年の分の学費を自分で稼いでいたそうね。今まで知らなくて、本当にごめんなさい。辛かったでしょう?私に任せておきなさい。だから、ね……」
動悸はピークに達しつつあります。呼吸が速くなりました。いつ気付かれても可笑しくないくらいに、激しさを増しました。
「……星南会長。大好きなアイドルっていますか。」
しばらくお互いに沈黙した後、藤田さんの空元気を纏ったような声が聞こえてきました。
「あたしにはいます。……ちっちゃい頃からずっと見てきて、大好きで、憧れで、あたしより少し年上の子で、本当に可愛くて……。あぁ、あたしもこんなアイドルになりたいなって。」
藤田さんはとても嬉しそうに語りました。星南会長は今、どんな顔をしているのでしょうか。
「お願いします。大好きなアイドルの足を引っ張るなんて、そんなに辛いことは他に無いです。」
最早、会長はどんな言葉をかけることもありませんでした。静まり返った生徒会室で誰かが歩く音が響きます。
扉のすぐ近くで、藤田さんが言いました。
「あたし、大人になっても星南ちゃんのライブに行きます。……大好きです!」
ガラガラガラ、と音がしました。私と真逆の方向に走っていった彼女の背中を見つめます。気付かれなくて、良かったのでしょうか。盗み聞きをしていたことが後ろめたく、声は出ません。
会長の啜り泣く声と共に、走り去る彼女の後ろ姿が、癒えることのない深い傷を私の中に残す予感がしました。
2024年、6月。
あの頃より少し背が伸びました。窓に目を向けると、激しい雨が降っています。視線を戻すと、ここはボイスレッスン室。
「ひとつ〜の〜ゆぅーめー、かーなーえーたいっ、おもーいはぁ〜きっとぉ〜〜〜〜!!」
目の前には息切れしてしまうくらいに激しく歌うまりちゃんがいました。
先日、突然頼みがあると藤田さんが言うので、膝枕と耳掻きを所望するのかと思えば、それらは冷静に否定されました。どうやら藤田さんと同じクラスメイトが私のファンで、レッスンの様子を見てもらいたいらしいのです。私は快く承諾しました。それがまりちゃんだったとは露知らず。藤田さんは用事があるとのことで、必然的に私たちは二人きりになりました。
「ハァッ……ハァッ……!どうでしたか……!」
「とてもお上手でしたよ。ただし、最後の方は息が切れてしまっていました。他にも、いくつか指摘してもよろしいでしょうか。」
「はいっ……!」
かつてりんちゃんが指導していたように、私は彼女に具体的なアドバイスをいくつかしました。お手本として私が歌ってみると、彼女は食い入るように私を見てくれます。
(相変わらずの頑張り屋さん。)
もう一度歌ってぜぇぜぇと息をしているまりちゃんを見つめると、どうしても元の世界を思い出してしまいます。だから私は、今まで彼女やりんちゃんを避けていました。
「サインありがとうございますっ!!」
「いえいえ」
けれど、こうしてまりちゃんに尊敬されるのは悪い気分ではありません。一抹の寂しさはありますが。
「あのっ!」
レッスン室を出ようとした時、突然まりちゃんが思い出したように私を呼び止めました。喉が一瞬詰まるような感覚がして、それが治りきらないうちに私は振り返りました。
「あの……別に、頼まれたとかじゃないんですけど、どうしてことねをプロデュースしようと思ったんですか?えっと、ことねに頼まれたとかじゃないんですけど……」
(頼まれましたね)
生徒会室で書類の分類を手伝いながら、そう思いました。
私が藤田さんをプロデュースする理由。まりちゃんに頼んでまで知ろうとするのは、分からない話でもありません。4月1日、アイドルを諦めたはずの藤田ことねさんをもう一度見つけたあの日、私は一番星をお供に連れて彼女をスカウトしました。彼女からすれば有り得ない話でしょう。私なら夢だと思ってその場でほっぺたを引っ張ります。
初星学園の入学式で実際にそうしたのが私でした。あの時も、今だって頬に痛みはあります。だから、夢とは違うような気がします。しかし、この世界はなんなんでしょうか。過去に戻ったにしてはおかしな点がいくつもあります。例えば、学生の頃の私がいない。記憶に覚えのない自分のライブ映像がたくさんある。皆、私がプロデューサーも付かずにソロでトップアイドルになったのだと思い込んでいる。都合の良いように、現実が歪められている。
(………)
重いため息を吐き、再び仕事に集中します。考えても分からないのなら、考える必要はありません。今は、過去に戻ったのだと仮定し、藤田さんをトップアイドルにします。
生徒会室の仕事が終わっても、雨はザーザーといやに降っています。まだまだ梅雨は続きそうです。学生の頃は、雨粒が鉄骨造に降り注ぐ音を聞きながら、ぐっすりと眠れるこの時期が好きでした。今はうたた寝する暇などありません。
(明日は、次の仕事の説明と、HIF本戦で使用する曲と衣装について、それから……)
頭がぼうっとしてきたので、少しだけ廊下で立ち止まりました。やけに疲れているような気がします。こういう時は、何も考えずに窓の外の景色に目を向けてみましょう。
雨粒が次から次へと窓を叩き、落ちていくのを繰り返します。中庭のベンチはびしょ濡れで、今あそこで居眠りをすれば風邪を引いてしまいそうです。
(……?)
一瞬、頭が理解を拒みましたが、傘も差さずにベンチに座っている人物を二人見つけました。お昼寝をしているのではありません。一人は笑顔で、もう一人は微笑み程度。どちらも私に向かって手を振っているように見えます。
それが、私のよく知る人たちに見えて、やはり頭が理解を拒みました。
(……えっ……)
ここにはいないはずの、親友たち。
咄嗟に私は地面を蹴って、廊下を走り出しました。
必死になって、学園の決まり事を破って、すぐ靴に履き替えて、重いガラス張りのドアを横に開いて、傘置き場に目も向けず必死に駆け出します。私を濡らす土砂降りの雨など、関係ない。一番会いたかった人たちの元へと腕を振ります。もう二度と会えないかも知れない人たちの名前を叫びながら足を動かします。
「まりちゃんっ!りんちゃん!!」
足を滑らせそうになりながらとうとう中庭まで辿り着きます。そこにはもう、人の気配はありませんでした。
「えっ……?」
全身から力が抜け落ち、膝から崩れ落ちそうになってしゃがみました。けたたましく降る大雨が、彼女たちのいた痕跡を塗り潰したように思いました。
(……幻覚?)
ハァッ、ハァッ、と荒い息を繰り返します。同時にお昼に会った学生のまりちゃんが頭に浮かびます。彼女は、私の知るまりちゃんじゃない。彼女を迎えに来た燐羽も、燐羽じゃない。幼馴染じゃなくなって、SyngUp!の全てが無くなってしまっただなんて、受け入れられるはずがない。
先程見えた二人は幻だったのでしょうか。ならば、やはりこれが荒唐無稽な夢である証拠に他ならない。夢なら良かった。いつか覚める。でも、いつ覚めるんでしょう。
私が藤田ことねさんをプロデュースする理由は、私の言葉が彼女にアイドルの道を諦めさせた、その償いをするためです。
ならば、全て償うことができたのなら。
彼女をトップアイドルにすれば、この夢を終わらせることができるのでしょうか。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……」
案の定、雨に濡れた私は風邪を引いてしまいました。おでこを触ると、異常なほどに発熱しています。
とりあえず、本日休むこととレッスンのメニューの連絡を藤田さんにしました。それっきりスマホも見ずに、私は自室の布団で横になります。夏のHIF直前という大事な時期です、何とか今日中に治さなければ。
しばらく咳き込んでいると、ピンポーン、と何故かインターホンが鳴りました。
(誰……?)
気怠い身体を起こし、私は映像を見て訪問者をチェックします。
そこには、大きな帽子やサングラスやマスクを付けた担当アイドル──藤田ことねさんがいました。
(……!?)
かなり驚きましたが、とにかく私は外していたマスクを付け直し、急ぎ人に会える最低限の取り繕いをして一階に降りました。合流して、サングラスを外した藤田さんが囁くような小声で言います。
「すみません、身体辛いのに出迎えさせちゃって……看病しにきました!」
がさっと両手で差し出されたレジ袋には、スポーツドリンクやらゼリーやらが沢山入っていました。以前、私は1stライブ記念パーティーに彼女と会長を自室へ連れてきたことがあったので、その記憶を頼りに来たのでしょう。咳をしながら私はガラガラ声で言いました。
「遠かったでしょう……?お気持ちはありがたいですが、あなたに風邪が感染ってはいけません……」
「大丈夫ですって。マスクしてます!手洗いもします!バイト減らさせてくれたおかげで、ちゃんと寝てるし体調も万全ですっ♪」
このような調子でしばらくいたちごっこを繰り返しましたが、結局私は折れて彼女を部屋にあげてしまいました。
「お邪魔しま〜す……」
自室に帰った途端、部屋の清掃を怠っていたことにはっと気が付きました。転がっている空のペットボトル、脱ぎ散らかされたパジャマ。プロデューサーとして情けない部屋を、藤田さんは特に気に留めずにキッチンへと向かいました。
「……失望したでしょう。」
「へ?何がです?」
「プロデューサー失格の部屋です。」
「……風邪引いてるし、急にあたしが来たんですよ?メール見れないくらいヤバかったなら当然です。むしろ安心しました!」
そう言われ、のそのそとスマホを取りに行ってみると、藤田さんの心配するメールが何件も届いていました。会長からも2件ほど。
「プロデューサーは頑張りすぎです。スケジュール管理もライブの調整もしてくれてるのに、あたしの世話までしてくれるなんて、至れり尽くせりじゃないですか。そりゃ身体壊しますって!ゆっくり休んじゃってください!」
「……はい。」
キッチンで料理をしている藤田さんの言葉に、私は心配をかけてしまったと反省しました。会長に返信しつつ、貰ったポカリスエットを飲むと少しだけ楽になります。包丁がとんとんとんとまな板を叩く音が、妙に心地良く聞こえる気がしました。
「はい!召し上がっちゃってください!」
「……いただきます。」
机にことりと置かれたのは、ネギを散らした卵がゆでした。私は両手を合わせた後に膝の上に置き、しばらくの間そのままでいました。
「あーんってしましょうか?」
突然、冗談なのかよく分からない提案を彼女はしてきました。しかし、私の身を案じての言葉だとすぐに分かりました。確かに、先程から頭がぼーっとして、腕も上手く動かせない。ならば、仕方が無い。そう自分を納得させて、私は彼女の提案を受け入れました。
木のスプーンで掬われた一口目が、何度か息を吹きつけられてからそっと口に運ばれます。
「……どーですか?」
出来立ての卵がゆは、火傷するくらいに熱いです。熱で口の中がじんじんと痛み、味はよく分かりません。
けれど、彼女の好意を咀嚼したくて、私は匙を咥えたままでいました。
「………」
藤田さんの顔をちらっと覗くと、少し顔が赤くなっている気がしました。そういえば、粥を冷まして私に差し出すため、彼女は一時的にマスクを外していた。移りますよ、とすぐにマスクを着けなおさせ、彼女から匙を受け取りました。
(誰かにお世話をされるだなんて、いつぶりでしょう……)
ゆっくりと、彼女の作ってくれた卵がゆを一口ずつ味わいます。喉の奥に流れ込むたび、じんわりと胸が暖かくなっていきました。
「とても美味しいです。元気が出ます。」
「よっしゃあ!!いつも世話してもらってるお返しですよ、
突然、藤田さんから一度も呼ばれたことのない呼称を耳にし、私は顔を上げました。目が合った彼女は、しまったという顔をしてから苦笑いをつくりました。
「あっ……その~、あたし昔からファンで………プロデューサーってそう呼ばれてたんでぇ……すみません!」
「……いいですよ、美鈴ちゃんで。」
「いいんですか!?」
彼女が大きな声を出すのを横目に、私はスプーンを口に運び続けました。米粒ひとつ残らず完食できて、ほっと肩をなでおろします。ほんの僅かに食欲が戻ってきたみたいです。ごちそうさまでしたと手を合わせるときも、用意していた解熱剤を水で喉に流し込んだ時も、藤田さんはじっと私を見つめ続けていました。
「あの、質問していいですか。具合悪いならやめときます。」
「大丈夫ですよ」
私が返事をすると、彼女はしばらく黙ったままでいました。やがて、意を決したように彼女は言いました。
「……美鈴ちゃんは、どうしてあたしをプロデュースしようと思ったんですか?」
「………」
言葉を受け取り、返事を考えた後、私は彼女を見つめ返そうとしました。しかし、頭が熱いせいでしょうか、視界がぼやけて、目の前のアイドルがよく見えなくなってしまいました。
例えば、風邪をひいてしまった私の看病をしていたのは、他のアイドルだったかもしれない。自分が担当アイドルでなければならない理由が、思い浮かばない。あなたはずっとそう思っていたのでしょうか。
ならば、断言しなければなりません。あなたの代わりなんて決していないことを。プロデューサーとして、そのような不安を抱かせたことを恥じなければならない。解熱剤が効いてきたのか、ようやくあなたの自信無さげな顔がはっきりと見えました。
「ことちゃん。」
「ことちゃん?」
「これは過言ではありません。あなたは私と同じくらい、アイドルの才能があります。」
最初にその才覚に気付いたのは、星南先輩でした。しかし2番目は私です。2番目は誰にも譲らない。夢から覚める、出張に行く、事故が起きる、何かが起きる──仮に、私の身に何かがあった時、先輩以外に藤田ことねさんを任せるつもりはありません。
「だから、あたしを?」
「それだけではありませんよ」
げほっ、げほっ、と咳をしながら、私は自分の腕を枕にして、うつ伏せになって机の上で目を瞑りました。
「昔……学園を退学してしまった人がいたんです。毎日アルバイトで身を粉にして、周りには何でもないフリをして、授業は居眠り、レッスン中は倒れるような……放っておけない人でした。」
熱を逃すように呼吸をしながら、私は話を続けます。
「そんな彼女に、私はひどい言葉を掛けてしまいました。きっと、それが原因になったのでしょう。彼女は初星学園を自主的に退学し、二度と会うことはありませんでした。」
頭に血が昇っていくのを感じながら、黄色い髪をした少女の遠ざかる背中を思い浮かべます。
「後から、何もかも分かったんです。あの子は重たい借金を背負っていた。身に余る学費を、自分だけの力で稼ごうとしていた。……気付いた時には、もう遅かった。」
今なら、私の目の前でさえ泣きじゃくっていた星南先輩の気持ちが痛いほどに分かります。身近にいながら、彼女の抱える苦しみに最後の最後まで気付けなかった。彼女を救うプロデューサーになることが叶わなかった。
だから、これは贖罪なのだと。雨に打たれながら私は思っていました。
けれど、あなたは傘を差した。風邪を引いた私を看病するために、ここまで来てくれた。心配なのか、あるいはそういう立ち回りなのか。しばらくプロデュースを続けて分かりましたが、彼女は意外と打算的な人物です。
どれでも構いません。何があっても、私はあなたの側にいるでしょう。
いつか夢が終わるまで。夢でなくともいいとさえ思える。彼女というアイドルが、失われていいはずがありません。そして償いなど関係なく、あなたに笑ってもらい、私も笑っていたい。
振り絞った力で顔を上げ、あなたを安心させるように、私は微笑みました。
「私は、あなたを救うために、プロデューサーになったんです──」
そしてベッドの上で目が覚めました。
薄暗い部屋の中にいました。ゆっくりと立ち上がって、恐る恐るカーテンを開けると、眩しい陽の光が私の瞳孔を刺激します。
ここは別の世界。藤田さんがアイドルを諦めなかった、眩しい世界。ほっぺたを摘み、夢ではないことを確かめて、一つ息を吐きました。
熱は嘘のように消えていました。藤田さんもまた既に部屋から。いつ帰ったのでしょうか、昨夜の記憶が全くありません。
「……着替えましょうか。」
その言葉でスイッチを入れたように私はてきぱきと動きました。お風呂に入り、顔を洗い、寝癖を直し、スーツ姿に着替え、ネクタイをきゅっと締めます。鏡に映った私は、病熱と共に憂いが祓われたように見えました。
にこりと微笑み、洗面所を後にします。
この日、私が復帰した時から、藤田さんのアイドルとしての成績は全く伸びなくなりました。