第1話 夢の中の『邂逅』
世界はまどろみと覚醒の合間を波間のように繰り返している。
ブゥーン、と低い音と共に煤けた風が吹き抜ける。誰もが寝静まった昏睡の夜に昇る黄金の満月。それらはまるで宵闇の都を睥睨するかのようですらあった。
『こちらでもイニシャライズを確認。実体化まで30セコンド』
耳朶を打つのはインカムからの通信域。ノイズ混じりの女性の声が冷静に事の次第を分析する。
眼前で弾けたのは赤の色彩。燐光を纏うのは高層ビルにも及ぶ巨大な影であった。
視認するなり、理性の箍が理解する。これは「相対してはならないモノ」だと。だが、自分の責務はこれを討ち、そして鎮める事である。
『イニシャライズ反応増大。ダイマックスエネルギーの拡散率、65パーセント。実体化、来ます』
「分かっている。それにしても……何度嗅いでも慣れないにおい、ね」
鼻孔を抜けるのは獣の臭いに酷似しているが、それ以上に石灰の溶解するような独特の臭気を感じさせていた。濃霧の向こうで、赤銅の燐光を練り上げた存在が屹立する。
全体の印象で言えば、それは青だ。
天を衝く威容の手足を持たない、一匹の竜――首飾りめいた宝玉を有しており、その立ち振る舞いだけならば流麗であったが、瞳が爛々と攻撃色に染まっている。これでは生易しい説得などまるで通用しないだろう。
ならば――実力行使しかあるまい。
握り締めたのは赤と白の色調を持つ球体であった。その内部に収まる鼓動を感じながら、少女は放り投げる。
「行きなさい、ジャラコ」
二つに割れたボールから躍り出たのは灰色の表皮を持つ四つ足の獣であった。鱗じみた黄色の額の鬣は未発達ながらも力強い眼光を宿す。
『イニシャライズポケモンを照合。ダイマックスハクリューです』
「ドラゴンタイプか……。厄介な相性ね」
そうこぼした直後にはハクリューと呼ばれた相手が挙動していた。尻尾を薙ぎ払い、少女とジャラコを一網打尽にしようとするが、少女は軽く跳躍してそれを回避する。ジャラコは粉塵の中を駆け抜け、ハクリューの背後に回り込んでいた。
「ジャラコ、ドラゴンテール」
ジャラコの短い尻尾に青い灯火が宿り、ハクリュー相手に飛び掛かる。軽く一回転してハクリューの眉間に一撃を見舞い、その反動でさらに高空へと至る。
「嫌な音、からの鉄壁でハクリューの次手を防いで」
ジャラコが喉の奥から軋んだような甲高い声を絞り出し、さらに肉体に力を込めて「てっぺき」の躯体を準備する。
ハクリューは「いやなおと」を受けつつも即座に動いていた。尻尾を捩じ上げさせ、そこから放ったのは無数の大竜巻だ。
ジャラコは現状、中空。
回避する術はないかに思われたが、少女は確証めいて声にする。
「ジャラコ、もう一度ドラゴンテールで竜巻を蹴って」
ジャラコが尻尾を巻き込み、薙ぎ払う勢いで大竜巻を叩く。ハクリューの放つ威力はそれだけでもジャラコの肉体を捩じ切ってしまいかねなかったが、その回転の力強さが逆にジャラコの身を救っていた。
回転に逆らわなければジャラコは空中で身を躍らせながら自在にハクリューの死角に潜り込む事が可能となる。その目論見は達成され、ハクリューの後頭部が視界に入った瞬間、少女は命じる。
「ドラゴンテールで脳震盪を起こさせなさい」
渾身の「ドラゴンテール」の一撃がハクリューの頭蓋を揺さぶる。グラグラと視界が揺れる中で、ハクリューの頭頂部に着地したジャラコは「いやなおと」を至近距離で放つ事によってその平衡感覚を完全に崩壊させていた。
ハクリューの巨体が力なく横たわる。少女はホルスターに提げていたボールの一つを投擲し、直後にはハクリューはその中へと吸い込まれる。
ぴょこんと跳ねたボールが閉まり、捕獲を物語っていた。
『お疲れ様です。イニシャライズされたポケモンは今回はそれだけですが……如何しますか。近くにまだ痕跡が残っている可能性も』
「いや、私も今宵はここまでで失礼するわ。それに……個体としては弱かったとはいえダイマックスポケモンとの交戦だった。ジャラコに無理を強いたくない」
少女の傍らまで歩み寄ってきたジャラコを撫でる。くすぐったそうにしたジャラコへと少女はビル街の中心地にほど近い場所を押し包む濃霧を仰いでいた。
霧の向こうに、黄金の月。
この先の現状に瞼を閉ざすかのように、街頭は眠りの只中。
「……戻って、ジャラコ。それにしても……イニシャライズされたポケモンだけならここ数日でかなり多い。イレギュラーが出なければいいけれど……」
その懸念を抱えつつ、立ち去る間際、少女は振り返っていた。
一つ結びの黒髪に強い意志を感じさせる吊り眼気味の眼差し。まばゆいばかりの緋色の瞳がここに居るはずのない――「あたし」を睨んでいる。
最初こそ戸惑ったが、やがて少女はそれが気のせいだと悟ったのか、頭を振っていた。
「……まさかね」
遠ざかっていくその背中。視点は今しがたハクリューが捕獲されたその地点でどくんどくんと脈動する、小さなタマゴに注がれていた。
その中から神の視座に近い自分と目が合ったのは、タマゴの中で息づく白銀の獣の姿であった。
タマゴの内側で胎動するその存在に手を伸ばそうとして、不意に指先がすり抜ける。
感覚だけが先走り、やがてその全貌を見据えていた意識は落ちて行った。