ガチャン、と幸子はチェシャーを鉄柵へと突き飛ばす。その眼差しに浮かんだ無感情の瞳に、ここまで騙されてきた自分達の愚かしさが反射している。
「……あんた、チェシャーじゃないわね……? 姫宮コハク……!」
「……わたくしにとっては、“感情”に目覚めたチェシャーの唯一の願いを叶えたまで」
直感めいたものもあった。だが、まさか受付嬢であるチェシャーが人間を欺くなんて思いも寄らなかったのもある。
「……幸子さん……! これ……!」
オペレーター達の同期しているデータファイルの中で、今しがたバイタルの途切れた名前を、幸子は読み上げる。
「……有栖……?」
信じられなかった。しかし、データは裏切らない。よって、もたらされた情報は正しいと思うべきなのだろう。GIG隊服に接続された全てのバイタルが0を刻む。そのエラー情報に、幸子は膝を折っていた。
「……まさか、そんな……」
「“ゲーム”の決着はつきました。最高得点者となった姫宮綺咲様……いいえ、お嬢様が最初にして最後の願いを叶えるに至った」
「……“もう一度、アリスと会いたい”……なんて言う、身勝手な思想の事を言っているの……!」
怒りに任せた幸子の声音に、コハクは無感情なまま淡白に応じる。
「……知っていたのですね。いいえ、それも織り込み済みと言ったところでしょうか。半年前のチームロワイヤルにて、貴女方には知る権利があった」
「……この世界が、姫宮の願い一つで書き換えられたなんて、にわかには信じ難かったけれど、確かに……私には有栖との思い出なんて一個もない。記憶を辿っても……あの子との幼少期の出会いも、どうやって仲良くなったのかも分からない」
こばとが目を戦慄かせている。まさか有栖の存在そのものが虚飾であったなど信じられないのだろう。
「でも……でも有栖さんは……! ぼく達を助けてくれました! ぼくは……有栖さんと出会わなかったら……きっとレベッカに会う前に、死んでいたんです……」
「その出会いでさえも、運命の生み出したエラーなのだとすれば、篠崎有栖様の存在そのものが、貴女達にとって無意味となり果てる。ただの現象、意味なんて存在し得ない、事象の副産物」
「……だとしても……! だとしても……私は! 私は、あの子の存在を……信じたいじゃないの! だって、私は有栖にとって……友達なんですから……!」
「その役割を担っているだけだと言うのに、ですか」
コハクの物言いに幸子は今一度、端末と向かい合う。折れそうな気概に熱を通し、そして鏡面界に潜入したGIG隊員のバイタル確認の声を響かせる。
「……オペレーター、総員へと通達。有栖のバイタルサインを探して。兎真さんや、カイさんのも、よ。彼女らが生きているのなら……まだやり直しが利くはず」
「ですが……早谷兎真さんとカイさんのバイタルサインも、つい数十分前に……」
消え入りかけたオペレーターの事実確認に幸子は満身から声を放つ。
「それでもよ! ……やって頂戴……! あの人達が……そう簡単に死んで堪るものですか。何か……何か策があるはず……! 願いが叶うんでしょう! それが奇跡の産物だって言うのなら……人間の想像し得る奇跡くらい……叶えてみせなさい!」
必死に全ての情報を手繰り寄せようとするが未だにバイタルサインが確認出来るのは綺咲とチェシャーのものだけであった。この二人が決着をつけようとしている。恐らくは、最後の願いを叶えるための儀式として。
しかし、その結末に待ち受けるのは悲劇だ。
綺咲はチェシャーを殺し、その権限を奪い取ってでももう一度――その願いを叶えようとしているはず。
「……姫宮の……姫宮のバカ! “アリス”に会いたいですって? そんな事のために……! 私達は、私達なら! ……もっといい方法を引き寄せられたのかもしれないのに……!」
ここまでの命の犠牲の上に成り立つにしては、その願いそのものは純粋かつシンプルだ。ただもう一度だけ、“アリス”に会うと言う。
しかし、その願いが現世の人間達の運命を捻じ曲げ、そして世界を壊した。箍の外れた世界を実現してしまった。
「……バイタルサイン、完全消失……。やはり、篠崎有栖さんの……復活は……」
オペレーターの声に幸子自身、もう気概も折れそうになってしまう。全て諦めて、全てを投げ出してしまえればどれほどいいだろうか。だが、ここまで繋いできた命だけではない責任がある。
「でも、それでも……! 有栖の事を私は……忘れる気なんてない! 絶対に忘れてやるもんですか! あの子はね……バカだけれど、バカなりにここまでやって来たのよ? 全部……全部背負うくらい、出来ないわけがないでしょうに……! だから……だから応えなさいよぉ……っ! 有栖の、バカァ――っ!」
涙が滴り落ちる。半年前のカラオケの女子会でも、お互いに声をがなり立てた。互いに嫌な部分や醜い部分をさらけ出した。そんな存在が、ただの事象だなんて受け入れられるはずがない。有栖は紛い物ではなく、真実の意味で自分の友人なのだ。たとえ、世界が拒絶したとしても幸子の心が認められない。
篠崎有栖と言う名の、少女の事を。
自分の友人が、またたきの間に消えてしまうような幻だなんて。
その時、不意にコール音が鳴り響く。幸子はその先を手繰るように、ポケットに入れておいたアルセウスフォンへと視線を落としていた。
自分だけではない。
「着信……?」
「いったい、何が……」
こばととレベッカも同様だ。アルセウスフォンを取り出し、その表面に刻まれた名前を諳んじる。
その名前に、まさかと幸子は震撼していた。
「そんな事が……いえ、でも……。そうだ、“ゲーム”は決したはずなのに、アルセウスフォンはそのまま……私達はまだ……終わっていない?」
幸子は明滅するアルセウスフォンへと端末から伸びた端子を無理やり接続し、全員に届くようにゆっくりと、コール画面をタップする。
「……もしもし……?」
『あー、もしもし? 幸子ちゃん? いやぁー、久しぶりね? 元気だった?』
「……ウソ、でしょう?」
『ウソなもんですか。さっき言ったじゃない。“人が想像し得る奇跡なら、叶えてみせろ”って。……お姉さん、感心しちゃった。やっぱり、それくらい啖呵を吐けるような女の子じゃないと、後釜は務まらないわよねぇ』
『そこに居るんでしょぉ? この“ゲーム”の原初の受付嬢が。なら、“ゲーム”のルールは変わっていないはずよぉ……?』
「……この声って……?」
こばとは知らないはずだ。だが、自分はよく知っている。レベッカもコール画面から漏れ聞こえる声に戸惑っている。
『コハク……いいえ、“オリジナルチェシャー”。私達を――鏡面界にイニシャライズなさい。それくらい、出来るはずでしょう?』
まさか、と幸子は息を呑むがコハクは何でもないように冷静に応じる。まるで、その原則はこの世界の崖っぷちであっても決して変わらない理の一つであるかのように。
「承知いたしました。イニシャライズされるのは、三名でよろしいでしょうか?」
「……待って。出来るって言うの? そんな……まるで奇跡みたいな事が……」
こちらの問いにコハクは首を傾げる。
「可笑しな事を仰るのですね。人間は、度重なる奇跡をこれまでの歴史を紡いでも起こしてきた。これくらいは奇跡のうちにも入らないと存じますが?」
ロングスカートの裾をつまみ、恭しく頭を垂れるコハクには、心底理解出来ないとでも言うようであった。
――ああ、そうかと幸子は唐突に理解する。
これが“ゲーム”の受付嬢、そしてチェシャーと同じ権限を持つと言うのならば、それは奇跡でも何でもない。ただの――業務の一環。
「……三人じゃないわ」
幸子は端末を叩いて立ち上がる。こちらの意志を読み取ったように、コハクが首肯する。
「では、四名の転生者の皆様。――ポケットモンスターの世界に、再びようこそ」