「出来るの? チェシャー、あなたになんか……!」
ジャラランガが真上から組み付こうとするのを、アーゴヨンが針の器官から攻撃を射出しながら円弧を描いて回避し、進化形態同士のポケモンが激突する。その衝撃波、そして互いに譲る気のない衝動のぶつかり合いに、有栖は自身も何かしなければとホルスターに指を伸ばしかけて、不意に硬直する。
「……あたしって……何でもないんだ……。転生者でもなければ、何でもない……。綺咲ちゃんが願ったから、祈ったから……生まれた存在……」
ならば消え失せるのは似合いの結末であったのだろう。今に全ての抵抗の意志が失せかけて、では本当にそうなのか? と自問する。
ツバサを止めた時に感じた衝動は、そもそも“ゲーム”で勝ち抜いてきた闘志でさえも嘘であったのか? 妙子を助けたいと願った、母親を救いたいと思えた。
――嘘であろうとも、自らの存在証明がなかろうとも、虚飾であっても本物に勝てない理屈などあると言うのか。有栖は地面を指で強く握り締める。
まだ、絶えていない。
まだ、この指先には力がある。
今に消えてしまう、ほんの一刹那の瞬きに過ぎないとしても、それでも自分は――最後まで。
立ち上がる。自分など相手にするまでもないと判断しているのか、チェシャーのアーゴヨンも、綺咲のジャラランガの邪魔も入らない。ただ、真っ直ぐに。有栖は玉座に歩み寄っていた。
真正面に佇む事でさえも、まるで意味などないとハートの女王は玉座にふんぞり返ったまま続ける。
「……それで? うぬは所詮、ただの疑似装置。母親も姉も、全部嘘であろう? 親友も、全ての存在が“それあれかし”と願われただけの存在。何も出来ぬ。本物の転生者と、裏切り者の受付嬢の戦い一つ止められぬ」
「……止めてみせる。あたしが、あたしで居るために……!」
その決意をハートの女王がせせら笑う。
「モンスターボール一つ掴めぬくせに、何を言う。おい、“影”よ。この者を摘まみ出せ。如何に今に消え失せる虚飾とは言え、邪魔だ。それに、不遜であるぞ? 妾はこの鏡面界を束ねる、ハートの女王。その御前である」
「……何が……何が、女王よ……! あなたなんて……何でもない。あたし以上に、何でもない……!」
その言葉には苛立ちを覚えたのか、ハートの女王はピクリと眉を跳ねさせ足を組み直す。
「……聞き違いかのぅ? 妾を何でもない、と言ったか? ただの奇跡の現象風情が」
「聞き違いでも何でもないわ……! あなたなんて、……一番何でもない! みんなを力と恐怖で支配して、それで女王様なんて笑わせる! ……誰かのためじゃない女王様なんて、それこそ嘘っぱち!」
「おい、“影”よ。この鬱陶しい存在をとくと消し飛ばせ。ジャラランガでやれば一撃であろうに」
ハートの女王が杖を翳し、有栖を指し示す。有栖はハートの女王から眼差しを外さず、決して折れない闘争心で見据える。
――そうだ、自分の中には常に闘争心があった。
綺咲に生み出されたただのアリスの代わりならば、闘争心なんてものは邪魔だったはずだ。
「……あたしは、あたし……! 他の誰でもない!」
「不敬であるぞ? それとも、ここで掻き消されるのをよしとするか?」
杖を振って威厳を示そうとしたハートの女王へと、有栖は手を払う。その手に宿った力が、今初めて――恐らくはハートの女王にとっても初めて――その頬を打った。
「……今、何を……」
想定外の事象に驚愕を浮かべたのは何もハートの女王だけではない。戦闘の最中であったチェシャーと綺咲も、その動きを止めていた。まるで全てが静まり返ったかのような、完全なる無音が漂う。
「……あたしは、他の誰でもない。あたしはあたし……篠崎――有栖」
しかしその抗弁は頬を打たれたハートの女王にとって許し難い言葉であったのだろう。彼女は玉座から立ち上がり、そして怒りに駆られて有栖に差し迫る。
「……うぬは……! もう消えるとは言え、どこまでも不敬に成り果てるか! 妾の頬を打つなど……許される事ではないぞ!」
しかし、凄まれても有栖はあえて落ち着き払っていた。ハートの女王の怨嗟の眼差しに、わざと淡白に応じる。
「……ぶたれた事もないの?」
その一言は彼女の逆鱗に触れるのには充分であったらしい。ハートの女王は杖を突いて、それから仕込まれたモンスターボールを開かせる。
「……蒙昧が何を! 行け!」
出現したのは漆黒の結晶体を誇る巨躯であった。幾何学模様の相貌に、削り取られたような肉体をしている。
「……ネクロズマ……」
綺咲が絶句する。チェシャーがそれを好機と感じ、ジャラランガへと間断ない攻撃を浴びせていた。
「竜の波導!」
ジャラランガの黄金と灰色の色調を誇る躯体が揺らぐが、それもほんの一瞬の事である。むしろ肉体と表皮を擦り合わせて音階攻撃を生み出すのはジャラランガの十八番だ。
「爆音波!」
耳を劈く衝撃波と音響兵装が放たれ、アーゴヨンが空を舞い距離を稼ごうとするがジャラランガの機動性能のほうが上である。地面を重戦車のように巻き上げながら軽やかに跳躍し、チェシャーのアーゴヨンを叩き落としていた。
「アーゴヨン!」
チェシャーは折れずにその闘志に火を点けて直上から組み伏せようとするジャラランガを毒の塊を放つ事で遠ざけようとするが、ジャラランガは腕を交差させてそれを防御し、肉を切らせて骨を断つ戦法で一気に肉迫する。
そんな激戦の只中で、有栖は出現したネクロズマとハートの女王に一人対峙していた。
正直に言えば直視さえも許されないほどの圧力は純粋に恐怖心が勝る。しかし、胸に灯った闘争心がそれをさらに燃え滾らせ、一切気圧されないように努める。
「……何故、そのような眼をしている? うぬはただの現象だぞ? ヒメミヤキサキの願った、副産物。生きているわけでも死んでいるわけでもない。ただの、意味を持たぬ事象に過ぎぬと言うのに……!」
「自分の意味くらい、自分で考えられる。あたしは……あたしには、友達も、大切な人達も居た。だから、あたしは……あたし……!」
「焼き尽くせ! ネクロズマ!」
ハートの女王が激怒して手を払う。その一動作だけで、自分はこの世界から抹消されるのだろう事は分かった。だが、目を逸らさない。決して、折れない心根だけを有栖は拠り所にしていた。
ネクロズマが全身に滾らせた憤怒の光条を拡散させようとする。当然、ハートの女王は有栖が膝を折るか、あるいは許しを乞うと思ったのだろう。
しかし、どちらも選ばない。
瞬きのような一刹那であろうとも、決して挫けない。
「……何故、そのような眼が出来る……?」
「……あなたには分からない。人間は……人は一人で生きているわけじゃない。それを、嗤うような人に、女王なんて冠は似合わない。あたしは……最後まで気高く居たい……! 綺咲ちゃんの……ように!」
「愚かな! ヒメミヤキサキは一人である事に耐えられなかった、ゆえにうぬを生み出した不完全体! 孤独一つに折れて損なった、弱き存在よ!」
「……篠崎さん……。私を、恨まないの……?」
ジャラランガがアーゴヨンを抑え込んでいる間に、綺咲はこちらへと視線を振り向ける。有栖はその問いかけに、ふっと微笑んでいた。
「……恨むわけ、ないじゃない。だって綺咲ちゃんは……頑張ってきたんだから。あたしが、あたしだけは……綺咲ちゃんを疑うわけないよ」
「とくと失せよ! 幻想よ!」
直後、有栖の姿はネクロズマが全方位から放つ、灼熱の光芒の中に消えて行った。