蛇と鈴 ーYou, at the End of Darknessー   作:田麦野

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鈴が孤児院に来たのは、1937年が始まったばかりの頃。幼い見た目の割に端正な英語を話すアジア人。両親と生き別れて孤独の中に生きる彼女は、強かにも温かい言葉を扱うことができた。


第六話 初めの宝物

孤児院の午後、風は冷たかったが陽は暖かく、

子どもたちが遊ぶ声をよそに、トムは1人だけ離れたベンチにいた。

 

鈴はその隣に、ためらうように腰をおろす。

手には、孤児院の図書室から借りてきた古い絵本。

 

「トム。ここで読んでもいい?」

 

返事はない。けれど、拒絶でもない。

トムはただ横顔のまま、少しだけ視線を落とした。

そこには、年長の子どもがふざけて書いた落書きがあった。

 

“TOM is BORING”

(トムはつまらない)

 

大した言葉ではない。

だがそれは、彼の苛立ちを正確に刺していた。

トムは紙を丸めて捨てようとしたが、鈴が手を伸ばしてその手を止めた。

 

「……放っておけばいい」

 

トムが言うと、

鈴は小さな声で首を横に振った。

 

「放っておけないよ。トムが、少し傷ついてる」 

 

その言葉に、トムの灰色の瞳が鋭く揺れた。

 

「傷ついてなんかいない。ただ──」

 

彼は言葉を探し、吐き捨てるようにいう。

 

「つまらない名前だと思ってるだけだ」

 

「トムなんて、どこにでもいる。いつもそう言われる。目立たないし、特別でもない。……鈴みたいに変わった名前じゃない」 

 

口ではそう言うのに、どうしてか鈴にだけは、真正面から否定されたくなかった。

鈴はしばらく彼を見つめ、静かに笑った。

 

「変わってる、の基準はね──“その人にとってどう響くか” なんだよ」

 

「どう、響くか?」 

 

トムの眉がかすかに動く。

鈴は、トムが避けてきた“名前”のことをまっすぐ見つめてくる。

そんなの、誰にもされたことがない。

鈴はページを開きながら話し始める。 

 

「わたしの名前は、両親が“魔除けと幸福の祈り”をこめてつけてくれたの。鈴(すず)は、悪いものを追い払い、良いものを呼びこむ音だって」

 

鈴が語る“両親の愛情”は、彼の世界には存在しなかった概念だから。

鈴は否定しなかった。ただ静かに、少しだけ寂しそうに。

 

トムが、ゆっくり鈴の方を見た。

鈴は自分の胸元の小さなネックレスを指先でつまむ。そこには、小さな金色の鈴――ベルが揺れている。

 

「……でも、わたしは事故でひとりになった。魔除けなんて、幸せなんて……ないと思った」

 

鈴は、ゆっくりトムの見ている紙くずを拾った。

 

「それでも、名前は残ったままなんだよ」

 

鈴は俯いたまま、祈るように言う。

 

「名前ってね、子どもが親からもらう最初の宝物なの」

 

トムの目がわずかに細められる。

 

「だから、“平凡だから嫌い”っていうのは……宝物が気に入らないから投げ捨てる、みたいで、ちょっと、もったいない」

 

その言葉はトムの胸に、聞いたことのない形の痛みとして沈んだ。

 

「そんなの、誰かの勝手な押しつけだろ。ここにいる子どもは皆、名づけ親のいない不良品なんだ」

 

トムはその言葉を跳ね返すように、いつものように皮肉を込める。

親からの愛情を語る言葉を、憎んでいたはずなのに、鈴の言葉は痛むどころか、静けさを落としていく。トムは俯いた。

 

「僕の名前に意味なんかない。ただの、平凡で……つまらない響きだ」

 

鈴は首を振った。

その動きはとても小さかったが、揺るぎなかった。

 

「意味はあるよ。トムって、もともとヘブライ語で“誠実な人”って意味なんだって」

 

トムは静かに息をのみ、鈴を見つめた。

鈴は目を瞬く。トムは照れ隠しに視線をそらす。

 

「知っている。……イエスの使徒にも“トマス”っていた。裏切り者扱いされたこともあるけど、最後は真実を確かめた勇気ある弟子、って…そう書かれてた。」

 

「へえ……」

 

鈴の声には驚きと、どこか誇らしさが混ざっていた。

 

「でも、そんなの……僕には似合わないだろ?」

 

冷めた言葉だった。けれど、否定してほしい小さな子の声にも聞こえた。

鈴はゆっくり首を振る。

 

「たくさんの人に選ばれてきた名前なのは、それだけ大切な響きだからなんだよ」

 

鈴の声は小さいけれど、はっきりと響いた。

まるで──胸の奥で、小さな鈴が鳴ったように。

トムは静かに息をのみ、鈴を見つめた。

鈴は、胸に手を当てた。

 

「でもね」

 

風が鈴のネックレスの小さな“ベル”を揺らし、

ちり、と音が鳴る。

 

「わたしにとっては……世界に何万人いても、何百万人いても、“トム”はあなただけだよ」

 

トムの息が止まったように見えた。

鈴は続ける。

 

「わたしが呼んでいる“トム”は、正直者でも、強い人でも、使徒の名前でもなくて……」

 

鈴は、まっすぐ彼を見た。

 

「ひとりぼっちのわたしに優しくしてくれた、たった一人のあなたの名前。」

 

トムの目の奥で、何かがかすかに崩れ、何かが芽生える。

そして、丸めた紙を握りつぶし、投げ捨てる代わりに、そっと自分の胸ポケットにしまった。

 

「……鈴が言うなら、“トム”も……悪くない。」

 

「うん。わたしも、そう思う。」

 

その日、トムは初めて──自分の名前が“自分だけのもの”に感じられた。

そして、誰かの声で呼ばれる「トム」という響きを、ほんの少しだけ好きになった。

 

「……鈴」

 

トムはかすかに笑った。

笑ったというより、“名前が痛くない”ことに驚いている顔だった。

 

「お前が呼ぶなら……悪くない」

 

鈴の瞳がふっとやわらぐ。

 

「うん。これからも呼ぶよ。わたしの、たった一人のトム」

 

 




神話、民話、伝承、名前を呼ぶことが大きな意味を持つことは古来から数多の例があります。
名付けの意味もそれを呼ぶことも、ハリーポッター作品では意図を持って表現されています。この世界でも、最大限大切にしたいと思います。
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