「あ、」
その言葉を解する前に、ジャラランガの爪が食い込んだのはキャロルの小さな身体であった。キャロルの腹腔に深く食い込み、そして血を滲ませる。
「……おかあ、さん……?」
「なんで……?」
首を巡らせようとしたキャロルを、ジャラランガが吼え立ててトドメを刺す。その瞬間、玉座から哄笑が迸っていた。
「やりおったわ! “影”よ!」
「おかあ……さん……」
キャロルの小さな、まだ幼い指先が有栖を求めて伸びるが、それはほんの一秒未満に掻き消えている。残ったのは、たった一つのアルセウスフォンであった。そのアルセウスフォンの画面が明滅し、やがて心拍のように途絶える。
「これにて――お終い」
綺咲の言っている意味が分からない。それなのに、有栖は雄弁に理解出来てしまう。もう――目の前に居る少女は、自分のよく知る姫宮綺咲などではないのだと。
「バステト。これで、“ゲーム”は終幕じゃな。最高得点者の清算をせよ」
「かしこまりました。最高得点の転生者、姫宮綺咲様。最も高得点となる最後の転生者を破壊した事により、自動的に貴女が最終ホルダーとなりました」
「……あれが、バステト……」
チェシャーと見た目は変わらないが、どこかモノトーンの色調に包み込まれている。綺咲はキャロルであったアルセウスフォンを拾い上げ、ゆっくりとバステトとハートの女王が待つ玉座へと歩み寄っていく。
「ま、待って……! 待ってよ、綺咲ちゃん……! なにを、何をしているの……!」
「……目的は変わらない。私は最終得点者として、バステトに願いを叶えてもらう」
「でも……けれどぉ……っ! キャロルを……殺すなんて事……」
「キャロルはアルコスの所有者。最高得点保持者はキャロルを殺さなければこのままでは“ゲーム”はいずれにせよご破算になっていた。篠崎さん、あなたを殺すしかなかったのよ。他の手段で勝つのにはね」
綺咲はこちらを一顧だにしない。もうその必要もないとでも言うように。
「でも……それなら先に言ってくれれば……」
「言えば、あなたを殺す事を承服していたの? それともキャロルを手にかける事も納得出来たのかしら?」
「出来るわけ……出来るわけないよぉ……っ!」
「そうでしょうね。あなたはいつもそう。……最初に会った時から、ずっと変わらないわ」
綺咲がキャロルであったアルセウスフォンをバステトへと献上する。その瞬間、バステトはアルセウスフォンを掌で読み解き、アタッシュケースを生み出す。
これは“ゲーム”の終了――ここで綺咲が“コール”を選択すれば全ての事象は巻き戻り、何もかもはなかった事になるはず。姫宮財閥とGIG隊員達、そしてここまで繋いでくれた転生者全員の望む最終局面であったはずだが、綺咲は別の願いを口にする。
「……私のこれまで取得してきた全ての得点を使い――願いを叶える。出来るのでしょう? バステト」
「……綺咲ちゃん! バステトに願ったら……あたし達は……!」
「何も。何も変わらないわ。バステトもこの“ゲーム”の受付嬢。願いを叶える義務がある」
「承知いたしました。姫宮綺咲様、貴女の願いをお伝えください」
綺咲が人差し指の先を歯で切り、アタッシュケースに血を滴らせる。ツバサが半年前にした事の再現だ。転生者の血でもって、“コール”でも“レイズ”でもない、別の願いが成就する。
アタッシュケースの内側がひっくり返り、三つの願いのいずれでもない、隠された別の願いが顕現する――はずであった。
だが、そこにあったのは。
「……何も……ない? エラー……?」
有栖は灰色の画面を目の当たりにする。そこには“error”と表記されているだけで、何もない。ツバサの願いであったアルコスへの到達もなければ、叶えられるはずの願いは存在していなかった。
「やはり、そうであったのですね」
不意に背後に降り立った影に、有栖は驚嘆する。
「……コハク……さん?」
こちらを無感情に見つめるその瞳に、有栖は反射的に違うと判断していた。
「……違う。あなたは……チェシャー……?」
自分達に同行したはずのコハクではない。目の前に居るのは間違いなく、チェシャーであった。それを看破するとGIGの隊服から一瞬で早変わりし、ゴスロリ服となってロングスカートの裾をつまんで恭しく頭を垂れる。
「姫宮綺咲様。貴女の、原初であり、そして最終的な願いは、やはり」
「……やっぱり、叶わないのね。私のたった一つの願いは……」
「どういう事……? 綺咲ちゃん! どういう事なの!」
「……随分と喧しいのぅ、うぬの願いの産物とやらは」
喜悦を滲ませたハートの女王の言葉に、有栖はいきり立って反発する。
「あたしは……! あたしはあなたを倒す! ハートの女王、あなただけは……! 綺咲ちゃんに何をしたの!」
「何も」
口にすれば短く。しかし確かな精度を伴わせた声音に、有栖は震撼する。
「……いったい……」
「何もしておらぬ。いや、そもそもの話。知らぬのか? 妾の醜くも愛おしい“影”よ。本当に、何も知らずにここまで? ならば……なるほどのぅ。うぬの願いは、もう叶っておったと言うわけか」
得心した様子のハートの女王に有栖は敵愾心を隠せない。ここで討たなければ、全てが無為に帰す。ここまでの自分達の行いと、そして反抗を無駄にしてはならない。
「……綺咲ちゃん! ジャラランガとセグレイブなら、どんな相手でも勝てるよ! 勝てるはず……! だから……!」
「だから? 愚かしい道を辿るのぅ、願いの産物とやらは。それとも、まだここに至っても自分が“アリス”であるとでも感じておるのか? だとすれば……チェシャーにバステト、うぬらが継続させていた“ゲーム”は間違いなく、奇跡の成就を可能としていたわけか」
「意味の分からない事を言わないで! ハートの女王……! 行って! セグレイブ――」
モンスターボールをホルスターから引き抜こうとして有栖はその指先が空を切ったのを感じ取る。
ハートの女王を前にして、恐れが宿っているのかもしれない。もう一度、とホルスターからセグレイブのボールを抜こうとして、何度やっても上手くいかない事に気づく。
そして、振り向いた有栖は自らの指先が透けている事を、ようやく察する。
「……あたしが……?」
「ふむ。やはり、洗脳とでも言うべきか、あるいはうぬも“影”なりに妾の同一存在であったのじゃろう。“感情”を上手く操り、そして誤認させたか。それにしても……これは笑わせるわ。願いの産物、そして奇跡の成就そのものが人格を持つなど!」
「……何を言って……」
「まだ分からんか? 鏡を見なければ理解も出来んほどの愚かしさよ。よく見るがよい、これこそがうぬの魂の元型、“アーキタイプ、アリス”よ」
「アリス……?」
ハートの女王が赤い天幕を剥がす。その先で赤い鎖に繋がれて今も面を伏せている水色のドレスの少女に、有栖は視線が吸い込まれていた。
「……あたし……?」