ツバサから半年前の戦いの際に聞かされた、突飛な話が思い起こされる。世界五分前仮説――六年前の時点で、ツバサは自分のような存在なんて居なかったと言っていた。あれはあの時点でこちらを詰ませるための嘘の一つなのだと、思い込んでいたが。
「……ツバサ姉は、ウソなんて言っていなかった……? 本当に……あたしは居なかったの?」
透け始めた掌に視線を落とす。ツバサは正しかった。
最初から「シノザキアリスなんていう奇跡」は存在しなかったのだ。
「……私の最初の罪であり、最大の罪。私は……現世を壊してでも……会いたかったの。“アリス”に……」
全ては少女のたった一つの純然たる願い。それをアルセウスフォンが叶えてしまったからこそ起きた――悲劇。
「現世を再構成するなど、神のような権能であろうとも難しかろうが、それを叶えてしまった。そのせいで、ひずみが生まれた。それこそが、アーキタイプ。妾は半年前までは、この躯体を持たなかったのに、ヒメミヤキサキの心残りと、そして歪んだ願いがそれを可能としてしまった。“感情”を司る、女帝の実在を」
まるで愚かしくて仕方がないとでも言うようにハートの女王は声音に喜色を混じらせる。ならば、ノックスの決意は。ここまで死んで来た、皆の願いの果ては。
「姫宮綺咲様の、たった一つの願いが、六十億以上の人類と、そして鏡面界の運命を変えてしまった。姫宮綺咲様さえ望まなければ、有栖は生まれず、そして鏡面界が混迷に陥る事はなかった。転生者同士が戦う“ゲーム”も、もっと単純であったのに」
「それも今さらじゃろう? チェシャーよ。こやつらは誤解しておる。“すべての命は別の命と出会い、何かを生み出す”――まったく“転生”とはよく言ったものよ。こちら側の世界がなければ、何一つ生み出せぬ出来損ないの世界でありながら、自らを“転生者”と驕ったか。教えてくれよう。うぬらが鏡面界に転生したのではない。現世の命が全て、鏡面界の命の残滓なのだ。こちら側で生み出されたポケモンとも呼べぬ命の欠片、それが現世と混ざれば“ニンゲン”などと言う立派なものに成り果てる! まったく! このシステムを創った神は、如何に愚かしいのか!」
「……転生者は特別な存在じゃない。現世の全ての人間に、転生者の資格がある。それも、今さらよね。バステトが暴いただけで、私達のその理に気づこうとしている人間も居たのに」
「因果の逆転。現世があるから鏡の世界があるのではなく、鏡の世界があるから現世がある。有栖、貴女にとっては酷な話でしょうが……わたくし達、受付嬢の目的は、全ての命を正しい側、即ちヒスイ地方と言う名の地獄に還す必要性があった」
「地獄に……還す……?」
「そうじゃとも! しかも、この地獄は極上じゃぞ? 元々は、たった一人の罪人を永遠に裁くためだけにあったのじゃからな! のぉ、アリスよ!」
ハートの女王が玉座から背後で拘束されているアリスへと呼びかける。それでも、アリスの眼が開く事はない。だと言うのに、その頬は常に涙で濡れていた。
「……アーキタイプ、アリスはこの世界を生み出した神が唯一見出した、最初で最後の罪人。このヒスイ地方は、アリスを永遠に一人で裁き続けるためだけに存在していたのです」
「なんの……ために……」
掠れた声で尋ねた自分にチェシャーが視線を振り向ける。凍土のように、冷たい瞳で。
「――百年の孤独。それこそが“感情”を持ち、“知識”を広め、そして人界に“意思”を芽生えさせた少女に与えられるのに相応しい、最大の罰であったのです。ですが、この世界に、迷い込んでしまった幼い少女が居た。それがどのような奇縁であったのか、あるいは神の悪戯であったのかは、誰にも分かりませんが」
答えは、もう目の前にあった。
綺咲は悔いるように、あるいはその出会いを噛み締めるように、伏せたままの面持ちで告げる。
「……私が、現世から迷い込んでしまった。そのせいで、アリスの罰が変わった。本来、私はアリスに何も与えてはいけなかったの。嬉しいと言う感情も、寂しいと言う感情も、何もかも……。けれど、私のせいでアリスはさらに罰せられる事となった。この世界で、ただ一人のまま……それが、耐えられなかったのよ」
「アリスは“意思”の力で、写し見の人形どもを生み出してみせた。それがトランプ兵団であり、うぬらと行動を共にしていた……かつてヒスイ地方に存在していたはずの現地人の再現。シンジュ団のカイ、と言ったか」
「……カイさんが……?」
「再現でしかないために、魂の円環を経ず、“死なずして転生者”となった存在でしたが……。わたくし達はこの時のために、貴女達を勝たせなければいけなかった。ですが、この時が終われば、鏡面界が現世となり、全ての命が逆転してしまう。それだけは、あってはならない。よって、ベベノム」
チェシャーがベベノムを繰り出す。その躯体が光に包まれ、倍以上に成長――否、進化する。
「……チェシャー。やはりうぬは……裏切り者であったか。受付嬢でありながら、アリスに与し、そしてヒメミヤキサキによって、“感情”に目覚めた異常個体。まったく、それにしても驚いたぞ? まさか、“感情”に覚醒してやる事が“ゲーム”の運行の阻害とは。これではカワセミツバサも浮かばれまい」
「……どうとでも。これがわたくしの罪の形――アーゴヨン」
ベベノムから進化したアーゴヨンが今、生命の息吹を上げて咆哮する。その在り方は明らかに――ハートの女王の命を狙ってのものであった。
「……ヒメミヤキサキ、出来るな?」
呆れ返ったとでも言うように玉座に深く腰掛けたハートの女王を見ずに、綺咲はジャラランガに命じる。
「ジャラランガ、邪魔者には容赦はしない」
アルセウスフォンを握り締め、綺咲の意志を受け止めたジャラランガが吼え立て、アーゴヨンへと瞬時に距離を詰める。
「姫宮綺咲様……貴女とハートの女王、両方の命で清算していただきます。いずれにせよ、片方の命を摘めばもう片方も無事では済みません。――そのお命、頂戴いたします」