ジャラランガが吼え立て、アーゴヨンを拘束しようとする。近接戦闘では無類の強さを誇るジャラランガを、如何に性能面で優れていようともチェシャーのアーゴヨンでは抑え込む事など出来ない。
「チェシャー。諦めて。私は……あなたの力を貰い、そして今度こそ、願いを叶える」
「いいえ、諦め切れません。何よりも……わたくしにとっての最大の願いは、アーキタイプアリスの解放そのもの。貴女がしようとしているのは、もう一度間違いを重ねるだけ。アリスの願いとは違うものです」
その言葉に綺咲は怒りを胸に宿らせ、そしてチェシャーのアーゴヨンを突き飛ばす。
「……同じよ。私達は結局……同じなの。“感情”なんて持ったがゆえに、こうして分かり合えない。篠崎さんを傷つけた。その存在証明を奪い去って、こうして争い合う。私達なんて結局のところ、同じなのよ。アリスの事をちゃんと考えた事なんて……一度だってない。いつだって……身勝手なだけ」
「ですが、貴女は魅せられた。十二年前の出会いに。アリスと出会わなければ、“ゲーム”は始まらなかった。転生者の仕組みだって、もっと緩やかだったでしょう。それを推し進めたのは……貴女なのですよ。姫宮綺咲様」
「黙って。あなたは……アリスの代弁者のつもりなんでしょうけれど、それもお門違い。ただの、受付嬢の成り損ない」
ジャラランガのゼロ距離での音波衝撃波がアーゴヨンを揺さぶる。三半規管を狂わされたアーゴヨンへとジャラランガは肉薄し、その躯体へと間断のない打撃を打ち込む。
「……成り損ないでも……。わたくしは、アリスに教えられた。“感情”を持って、たとえ全てを欺いたとしても、その罪に最後には焼かれても……それでも、彼女の“意思”を……達成する!」
その時、不意にハートの女王が玉座に戻って欠伸をかみ殺す。
「早くせぃ。最早、繰り言にも飽きた。勝った側にアーキタイプアリスを差し出す。それでよかろう?」
「……言われなくっても……!」
「そのつもりです……!」
ジャラランガが跳躍し、全身の表皮を擦り合わせて反響音波を前面に纏う。そのままの威力を誇りながらの激突がアーゴヨンを叩いたが、アーゴヨンは空気を裁断の刃に織り交ぜ、直上のジャラランガを断ち切ろうとしていた。
「チェシャー。終わらせましょう。私達の……真の決着を」
「ええ、終わらせましょうか。この間違った……“ゲーム”の勝利者を決めるために」
ジャラランガの躯体とアーゴヨンの痩躯が折り重なったかと思うと、ゼロ距離での応酬が互いの肉体を削っていく。全てを破砕する威力の鉄拳を高速で放つジャラランガと、数多の搦め手を一度に繰り出していくアーゴヨン。恐らくは正反対のポケモン同士の戦いの決着は、その一秒後にはついていた。
ジャラランガが猛毒を浴びて着地と同時に激しくかっ血する。
アーゴヨンが空間を抜け、その素早さを纏った風の刃で掻っ切ったのだ。
「ジャラランガ!」
「……終わりましたね」
アーゴヨンが振り返る。その瞬間、アーゴヨンの頭部が断ち割られていた。堅牢であるはずのアーゴヨンの全身に裂傷が走り、直後にはひび割れていく。
「……私の――勝ちよ。チェシャー」
「ええ。結局わたくしは……アリス一人の願いでさえも、叶えられないままで」
「早くせよ。終わりを繋ぐのに随分と飽いた。まったく、幻を切り払ってやったと言うのに、遠大な時間だけを浪費しおって……」
ハートの女王の呆れたような声に、綺咲は真っ直ぐとチェシャーへと向かっていく。
チェシャーへとアルセウスフォンを差し出す。
「……一度きりの願いで汚れたはずの姫宮綺咲様のアルセウスフォンを、今一度使用可能に……」
チェシャーの受付嬢としての権限が伸びかけて、不意打ち気味にその手が払われる。アルセウスフォンが綺咲の手から滑り落ち、一拍の逡巡が流れる。
「……チェシャー……! あなたは……!」
「おやりなさい! アーゴヨン! 最後の命令です!」
朽ちかけていたアーゴヨンが最後の力を振り絞り、アルセウスフォンに向けてその針の器官の狙いを定める。
「ジャラランガ! 阻止なさい!」
だが、間に合わないのは綺咲本人が雄弁に分かっていた。ジャラランガが駆け抜けようとするが、アーゴヨンの放つ一撃のほうが素早い。
「……何で、どうして……! 何でみんな……邪魔をするの……! 私は……私は一つだけ……。本当に一つだけでいいのに……!」
蹴躓く。この状況下で、無様に転がってしまう。
玉座でこの状況を嘲るハートの女王の奥で、自分のたった一つだけの望みの結晶である、アリスが項垂れている。
アリスを救えるのは自分だけなのに――それなのに、何故こうも儘ならないのか。
「……何で……何で何で! 私は……ただもう一回だけ……アリスに……」
「面白い! もっと醜く足掻け! もっと醜く争え! これは最高の観劇である! まったく、うぬらは下らぬ理由のためだけに、命を張る! その有り様がとてつもなく愛おしくも憎らしい! どこまでも愚か! どこまでも無知蒙昧! そうだ、そうやって戦え! そうやって食らい合え! その結末こそが、妾にとっての美酒である!」
――醜い争い。
きっと誰にとっても、自分とチェシャーが争う理由なんて大した理由に映らないのだろう。こんな事のために、あらゆる人間を騙し欺いてきた。
父親であるコウジも、GIGの隊員達も、姫宮財閥のオペレーター達も。そして、兎真やカイも同然。それでも、と綺咲は手を伸ばす。
最後の一欠片。
十二年前に魅せられたように、長い年月をかけて、この願い一つのために殺し殺されてきた。どんな汚い手を使ってもよかった。どれほど醜く成り下がってもよかった。
綺咲はアルセウスフォンを今に砕くであろう、アーゴヨンの一撃を予感していた。
土に塗れ、泥に汚れながらも、醜く地を這う、ただの少女として。
「……お願い……。私はもう一度だけ……アリスと……お話ししたいだけなの……」
――綺咲ちゃんを疑うわけないよ。
不意に、脳内に残響した声はここまで焦がれてきた“アリス”のものではない。自分が願い、そして祈る事で世界を書き換えた――その結実の少女の声。
「……篠崎……さん?」
ああ、よく考えてみれば願いは叶っていたのだ。
憧れた“アリス”ではなかった。どこまでも眩い、あの日から永劫失った純粋な乙女、“アリス”。
そうではなく、現世の欲に塗れ、俗世の意見に汚れた、無知蒙昧なる少女、“篠崎有栖”。
有栖は自分を疑う事などなかった。当然だ。祈りの副産物が願った側を欺き、裏切るなどあり得ない。
――だが、本当にそれだけであったか?
有栖はあらゆる人々と絆を繋いできた。
最悪な出会いをしたはずの兎真とも、戦って殺し合ったはずの偽りの姉である妙子とも、誰とでも分かり合うための道を模索していた。
有栖の存在そのものが偽りと虚飾に糊塗されていたとしても、彼女が願いそして紡いできた友愛は本物であったのだ。
だから、いつしか篠崎有栖に向かい合う己が分からなくなっていた。
憧れの少女である“アリス”に接するように自分をさらけ出せばいいのか、あるいは全く別種の、一人の人間として見つめ合えばいいのか、何もかも分からなくなってしまっていた。
有栖はただ漠然と自分を信じてくれたわけではない。
それあれかしと願い、創られた存在であろうとも、篠崎有栖と言う名の少女は確かに“居た”のだ。
たった半年にも満たない、友情を育むのには短過ぎる邂逅。
それでも、有栖は不格好に自分と向き合ってくれた。そこに願いも祈りも、なかったとは言えない。こうして全ての願いが消え落ちる最後の瞬間に、思い知る。
理想の乙女、“アリス”。
誰の目にも憧れと羨望として映る、最愛で至高の存在。
無論、会いたくないわけがない。再会したかったのは本音である。だが、この世界では叶わないのだ。だから、オリジンアルセウスフォンを使い、世界を壊してでも、摂理を狂わせてでも会おうとした。
その結果が“篠崎有栖”と言う名の少女の顕現――願いを叶えるのがこの“ゲーム”のただ一つのルールだと言うのならば、自分の願いはいびつに叶ったのではない。きっと、出会い直せと、世界は言っていたのだ。
十二年前に焦がれた永劫の別れではなく、もう一度、一人の少女として。
等身大の少女を投影し、憧れでも羨望でも、ましてや無限に胸から湧き上がる愛おしさでもない。
「……私の願いは……もうとっくに……?」
アーゴヨンの放った針が迫り来る。綺咲は身を衝き動かす感情のままに、アルセウスフォンを庇うべく手の甲を突き出していた。
「うぐっ……ぅ」
毒を纏ったアーゴヨンの針が少女の手でしかない綺咲の手の甲を突き破る。毒が染み渡り、黒く変色していく皮膚を目の当たりにしてハートの女王が歓喜の声を上げる。
「そうだ! もっと醜く殺し合え! すぐに決着がつくなどつまらん! もっと興に乗れ! 互いを正しいのだと認識しながら、血を流し、狂って争うが良い!」
綺咲は神経を引っぺがすような激痛が走る右手でアルセウスフォンを掴み、それから立ち上がる。
「……チェシャー。私が憎いの……?」
「……ええ。こんな事なら……“感情”なんて知らなければよかったのだと、思うほどには」
「……私もそう。あなたと殺し合ってまで……アリスの事を求めていた。けれど、違う。違うのよね? ……だって、私の願いは……」
「どうした? もっと争え! 勝ったほうにアーキタイプアリスは微笑むであろう!」
喜悦を浮かべたハートの女王に綺咲は振り返る。まったく同じ双眸に、纏いつく邪悪な色彩。
「……私の願いが、変わった」
「ほう? “影”とはいえ、強欲に成り下がったものよ。では、願え。チェシャーを殺し、そしてその存在証明を示してみせよ!」
「……いいえ。もうその必要なんてないわ」
ここまでの殺し合いを愉しんでいたハートの女王の表情が、不意に曇る。綺咲は血が滴り続ける右手で、真っ白であったアルセウスフォンを握り締める。
「……もう一度だけ。もう一度だけ、私は……“篠崎有栖”と言う名の……等身大の女の子に、会いたい。会って……謝りたい。私の狂った願いの果てなんかじゃない、と。あなたは、まぎれもなく……一人の人間だった、と」
今の自分が言える、心の奥底からの願いにハートの女王は吐き気でも催したかのように眉根を寄せる。
「……下らん願いだ。それならまだ、アーキタイプアリスを求めてどこまでも、どんな人間相手であろうとも戦うと言ったほうがマシであったのに」
「……下らなくったっていい。私は……私、姫宮綺咲の、今の願いは、それだけ……」
血を流し過ぎたせいか、あるいは血管を毒が回ってきたせいか、眩む視界の中で綺咲はしっかりと大地を踏み締める。煤けた風に、テンガン山より吹き荒ぶ厳しい自然の風圧を頬で感じながら、今一度、その願いを口にする。
「……お願い……。もう一度だけでいい……。篠崎さん……に、謝らせてちょうだい……。私はあの子に……とても酷い事をした、とても酷い事を、言ったままで……終わりたくない」
「……そのような些末な懺悔など望んではいない。もっと醜く戦え。己のエゴのままに、他者を傷つけるが良い」
ハートの女王の言葉に綺咲は頭を振る。
「……違う。もっと早くに……気づくべきだった。篠崎さんは……私を、無条件で信じてくれていたわけじゃない。願いだから望みだから、祈りだから彼女はそれを選択したんじゃ、なかった。……篠崎さんの存在は確かに、私の願いだったけれど、あの子の命は他でもない、本物だったのね……」
今さらに気づいた絶望の終着点。
血に染まる右腕から止め処なく流血しながら、綺咲は今一度、アルセウスフォンを強く握り締める。最早、ここに残った悔恨を噛み締め、そして――ただただやり直したい。
篠崎有栖と言う名の少女との、出会いを。
永遠の少女たる“アリス”との、理想的な再会ではない。
どれほど汚れていようとも、穢れていようとも、それが意味などない邂逅であろうとも、それでも会いたいのだ。胸を掻き毟るその衝動に、ハートの女王は心底醒め切ったようであった。
「……つまらん。シノザキアリスなど、ただの蜃気楼のようなもの。あれが生きていようと死んでいようとも、意味などない。自らの傲慢さで結実したその魂に、うぬは謝りたいだと? ……どこまでも、つまらぬ存在よ」
「……それでも私は……」
血で汚れたアルセウスフォンの液晶から、不意にコール音が響き渡る。それには誰もが対応し切れず、綺咲はそのコール番号を目にした瞬間、瞠目していた。
「……あり得ない。何で、この番号が……」
震える指先でタップした途端、ハートの女王の傍に控えていたバステトの持つアタッシュケースが裏返る。
そこに刻まれていた言葉を認識した瞬間、バステトの肉体がねじれその身体が生み出したのは無数の孔であった。
「……イニシャライズのショートカット……? でも、何故バステトが……?」
「――それは、私達もまた転生者であるからに他ならないわよ」
四つの眩い流星がバステトの肉体を引き裂いていた。生じた白光の輝きを誇りながらもつれ合い、やがて大地に顕現する。
しかし、信じられない。
なにせ、現れたのは間違いようもなく――。