蛇と鈴 ーYou, at the End of Darknessー 作:田麦野
頭がいいので、人の心が考えられないわけがない。
そこに思考を及ばせれば、手放せないものが見えてくる。
幸せは、いつも目に見えない。すぐそばにある小さなもの。
談話室の空気は冷たいのに、ストーブの表面だけが赤く脈打っている。
夕方の薄闇が越えてくると、孤児院はいつも、色のない箱みたいだった。
鈴が本を閉じると、紙の音すらよく響く。
僕はは丸めかけた紙切れを握り、意味のない文字をにらんでいた。
“Tom is boring.”
いつものことだ。別に腹は立たない──立たないはずだった。
ところが、紙に触れた鈴の手が柔らかくて、その瞬間だけ、何かが刺さった。
鈴と話していると、よくわからない感情になる。
今まで目を逸らしていたものから、温かいものを受け取ることができることを知った。
「鈴みたいに変わってない」と言うと、鈴は首を振って笑った。
あの笑い方が、どうしてこんなに胸に触るのか分からない。
「変わってる基準は、“その人にどう響くか”だよ」
意味のない言葉じゃない。まして、孤児院の誰かに向けた言葉でもない。
僕のためだけに置かれた言葉だった。
そして鈴は、自分の名前の意味を語り始めた。
──“魔除けや幸せを呼ぶ祈りの響き”。
その言葉を聞いた瞬間、僕の背筋に静かに冷たいものが落ちていった。
知っていた。
鈴が鉄道事故の生き残りだということは、職員たちのひそひそ声でとうに耳に入っていた。
「キャッスルケーリーの事故で……あんな小さな子が……」
「両親は即死だったらしいよ」
「でもあの子だけは、奇跡みたいに……」
そんな断片を、僕は遠くから聞いてしまった。
だから、鈴が自分から事故の話を口にしたとき──胸がぐっと締めつけられた。
ああ、この子は……自分の喪失を、正面から言葉にし始めたのか。
誰も触れられなかった傷を、自分の声で確かめようとしているのか。
小柄な身体で。震えるでもなく、涙をこぼすでもなく。ただ、穏やかに、淡々と。それでも十分すぎるほどの勇気だった。
そして鈴は言った。
「名前は、子どもが親からもらえる最初の宝物」
その瞬間、心臓の奥が、思いもよらないほど熱くなった。
宝物?僕の名前が?“トム・リドル”の“トム”が?
そんなもの、誰もくれなかった。
母親が死ぬ時に書いた文字があるだけだ。
それが宝物だなんて、考えたことさえなかった。
だが鈴は、僕の世界の誰も言わなかった言葉を続ける。
「ひとりぼっちのわたしに優しくしてくれた、たった一人のトム」
胸に鈴の音が落ちたようだった。
それは衝撃ではなく、痛みでもなく、でも確かに“響いた”。
呼吸の仕方を忘れるような瞬間だった。
僕はずっと──名前なんて、どうでもいいと思っていた。
孤児院にはトムもジョンもジェニーも山ほどいる。そのうちの一つの音。
けれど、鈴の口から呼ばれると、その一つの音が、途端に“僕のためだけの特別な響き”になった。
“トム”と言われると、胸の奥の小さな部分が、ほんの少し温かくなる。
こんな感覚は知らなかった。
怪奇現象でも魔法でもないのに、俺の世界にはなかった種類の変化だった。
「……鈴が言うなら、“トム”も、悪くない」
ぽつりと落ちたつぶやきに、鈴はふわりと笑った。
──ああ、鈴はきっと“立ち上がろうとしている”。
両親を失った喪失から。異国で抱えた孤独から。
自分の名前の意味を手放さずに、未来に踏み出そうとしている。
その鈴が、俺の名前を肯定してくれた。
なら僕も──ほんの少しだけ、始まってもいいのかもしれない。
“トム”という名前の僕として。
キャッスルケーリーの鉄道事故は、当時実際にあった出来事ですが、アジア人の死亡者については記録がありません。時代考証についてはふわっとしながらもちょっとだけ無理のないようなものを考えています。