蛇と鈴 ーYou, at the End of Darknessー   作:田麦野

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※トム視点
魔法界への道が開けたトム、魔女ではない鈴
少しずつ、別れの日が近づいてくる。


第九話 とっておき

荷造りのために部屋の隅へ積まれていた古い木箱を動かしていたのは、単なる思いつきだった。

ホグワーツ行きの準備は滞りなく済ませているつもりだが、じっとしていると胸の奥がざわつく。

期待でも不安でもない、もっと得体の知れない何か──鈴と自分の距離が変わりつつある、そんな気配に似たものが。

だから僕は、手持ち無沙汰を押し込めるように、誰にも頼まれていない木箱を動かした。

けれど、箱の端は思ったより鋭かった。

指先が滑り、ささくれが皮膚に刺さった瞬間、浅い痛みが走る。

 

「……ちっ」

 

反射的に舌打ちが漏れた。情けないほど些細な怪我だ。

孤児院の誰よりも、こんな傷くらいで弱音を吐く僕ではない。

傷を見るのも嫌いじゃなかった。痛みは、世界に触れた証みたいで──誰より僕を裏切らない。

 

「トム?」

 

振り返ると、廊下から鈴がこちらを覗いていた。

髪の影から覗く瞳は、驚いたような、けれどよく見れば息をひそめた鳥のような色をしている。

僕の怪我に気づくのが、どうしてこんなにも早いのだろう。

 

「別に、大したことじゃない。すぐ治る」

 

言い捨てて、背を向けようとした。

強がりでもなく本心だった。

けれど鈴は恐れることなく近づいてきて、袖をそっと引かれた。

 

「待って」

 

風の音よりずっと弱い声だった。

けれど、不思議なほどはっきりと耳に届いた。

鈴は、ためらうことなく僕の手を取った。

指先が触れた瞬間、空気が変わる。

湿った夏の匂いの奥に、ひどく澄んだものが流れ込んでくる。

鈴の手は温かかった。

人の温度ではあるのに、どこか違う。

水面のすぐ下で発光する藻が触れたような、柔らかく淡い光の質感――それに近いものがあった。

 

「ちょっとだけ……試してもいい?」

 

問うというより、祈るような響きだった。

僕は答えなかった。

ただ、拒まなかった。

鈴の小さな掌が、傷の上に重ねられた瞬間――吸い込まれるように痛みが消えた。

風が、止まったように感じられた。

指先の熱が、皮膚の奥のどこか……もっと深いところで、淡い青白い光になって広がる。

それはきっと僕の魔法と呼ばれるものとは違う。

もっと静かで、もっと秘密めいたもの。

ゆっくりと、自然に傷口がふさがっていく。

鈴のまつげが、うすく震えた。

集中しているのが分かった。

その表情を、僕はどうしてか直視できなかった。

胸の奥が、奇妙な感覚で満たされたからだ。

やがて鈴は手を離した。

指先は少し冷えていて、ほんの少しだけ疲れた色が滲んでいた。

 

「……治った、はず」

 

僕は手を見た。

あれだけ赤く滲んでいた傷は、薄い跡すら残さず消えていた。

 

「練習……してたの。少しだけ」

 

「見ればわかる」

 

短く返しながら、指先をよく観察する。

前より手つきに迷いがなくなっている。

使うたびに、その力は形を整えていくようだった。

だが――だからこそ、胸の奥に冷たい影が差す。

 

「鈴」

 

呼びかける声が、自分でも驚くほど低くなった。

 

「その力、あんまり……人に見せるな」

 

鈴は瞬いた。

 

「……うん、わかってる。トムにも前に言われたし」

 

「ただの怪我でも、おまえがやると“普通じゃない”ってすぐわかる。ここにいる連中は……」

 

口にする前に、言葉が濁る。

嫉妬、噂、排除。

鈴にとってすでに何度も刺されてきた視線たち。

 

「余計なことを言いふらす」

 

その代わりに、それだけ言った。

鈴は小さく頷いた。

その表情は、理解ではなく、受容に近かった。

 

「……とっておきだから。誰にでも見せたりしないよ」

 

そう言った鈴の声は、光に触れた水面みたいに柔らかく揺れていた。

ふと、気づいた。

鈴が先ほどから額に汗をかき少しだけ息を浅くしていることに。

 

「大丈夫か?」

 

「うん。ちょっと疲れただけ」

 

言葉は軽かった。

だが、その軽さが逆に重かった。

 

「……力、使うと疲れるのか」

 

鈴はほんの一瞬、迷うように視線を落とし――やがて、正直に頷いた。

 

「自分の傷を治すより……人の傷を治すほうが、ずっと疲れる。なんでかわからないんだけど」

 

「……そういうものなのか?」

 

「ん……わからない。でも、そうみたい」

 

自分のために使う力と、誰かのために差し出す力。

その差が何なのか、今の僕には説明できない。

けれど、その言葉が妙に胸に引っかかった。

――鈴は、自分の力で人の痛みを引き受けてしまう。

その事実が、なぜか落ち着かなかった。

守ろうとした腕の中から、知らない風にさらわれていくような不安だけが残る。

 

「無理するなよ」

 

抑えきれず、低い声が落ちた。

鈴は静かに笑った。

あどけない笑みなのに、不意に大人びた影が差す。

 

「トムが傷だらけで冒険してくるなら、疲れるかもしれないけど……」

 

そこで言葉を切り、少しだけ照れたように続けた。

 

「でも、トムの傷は……放っておけないから」

 

胸のどこかが、一瞬だけ痛んだ。

その痛みが何なのか、僕は掘り下げようとしなかった。

ただ、手を握り返す代わりに、淡々と告げる。

 

「もう冒険なんてしてない」

 

「知ってる」

 

鈴はやわらかく頷いた。

その小さな頷きが、風に揺れながら胸の奥を温めていく。

僕の手には、もう傷はない。

代わりに、鈴が使った力の“名残り”だけが、皮膚の内側でほのかに熱を灯していた。

これは魔法ではない。

けれど、魔法よりも先に自分の世界を形作った、確かな何かだった。

鈴の力は、とっておきの秘密。

その秘密を守っているのは鈴ではなく、いつの間にか僕の方だったのかもしれない。

 

 

 




この時点でトムは魔法を使って他者を支配することに以前よりも積極的ではありません。
物を盗んだり、動物を操ったり、おおよそ人の道を外れた行動は控えています。鈴の落ち着きや柔らかさがもたらしたトムの変化です。反省はしていないかもしれませんが…
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