蛇と鈴 ーYou, at the End of Darknessー   作:田麦野

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異物としての痛みを抱える少年少女は、惹かれ合う運命にあった。
悲しみを知っているからこそ人を赦せる。
少女は、その"無意識"の優しさを覚えている。


第一章 孤児院の日々
第一話 雨の日に


ウール孤児院の石造りの壁は、いつも湿っていた。

夜の雨が明ける頃には、通路の隅に冷たい水滴が残り、誰もがその冷たさに慣れきっていた。

――鈴もまた、そのひとりだった。

両親の記憶はほとんどない。

彼女に残されたのは、名の知らぬ街と、黒い髪と、黒い瞳。

肌の色と顔立ちのせいで、鈴は“よそ者”として扱われていた。

彼女の食器だけが離れた棚に置かれ、寝台も隅に追いやられていた。

それでも、鈴は黙って笑っていた。

笑っていないと、誰かの標的になるからだ。

けれどその日、耐えきれずに声を上げた。

年上の少女たちに囲まれ、手にしていた古びたノートを奪われ、床に叩きつけられた。

鈴が拾おうと身をかがめた瞬間、冷たい水が顔にかかった。

バケツの水――嘲笑。

胸の奥が焼けるように痛んだ。

「やめろ」

その声が、部屋の空気を凍らせた。

声の主は、トム。このウール孤児院で生まれ、育った少年である。

黒髪を無造作に撫でつけ、他の子どもたちを射抜くような灰色の瞳。

彼は孤児院の誰もが恐れる存在だった。

怒らせると、奇妙なことが起きる――と皆が噂している。

「彼女の何が気に入らない?」

トムの年頃にしては低い声が響く。

誰も答えられなかった。

次の瞬間、鈴を笑っていた少女の襟首を見えない力が掴み、背後に弾き飛ばした。

悲鳴。床に落ちる水音。

「次にしたら、もっと痛い目を見せる」

その言葉とともに、トムは鈴のノートを拾い上げ、彼女に手渡した。

鈴は言葉を失ったまま、彼を見つめる。

彼の指先は細く、冷たそうで、それでいて震えていた。

「……ありがとう」

ようやく絞り出した声は、雨音に紛れた。

トムは返事をしなかった。

ただほんの一瞬、視線が交わった。

彼の瞳の奥には怒りよりも、どこかに似た孤独があった。

 

 

それから、鈴はトムを“観察する”ようになった。

食堂の隅で本を読む姿。

裏庭で誰とも話さずに立っている背中。

彼が他の子たちから距離を置いているのは、きっと自分と同じだからだと思った。

だが、トムの噂は鈴の耳にも届いていた。

「奇妙なことを起こす」「蛇と話す」「目が怖い」。

――けれど、鈴にはわかった。

彼が何かを“守ろうとして”力を使っているのだと。

誰にも理解されず、誤解されるその孤独を、鈴は痛いほど知っていた。

ある日の午後、鈴は洗濯場の裏で偶然その場面を見た。

トムが一匹の蛇を相手に、シューシューと低い声で何かを囁いている。

蛇はトムの足元をくねらせ、まるで友人のように穏やかに寄り添っていた。

「……しゃべってるの?」

思わず漏らした鈴の声に、トムが振り向いた。

灰色の瞳が鈴を捉え、蛇がするりと影に消える。

「見たのか。」

「うん。……でも、怖くないよ」

トムの表情が揺れた。

鈴は一歩近づき、言葉を続ける。

「誰にも言わない。秘密にする。

 あなたの声、すごく静かで、蛇が安心してるみたいだった。」

「……普通は、気味が悪いって言う」

「普通って、みんなと同じって意味でしょ?

 わたし、みんなと同じがこわいよ」

その一言に、トムの唇が僅かに動いた。

笑ったのかもしれない。だが、それは冷たいものではなく、

どこか困惑に近い微笑みだった。

それから、二人はときどき話すようになった。

夕食のあと、廊下の隅で。

外の雨を見ながら。

トムは鈴の前で時折り、力を隠さずに使っていた。

鈴は、トムの力を魔法みたいだ、と恐れずにいう少女だった。

鈴は、トムに質問を投げる。

「魔法って、どんな気持ちで使うの?」

「……気持ち?」

「うん。嬉しい時とか、悲しい時とか、違うのかなって」

トムは少し考えてから言った。

「使うのは、いつも同じだ。

 力があるなら、使えばいい。支配されないために」

「でも、力が優しく使えるなら、きっと強いと思う」

「優しい奴は、弱い」

「優しいから、痛みを知ってるんだよ」

言葉が重なり、空気が静かになった。

トムは目を逸らしながら、小さく呟く。

「……君は、変わってる」

鈴は笑って答えた。

「あなたも」

密かな交流は毎日続くようになった。

荒んだトムの心に、鈴のまっすぐな言葉は、孤児院の他の子どもたちやうるさい大人たちよりもずっとずっと心地よいものだった。

 

 

ある日、トムが何気なく言った。

「その結び方、似合う」

それだけの一言。

けれど鈴にとって、それは生まれて初めて“褒められた言葉”だった。

鏡の前で髪を整えるたび、その声を思い出す。

今日もおさげにしよう。

毎朝鏡を見るときは、少しだけ心が躍った。

しかし、鈴にはひとつの秘密があった。

自分の力――癒しの力。

それは彼女の身体に宿る“異質なもの”だった。

転んでも、擦りむいても、夜のうちに傷が消える。

最初は奇跡だと思った。

けれど次第に、それを見た子どもたちが囁き始めた。

「気味が悪い」「化け物」。

鈴は泣かなかった。泣いたら、本当にそうなる気がした。

だから、トムにも言わなかった。

――彼まで自分を怖がったら、もう誰も信じられなくなるから。

その夜、鈴は自分の手のひらを見つめた。

指先に淡い青白い光が揺れる。

それは炎のようで、氷のようだった。

静かに閉じた手の中で、光は消える。

「……この力は、わたしだけの秘密」

鈴はそう呟いて、窓の外の雨音を聞いた。

遠くの廊下では、トムが足音を立てて歩いていた。

その音が、鈴の胸の奥で、小さく灯りをともす。

でも、いつか言えるといいな。

本当の自分を受け入れてくれたら、どれだけ嬉しいんだろう。

今度は心の中だけで呟いて、鈴はそっと目を閉じた。

 

 

 

 




トム・リドルという悲劇の少年に、たった一つでも“理解してくれる手”を差し伸べたい……。
「力ではなく、赦しで世界を変えることができるか」は、ハリーポッターという作品を読む中で物語の中核を捉えたテーマであると考えています。これはトム・リドルの生涯そのものの“反転”となりえます。
今作の主人公となる鈴という少女は、「彼の中のヴォルデモートを否定するのでなく、抱きしめる」存在として作れないかと模索したキャラクターです。数々の大作に影響を受けながら私なりの救済の物語を目指していきたいと思います。お付き合いください。
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