ALICE   作:オンドゥル大使

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第127話 夢の『終焉』

 

 誰かに呼ばれたような気がして瞼を薄く開く。

 

 しかし、世界は暗礁に沈んでいた。水平線の彼方で赤黒い光が明滅し、綺咲はぬるい波打ち際に晒されている。

 

 広がっているのは骸骨を粉砕したような、嫌な白色の砂浜。砂塵を指先で手繰り寄せ、綺咲は乱れた服飾と、そして解けた黒髪にああと感じ入る。

 

「……もう、私は死んだのよね」

 

 直前までの記憶はある。

 

 真の姿を晒したハートの女王のネクロズマに焼かれ、恐らくは痕跡さえも残らなかったのだろう。だから、こうして綺麗な姿で地獄のような光景に抱かれている。

 

 綺咲は海岸沿いで、両膝を引き寄せて俯く。

 

 誰も彼も――死んだ。

 

 せっかく奇跡を起こしてくれたのに、全て無駄にした。

 

 それもこれも、自分のワガママ一つのせい。自分が願ったからだ、祈ったからなのだ。だから死ななくっていい命まで摘む。潰えなくっていいものでさえも、虚しく消え失せていく。

 

 自分に似合いなのは、十二年前のヒスイ地方などではない。永遠の少女、“アリス”との出会いなどではなく、きっとずっと心の奥底で求めていたのは罰せられる場所なのだ。

 

 ならば、これほどまでに適任なものはない。

 

 ヒトの骨が砕けた砂浜に、体温のようなぬるい波打ち際。全身を苛むような、嫌な感覚。

 

「……私は、最初から地獄に行くべきだった……」

 

 もう一度、“アリス”に会いたいなどと過ぎたる願いのせいで、転生者全ての運命を狂わせ、挙句の果てには世界でさえも壊してしまった。

 

 罪なのだ。

 

 罰なのだ。

 

 だから、もう誰とも会えない地獄の片隅で、ただただ蹲っているしかない。朝焼けも夕焼けも訪れない、時間の概念が消え去った水平線。綺咲はその果てを眺める。

 

 もう、誰かに謝る事も出来なければ、誰かの願いに報いる事も出来ない。ただ、どう在りたかったのかを問う事でさえも無為。

 

 人骨で構成された穢れた砂浜をその時、誰かが降り立っていた。

 

「……だれ……?」

 

「――綺咲ちゃん」

 

 耳馴染んだその声に振り返りかけて、ああと綺咲は諦め切った吐息を発する。

 

「……死神って言う者が居るとすれば、最後に欲しいものを届けてくれるのね。けれど……私が求めていたのは、鏡面界の“アリス”なの。あなたではないわ、篠崎さん」

 

 むしろ、こうして有栖の形を伴わせている事でより罰の側面は強くなったと言えよう。永劫に会えないのだ。どのような運命の悪戯があったとしても、あるいは神の戯れがあったとしても、もう会えない。

 

 自分のせいで、“アリス”は目を覚ます事はない。それが分かり切ってしまったのだ。

 

「綺咲ちゃんは悪くないよ」

 

「そんなのはウソ。……私が、悪いのよ、篠崎さん。尽きぬ渇望からあなたを生み出し、奇跡を望む事で世界を壊してしまった。……実の父親を殺す原因を作ったのよ? そんな人間がこれ以上、求めてはいけないわ」

 

「でも、綺咲ちゃんは頑張ってきたじゃない」

 

 やはり、背後に立っているのは死神なのだろう。

 

 自分の欲しい言葉だけを発する存在など、それ以外の何者でもない。

 

「……これ以上……私を惑わさないで。魂が欲しいのならくれてやるわ。だから……だから、私と“アリス”の思い出に、踏み込んで来ないでぇ……っ」

 

 それは誰にも触れられない、最後の楽園であった。

 

 十二年前の“アリス”との邂逅は、自分の存在理由を変えたのだ。ヒスイ地方に焦がれ、そして終わる事のない“アリス”との毎日が輝いていた。

 

 それが“アリス”にとっては無限に続く地獄の一幕だったとしても、それでも自分は救われたのだ。鏡の世界に心残りを置いていったのは、自分自身。

 

 本来ならば、もっと早くに狂うべきであった。もっと早くに壊れるべきであった。だと言うのに、“アリス”との思い出が鮮烈がゆえに狂えなかった、壊れられなかった。

 

 その瞬間を求めて、十二年もの間、ずっと心残り一つのためだけに生きて来られたのだ。

 

「綺咲ちゃんを、疑うわけないよ」

 

「……やめて。お願いだから……篠崎さんの……“アリス”の声で、私に語りかけないで……! 私はもう願っちゃいけない! 祈っちゃいけないの! ……これ以上、何かを欲しがっちゃ……いけないはずなのにぃ……っ」

 

 それでも欲してしまう、願ってしまう。

 

 もう一度だけ、そう本当にもう一度だけでいい。

 

 謝らせて欲しい――“篠崎有栖”に。

 

 あなたのような人間を願って悪かった、申し訳なかったと。

 

 たった一人の、少女の存在の拡張は、世界の箍を外させてしまった。

 

 現世に“アリス”の再現は、それだけで事象の書き換えに相当したのだ。

 

 オリジンアルセウスフォンに願わなければ、祈らなければよかったのに。どうしても耐えられなかった。綺咲は耳を塞いで懺悔する。

 

「……ごめんな……さい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……! GIGのみんな……早谷兎真も……転生者のみんなも……ごめんなさいぃ……っ! 私が孤独に耐えればいいだけだったのに……私が余計な事を……分不相応な願いを、抱かなければ……! みんな、死ななかったのに……!」

 

 実の父親を欺き、有栖や兎真を謀り、そして世界でさえも呪ってみせた、自分のささやかな願い一つ。いや、今はもう呪詛か。深く黒く、澱んだ願いと成り果てたこのたった一つの祈り。

 

 永劫の水平線の向こう側から、呪いの言葉が漏れ聞こえてくる。

 

 それは時として父親の声でもあり、兎真の声でもあり、これまで殺してきた転生者達の声でもあった。

 

「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい……」

 

 許してなんて言わない。報われてはいけなかったのだ。

 

 しかし、死出の水面の反対側から、誘惑の声は明瞭に耳朶を打つ。

 

「綺咲ちゃん、こっちを向いて」

 

「……私に死ねと言うんでしょう! 惨たらしく……酷い地獄の底で、何度も苦しめって言うんでしょう……! でも、でもぉ……っ! 私は十二年間、ずっと……ずっと心の拠り所なんて……なかった。お父様が近くに居てくれても、GIGのみんなが分かってくれても、姫宮財閥のみんながどれほど努力してくれたのも……全部知っている。けれど、駄目だったの。我慢が……出来なかったのね。だから、十二年の月日が経ったあの日、私は私とお父様しか知らない、姫宮財閥の再重要機密であるあの部屋に赴いて……オリジンアルセウスフォンに願った。“もう一度だけ、アリスと会わせて”と。……それがこんな結果になってしまうなんて、思わないじゃない……」

 

 自分の願いは一つだけ。

 

 永遠の少女、純潔の象徴――“アリス”に、もう一度だけ笑いかけて欲しかった。話して欲しかった。喋って欲しかった。微笑んで欲しかった。自分だけを見て、自分だけのために――十七年の月日のうち、ほんの数日間であったとしても、それでも永劫よりも一瞬の、刹那に過ぎない出会いが、全てを変えたのだ。

 

 呪われてしまったのだろう。

 

 ハートの女王が“アリス”は罪人だと言っていたのも今ならば分かる。

 

 心の奥底に焼き付く輝かしい笑顔。純粋な青い眼差し。透き通った声。絹のような金髪。白磁の肌、どれを取っても、自分は魅せられてしまっていた。

 

 この世で最も麗しく、そして儚い存在に触れたがために、それ以降の人生は消化試合であった。

 

 十二年間、何が起こったのかなどほとんど覚えていない。

 

 あの出会い以外、全てが無意味であった。

 

 どれだけ父親が心を砕いてくれたのかも、他のスタッフや転生者達が、どんな願いを持っていたのかも、もう記憶の彼方だ。

 

 全てはただ一つ――“アリス”に会いたい、という一縷の望みのために。その瞬間が訪れるのならば、どれほど汚い手も使った。どれほど血に塗れ、酷い罵詈雑言も受けようと思えた。時には卑怯だとも、あるいは姑息だと言われた事もあったか。

 

 だが、そんな些末事はどうだっていい。

 

 この戦いが終われば、“アリス”が微笑んでくれる。自分のためだけに、その声を、その香りを、その歌を使ってくれる。ならば、迷うわけがない。戸惑いも、躊躇も全て。

 

 どれだけでも殺せた。

 

 どれだけでも裏切れた。

 

 どこまでの残忍に成れた。

 

 どこまでも醜悪に成り下がった。

 

 だと言うのに、もう自分は“アリス”に、会えない。

 

 願いを叶えてしまったからだ。

 

 いびつに叶えられた奇跡の産物こそが、“篠崎有栖”。最初から、ずっと分かっていたのに。

 

「……ごめんなさい、篠崎さん。……あなたの人生を、願いを、その宿命を……壊してしまった。私の我儘で……あなたを穢してしまった。あ、そう、か……。私が一番大事にしたかった、“アリス”との思い出……それを壊したのは他でもない……」

 

 こんな今際の際に、全て理解出来てしまう。

 

 世界を壊したのは、自分自身。

 

 こんな酷い末路になったのは、自分が願ったのだ。

 

 破滅願望もここまで来れば、もう笑うしかない。綺咲は涙を流しながら、乾いた笑いを浮かべる。

 

「……私が、“アリス”に届く、全てを、狂わせてしまった……」

 

 狂ったシステムが“篠崎有栖”を転生者として見出し、そしてハートの女王と戦う運命を強いてしまった。彼女はしかし、つい先ほどまで何も知らなかったはずだ。

 

 何も知らないから――純粋だから、自分を信じられる。

 

 そんな言葉を吐ける。

 

「綺咲ちゃん」

 

「もうやめて……! やめてよぉ……っ! 私が悪かったんでしょう? 最悪の形で……願いを叶えてしまった……! 他の転生者のほうが、願いを叶える素質も、ましてやもっと高尚なものも持っていたのかもしれない。けれど……叶ったのは、私の……私の……!」

 

 最悪で醜悪で、そして澱んだ願いのカタチ。

 

 いっその事、鏡面界から帰ったその瞬間から狂えれば、まだマシであったのに。

 

「綺咲ちゃん」

 

「……お願いだからぁ……っ! もう一人にさせて……! 私には……こんな場所が、お似合いなんだから……」

 

 戦うのも随分と疲れた。どれだけの人間の願いを踏みしだき、どれだけの人間の命の上に、こんなエゴが成り立つと言うのだろう。

 

 だからこれは、呪い。

 

 十二年前にかけられた、呪縛。

 

「それでも、あたしは綺咲ちゃんの事、諦めたくないよ」

 

「……幻滅したでしょう。私は……何でもないの。完璧でもなければ、強くもない。……ただ一個だけの願いのために、世界を謀った……本当にひどい……ひどい事を……」

 

 その時、不意打ち気味に死神の指先が肩にかかる。そろそろ言い訳や釈明の時間も過ぎたか。自分はこうして、呪いに抱かれて消えていくのだろう。その冷たい手に全てを任せようとした、刹那。

 

 ――いつまで眠りこけてるのさ!

 

 不意に、まさしく唐突に。

 

 呪いではない言葉が海の向こうから聞こえてくる。

 

「……早谷兎真……?」

 

 否、兎真だけではない。

 

 太陽が没するところ、全ての魂が還るはずの彼方から、いくつもの声が連鎖する。

 

 ――恨みっこなしと言ったでしょぉ?

 

 ――姫宮! あんた……諦めるって言うの……!

 

「赤沢霧子……高峰さんも……?」

 

 いや、これはきっと悪い夢なのだ。

 

 今際の際に見る、都合のいい幻聴。そうでなければ――他の誰かが自分を許すわけがない。他の誰だって。

 

「けれどあたしは、綺咲ちゃんを疑うわけないよ」

 

 死神の手を、綺咲は思わず取る。

 

 それは死神の手などではなかった。

 

 白磁の指先、憧れの少女のあたたかみのある手を辿り、綺咲は振り返っている。

 

 永劫の黄昏を背にして――立っていたのは。

 

「……アリス?」

 

 その問いかけに、彼女は残念そうに頭を振る。

 

「……ごめんね。あたしは、綺咲ちゃんの焦がれた“アリス”じゃない。でも、ね? あたしだってしょうもないんだ。願いが叶うのなら、お腹いっぱいにパンケーキを食べたいだとか、一生困らないお金が欲しいだとか、あるいは、このまま……女子高生のまま時なんて止まっちゃえって思っちゃう……身勝手なの」

 

 そうだ、目の前の少女は憧れの“アリス”などではない。

 

「……篠崎さん。けれど、私はとてもひどい事を……後悔してもし切れない事を、してきたのよ? 罰するのなら、あなたが正しいわ」

 

 今一度、言い聞かせるようにして有栖は言いやる。

 

「……それは、違うよ。願った時点で、あたしはあたし。シノザキアリスという名前の、一人の人間なの。だから、これはあたしからの……お願い。もう、いいんだよ? 後悔も、言い訳も、どれだけ綺咲ちゃんの世界が罪に塗れていても、それでもあたしは……綺咲ちゃんの全部をひっくるめて……好きなんだ」

 

 綺咲は人骨の砂浜で、寄せては返す波の音を聞いていた。

 

 波打ち際に等間隔で押し寄せる海原は、もう血の色に染まっている。

 

「……私の事が……すき……? でも、私は……私が願わなければ、こうはならなかったのよ? それでも……なの?」

 

 その問いかけに有栖は頷く。何を迷う事があるのか、とでも言うような微笑みと共に。

 

「……うんっ! だってあたし……綺咲ちゃんとなら。きっと何度でもやり直せるよ……! だから、これ以上自分を責めないで。それに……さっきから兎真さんが呼んでる。ほら、そろそろだよ」

 

 罪の砂浜に残響する、兎真の呼び声。

 

 しかし、舞い戻っていいのだろうか。

 

 一度は塵に帰った罪を抱えて、もう一度だけ世界に是非を問うなど。

 

 きっと重過ぎる。

 

 きっと辛過ぎる。

 

 だがそれ以上に――その誘惑は自分には――。

 

「……眩し過ぎるよ、篠崎さん……」

 

 熱いものが頬を濡らす。心の奥底が震えて泣いたのは、本当に何年振りであろう。

 

「……眩しいのなら、もう朝だよ。さぁ、綺咲ちゃん。――目を覚まして」

 

 お互いにこつんと額をくっつけて、そして水平線から昇ってきた黎明を照り受ける。その光に抱かれるようにして、罪の世界は漂白されていた。

 

 

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