「厳密には違う。彼奴はアーキタイプ。十二年前に、妾の“影”であるヒメミヤキサキが遭遇した、“アリス”の本物よ。そして、この者の“心残り”こそが、妾を形成した。今、明かそう。妾こそがこの鏡面界、ヒスイ地方を支配する“感情”のアーキタイプ。ヒメミヤキサキとやらは、その魂を鏡面界に残してしまった。ゆえに、妾はこうして自由に動ける躯体を手に入れたのじゃがな」
「……綺咲ちゃんの……心残り……?」
有栖は虚脱してしまっていた。足に力が入らない。いや、そもそも地面を踏み締めるはずの足も透け始めており、自分の全存在が少しずつ消失していくのを感じ取っていた。
「……篠崎さん。やっぱり……私の願いは、もう叶っている。私の、本当の心残りはね。最初にして最後の願いは――“もう一度だけ、アリスに会いたかった”、それだけなのよ」
どうしてなのだろう。緋色の瞳に寂しげな光を湛えさせ、そして綺咲は懺悔するように告げる。その願いは、もう二度と叶わないとでも言うように。
「……姫宮綺咲様を、現世へと連れ戻したコハク……わたくしの先代である初代チェシャーは、現世に持ち帰ってはいけないものを二つだけ持ち帰った。一つは姫宮綺咲様、貴女自身、そして、もう一つは」
綺咲がその手に握り締めているアルセウスフォンを翳す。だが、これまでと違う――どこか古めかしい煤けた色調のアルセウスフォンであった。
「――オリジンアルセウスフォン。全ての始まりであり、そして終わり。これが現世に持ち帰られた事で、現実世界にポケモンが出現する契機を作ってしまった。それと……私が持っていたアルセウスフォンにずっと偽装させておいた。けれど、もう意味なんてないのよ。だってこのアルセウスフォン、とっくの昔にその最重要機能は失われているんだから」
「綺咲ちゃん……? あたしは……いったい……」
もう答えは目の前に提示されているはずなのに、その残酷な運命に声が出ない。否、決定的な事を言ってしまうのを拒否している。
「“シノザキアリス”、であったか。よくもまぁ、あれほどまでの精巧な似姿を生み出したものよ。“ゲーム”のイレギュラーでありながら、世界を刷新してみせた奇跡そのもの。ヒメミヤキサキがオリジンアルセウスフォンに願う事で、現世を書き換えたのじゃ。それも、純粋かつシンプルであったからこそ、世界情報の部分的な書き換えに留まっておったが、カワセミツバサはシュレディンガーと再契約する事で、その違和感に気づけた。六年前には存在しておらんかったのであろう、世界の異物そのものを。まだ分からんか? それとも愚かしく出来損ないであったか。シノザキアリス、貴様は“影”たるヒメミヤキサキが願う事で生み出された――願いの結実。彼奴は“ゲーム”を続ける必要などなかった。最初から、願いは叶っておったのだからなぁ!」
嘲るようにハートの女王の笑い声が響き渡る。その愚かしさ、そして醜悪さに耐えかねたように、堰を切った狂乱の哄笑が天高く残響する。
有栖は綺咲の言葉を待っていた。
だが、沈黙こそが何よりも雄弁なる答えであった。
「うそ……ウソ……ウソ……っ! だって、だって綺咲ちゃんが、そんな事……! そんな事するわけないっ! 綺咲ちゃんはいつだって真剣に……!」
「何故、そうも無条件に信じられる?」
遮って放たれたハートの女王の声音に、有栖は口を噤ませる。
「何故って……だって綺咲ちゃんは……あれ……? あたしは……何で綺咲ちゃんを……信じる事に、決めたんだっけ……」
自身の中に灯った原初の衝動への疑念は毒のように広がっていく。それを直視してはならないと警告を鳴らす心音に、有栖は己へと問い質そうとして、ハートの女王の愉悦の微笑みに掻き消されていた。
「教えてやろう。それはうぬ自身が、ヒメミヤキサキの願いそのものであるからじゃよ。疑えるはずがなかろうなぁ! 自らを生み出した絶対的な存在を、奇跡の側が疑えるはずもなかろうに!」
この喜劇への最上級の賛美とでも言うように、ハートの女王は玉座から拍手を送る。偽りに糊塗された観劇を、ここまで見送った観客としての賛辞は同時に、自分達のこれまでの関係性への瓦解の一手となる。
「……綺咲……ちゃん……?」
問おうとした。尋ねようとした。乞おうとしたのだ。
自分の命は偽物なのか、と。綺咲が願ったから生まれただけの、都合のいい存在なのかと。
綺咲は振り返る。
ただ一言、嘘だと言ってくれればよかった。ハートの女王の言葉は全て虚言で、自分達を惑わせるために言っているだけなのだと。しかし、綺咲はこの瞬間、恐らくこれまでもこれから先にも見せる事のない、涙で頬を濡らしていた。
まばゆい緋色の瞳から、美しい涙が流れている。
「……ごめん……なさい。篠崎さん。私は……耐えられなかった。どれだけ戦ったところで、もう私が焦がれた“アリス”には会えないのだと、分かっていたから。“ゲーム”でいくらでも転生者を殺したわ。姫宮財閥で解析も進めた。でも、そんな行動に走れば走るほどに……無理なんだって。もう、“アリス”には会えないんだと言う事だけが分かった。だから、私は……私とお父様しか知らない、あの部屋に入った。半年前……」
自らの功罪を語る綺咲の論調は、自ずと贖罪の意味合いを伴わせていた。
「半年前……姫宮綺咲様は、姫宮財閥でも随一の機密であるオリジンアルセウスフォンへと、願った。ただ一つの願いを。“もう一度、アリスに会いたい”と言う、純粋かつシンプルな願いを」
その言葉の先を継いだチェシャーに綺咲は観念したように顔を伏せる。
「……オリジンアルセウスフォンには所有者が定められている。私であり、そしてアーキタイプであるハートの女王。だから、思わぬ形で願いは叶った。世界が再創造され、現世を……あの世界を狂わせた。それが……あなたなのよ、篠崎さん」