どうにも夢の中に現れた綺咲の像を明瞭に結ぼうとして、何度も捉え損ねてしまう。やはり、夢なんて当てにならないと考え、有栖と幸子は一路カワセミ書店へと向かっていた。
路面電車を乗り継ぎ、カワセミ書店の扉の前で幸子が不意に気づく。
「……開いてる? 不用心だなぁ、ツバサ姉!」
門扉を開くと同時に幸子がわっ、と大声を上げる。
「幸子! 急に大声を出さないでよ」
「いや、だって……ツバサ姉! 何やってんの!」
「う、うぅーん……。誰ぇ……?」
押し入って有栖も思わず悲鳴を上げそうになったのは明らかに寝不足な面持ちのツバサが卓上に突っ伏していたからだ。
「ツバサ姉、どうしたの……! うっ! お酒くさい……!」
鼻をつまむとツバサはようやく自分達に気づいたのか、ハッとして顔を上げる。
「い、いらっしゃいませ……! じゃない……何だ、君らか……」
「君らか、じゃないってば。ツバサ姉、酷い顔をしてるよ? よだれ、ほっぺ」
頬についたよだれを拭い、ツバサは頭を振る。それでもまだ起き切っていないのか、ぼんやりとして口をあんぐりと開けていた。
「……大丈夫? ちゃんと寝た?」
「そうだ、寝ようとして……どうしても起こった事が起こった事だから寝られなくって……寝酒を飲んでたら悪酔いしちゃって……うっ!」
不意にツバサが身を折り畳む。一体何なのだろうと思っていると、青ざめた顔で涙目になっている。
「……ぎぼちわるい……。ちょっと吐いて楽になってくる……」
「はぁ……。大人って言うのは難儀だねぇ」
「……きっとツバサ姉もあたし達の事を思ってなんだってば。大人だから、真正面から起こった事を受け止めちゃって……あんなざまに……」
トイレからツバサの呻き声が聞こえてくる。幸子は卓上に置かれていたおつまみを探り当て、セビエへと呼びかける。
「ほぉーれ、セビエ。これとか塩っ辛くって旨いんだぞぉー」
「……もう。幸子ってばオジサンみたいな……」
呆れ返っているとようやくトイレから戻ってきたツバサの顔色は黄土色でとてもではないが女子のしていい表情ではない。
「あー……当たり目とか案外食べるのかもねぇ……。って言うか、二人とも学校でしょ? いいの? こんな時間に店に来て」
言葉を発する度に二日酔いに苛まれるのか眉をひそめながらツバサはエプロンを身に着ける。
「ツバサ姉にも相談があるんだってば。……けれど、今の状態はちょっとまずい?」
ツバサは顔も軽く洗ってきたのか、緑色のフレームの眼鏡をかけて平時の様子を取り戻そうとする。
「うーん……まぁ大丈夫……。で、セビエの朝ごはんに迷っているわけか」
「えっ……何で分かったの?」
「昨日今日で何を食べるかなんて分かるわけないし、困っているとすればそれかなーって思ってね。にしても……チェシャーは教えてくれないの?」
「チェシャーが言うのには歯ごたえのあるものがいいらしいんだけれど……」
「じゃあ余計にドンピシャじゃん。ほぉーれ、乾物だぞぉー」
「もう。幸子ってそういうの食べてるの? お酒飲みになっちゃうよ?」
「そうなったら、いずれはツバサ姉と晩酌としますか」
「……こういう子に限ってお酒強いのよねぇ……。まぁ、それはともかく、よ。ちょっと試してみましょうか」
促され、有栖はモンスターボールからセビエを繰り出す。セビエは腹ペコなのか、どこか寝ぼけ眼のままで不満げにしている。
「セビエ! 何でも食べていいから! 好きなのを選びな!」
幸子の大盤振る舞いにセビエは少しずつ頬張っては好みの味を探っているようであったが、一通り食べた後、二度目に口に運んだのはチョコチップクッキーだけであった。
「……あらら。結局クッキーかぁ。まぁ安上がりでちょうどいいんじゃない?」
卓上でけぷっ、とげっぷを漏らすセビエを目の当たりにしてやはり夢ではなかったのだなと思いを新たにする。
「……ツバサ姉。転生者の話だけれど……さすがに学園都市で奇襲してくるような相手は居ない……よね?」
その問いかけにツバサは困り果てたように渋い顔をする。
「……一般論で考えればね? けれど……“ゲーム”とやらの報酬が破格だとすれば、そんな事を気にも留めずに攻撃してくる奴らが居るかもしれない。もちろん、昼の間に仕掛けるなんて無謀だけれど……」
「チェシャー。敵がそろそろ来そうだとか分かんないの?」
幸子の問いにチェシャーはアルセウスフォンから浮かび上がり、神妙に応じる。
『これまでも転生者同士の交戦はありました。ですが、戦法は千差万別。どれが定石と言うものはないのです』
「……戦闘に定石はない、か……。なかなか身につまされるわね……。だとして、転生者がどれだけいるかも分からないのに、鏡面界の平和だとかは大丈夫なの?」
『無論、鏡面界の動乱はそのまま、現実世界の脅威となるでしょう。鏡面界のポケモンがこの世界に実体化……わたくし達はイニシャライズと呼んでいますが、それが頻発すれば、それこそ火消しが必要になってきます』
「それが……まぁ姫宮財閥と、その一人娘、か。そう考えると何だか敗残処理をされているみたいね、あの子も」
今朝のニュースで目にした姫宮財閥の代表取締役の顔が思い起こされる。あれが本当に綺咲の父親なのだとすれば、全て知っていてなのか、それとも何も知らずかなのでは雲泥の差だ。
「って言うかさ。チェシャーは転生者の管理をしているんでしょ? もちろん、転生者同士の情報は交換出来ないとの事だけれど、それはフェアな勝負を望んでの事?」
幸子はパイプ椅子に腰かけアルセウスフォンから浮かび上がったチェシャーを注視する。チェシャーは澱みなく、その疑問に応じていた。
『もちろんです。転生者の皆さまのその戦いに意味を見出すために、互いの研鑽の努力に抜け道はあってはならないでしょう』
「抜け道……ね。あの転校生はそれを使っているようだけれど」
『姫宮綺咲様は我々の望む戦闘を黙々とこなしていただいております。この分だと、彼女が優勢です』
「……何だかなぁ。要はイニシャライズされたポケモンを私達でも制御出来ればいいわけでしょ? だったらその仕事、転校生じゃなくって私らに回してくれればいいじゃん」
幸子の提言にツバサも頷いていた。
「確かに。転生者としては有栖ちゃんもまだ弱いかもしれないけれど、チャンスは平等に与えるべきじゃない?」
チェシャーは有栖へと視線を流す。決断は自分の中にあるようだ。あまり逡巡を挟んでいる場合でもない。有栖は深呼吸してから、やがて決意する。
「……分かった。転生者と戦わないで済むのならそっちのほうがいいはずだもん。今日は学校はサボりかなぁ……」
『どうぞ。ガイドいたします』
チェシャーの浮かぶアルセウスフォンを握り締めると、有栖の脳内に膨大な情報の津波が流れ込んでくる。一瞬の白黒の明滅の先に、有栖はその位置情報を掴んでいた。
「学園都市の……これはど真ん中、かな? ……幸子とツバサ姉も……協力してくれる?」
「当たり前じゃん! 有栖が危ない目に遭っているのに放っておけないって! ねぇ、ツバサ姉!」
「……まだ現状が飲み込めていないんだけれど……ちょっと待ってて。着替えるから」
取って返したツバサの服装はそう言えば昨日と同じで、言葉通りずっと眠れなかったのだろうと少しだけ不憫だ。
「……ねぇね。ツバサ姉ってさ、あんなで彼氏とか居るのかな?」
「……もう、幸子ってば。何でそんな事を聞くの?」
「だって私ら以上にガサツじゃん? それでも言い寄ってくる男の一人や二人は居るのかなぁーって。スタイルはいいし、男ってああいうのがいいんじゃんし」
「どうかなぁ……。ツバサ姉は面倒見がいいほうだとは思うけれど……」
セビエがチョコチップクッキーを食べ終わって卓上で足をぶらぶらさせて遊んでいる。手足は短いが、両肘には黄色い器官を有しており、触ると少しだけ嫌がる様子だ。そう言えば昨日の戦闘ではここから攻撃を放ったのだと思い出し、今しがた興味のままに触って大丈夫だったのだろうかと指先を擦れさせる。
そんな考えを知ってか知らずか、セビエが欠伸をすると冷たい風が顔にかかってきて思わず手を翳す。
「わっ……冷た……っ」
「……セビエはまだおねむじゃんね? でも、あの転校生も分かんないのは、私らに因縁をつけた割には攻めてこないんだって事よね?」
「うぅーん……綺咲ちゃんはそういう……弱い者いじめとかはしないんだと思う」
「そのこころは?」
それは夢の中の彼女の背中が証明している――とは断言出来ず、有栖は返し損ねて呻るばかりであった。
「お待たせ。じゃあ、学園都市のど真ん中を調べるんなら、姫宮財閥の情報局に寄るのが一番にいいだろうし、そっち方面で……」
ツバサが言葉を切って自分達を眺めている。幸子は思った事をそのまま口にしていた。
「……ツバサ姉って昨日のコートのほかに服持っていたんだ」
「幸子ちゃん? 私の事、相当バカにしてる?」
「してないってば。で、何で情報局?」
情報局と呼ばれるのは学園都市の中枢部に近い場所に位置する役所の一部だ。姫宮財閥がほとんどのインフラを支配しているために、情報は自然と一極に集中している。
「大学生なんだから、レポートのために調べ物はするでしょ? その調べ物ではちょうどいい場所が情報局ってわけ」
「なるほど。まだ高校生の私らには縁のない場所だったわ」
「……ホントに怒るよ? まぁ、そういうところも幸子ちゃんだけれどさ。じゃあ、行きますかぁ……」
腕を回しながらツバサがカワセミ書店の扉を開ける。有栖はセビエをモンスターボールに戻してから鞄を抱えてその後に続く。
学園都市を縦横無尽に突っ切るのは路面電車で、新都心の移動手段は多岐に渡るが、この街に住む市民の生命線だ。
情報局のカードを持っていたツバサと、同行のために一日フリーパスを渡された有栖と幸子は早速、局内に入る。
「へぇー、ここってこんなに広かったんだ」
吹き抜け構造の三階建て、白銀のビル街の中でソーラーパネルが施された新進気鋭の外観を誇る情報局は内部を自動化されている。無数の機械が書棚を忙しく移動し、入れ替えと補充を繰り返している。
「そりゃー当然。情報局は姫宮財閥の息がかかっているからねー。ここで大学生は資料を探したりで、市民だって憩いの場にしている人間も多いだろうし」
ツバサは手慣れた様子でここ一週間の電子新聞記事へと手を伸ばす。アナウンス音声が流れる中でツバサに差し出された事件事故の三面記事に有栖は視線を投じていた。
「……ガス爆発、ここ一か月でこんなに起こってるんだ……」
「そのほとんどは姫宮財閥が揉み消しているみたいだけれど、隠し切れないのも相当数ね……。で、チェシャーから情報を受け取るのならここって思ったんだけれど、空振り?」
「あ、そう言えば……。チェシャー、ここなら他の転生者やイニシャライズしてくるポケモンの事を探れる?」
『お待ちください。……イニシャライズポケモンに関してのデータベースなら、そちらの端末に近づけてください』
「こう?」
鞄で隠しながらアルセウスフォンを端末に翳すと、握り締めていた有栖の脳内に叩き込まれたのはここ数日間のイニシャライズポケモンの探査であった。だが、あまりに膨大な情報の津波であったせいか、思わず鼻筋を押さえる。
「有栖? 大丈夫……?」
「うん、ちょっと……」
「あちゃー、鼻の奥が切れちゃったか。……そこのベンチで休んでおいて。ハンカチを渡しておくから。冷たい飲み物でも買って来るから」
ツバサからハンカチを差し出され、有栖は滴る鼻血を押さえながら後ずさる。幸子に手を引かれ、ベンチで休んでいる最中、ふと意識の一点が凝結する。
「……ここ……」
「どったの? 鼻血大丈夫?」
仰ぎ見ていると脳内で三階層まで貫く形状の情報局の天蓋と、今しがた端末から掠め取った情報が錯綜する。ここに来た事はないはずなのに、まるで最初からよく知っているかのような錯覚を覚えていた。
「……これ、ヘンかも……」
「ヘンって……」
そう口にしている間に情報局の内側に燻って来たのは白い靄であった。どこかから流れてきたようだが、その在り処が探れない。
幸子がそれに気づいた頃にはもう周囲は濃霧に包まれている。
「……これ……! 昨日の奴と同じ……! 有栖!」
「……うん。――来る」