ハートの女王の遺骸は残らなかった。ネクロズマと共に光となって風に巻かれて消えていく。
それもこれも、全て――事象の終わりを示している。目の前のチェシャーに、有栖は向かい合っていた。
「終わりましたね、“アリス”」
「……あたしは、“アリス”じゃないよ、チェシャー」
「……そうでしたね。“篠崎有栖”。貴女には……最大限の感謝を。もし……貴女と現世で出会わなければ……わたくしはもっと醜悪な裏切り者として、全てを終えていたでしょう」
ロングスカートの裾をつまんで恭しく頭を垂れるチェシャーに、有栖は振り返る。
転生者として、これまで戦ってくれた皆が待ち望んでくれている。自分の願いを叶える時だ、と。
幸子が、ツバサが、霧子が、カイが――そして、兎真と、綺咲も。
「……篠崎さん。あなたの願いを……」
「……うん。綺咲ちゃん」
改めてチェシャーに向き直ると、彼女の眼前でアルセウスフォンが弾ける。願いをアタッシュケースに変え、チェシャーは膝をついていた。
「……どうぞ、有栖。最高得点者として、貴女には権利があります。全てを巻き戻す“コール”、この戦いを続ける“レイズ”、そして――」
「“ゲームから降りる”……も権利のうち、か。チェシャー。あたしは最高得点者として、宣言するよ。……最初の時みたいに訳も分からずに“コール”するんじゃない。あたしの願いは、全部を巻き戻す事。……あたしが生まれず、転生者同士の“ゲーム”も起きず、ポケモンがイニシャライズしてこない、世界の創生。本来の意味の“コール”を」
「承知いたしました」
途端、鏡面界の天地が逆巻く。流転した世界規模での作り変えの際に、有栖は身を任せていた。今の今まで踏み締めていた大地が掻き消え、遥か彼方に映ったのは銀河の渦巻きである。螺旋の宇宙の最果てから、今の地球へと覆い被さるようにして新たな星の息吹が宿ったのを感じ取る。
「……これが世界創生……真の“コール”か」
月の住人として、有栖はそれを観測する。何だか他人事なのも不思議ではあるのだが、それでも充分であったのは隣に居た人物のお陰かもしれない。
「こ
れ
が
き
み
の」
不可思議な音階じみた声であるが、その金髪とそして白磁の肌は間違えようもない。
「……うん。あたしの願いなの。……結局、会う事はなかったんだね――おとうさん」
「あ
ず
け
た
ん
だ」
荘厳な鐘の音が無音のはずの宇宙に響き渡る。まるで祝福のようでさえもあった。
「……お母さんに? それとも……お姉ちゃんに?」
傍らの存在は人間の知覚では関知し切れない光に包まれている。
自分の網膜情報で金髪なのだと理解出来るだけで、本来の色調は違うのかもしれない。
「き
み
の
ね
が
い
を」
蒼く輝く月の海の上で、有栖は対面する。
それは一説には千本の腕を持っていると言われ、宇宙創生にかかわったとされる「いきもの」――否、生物の括りこそが傲慢な人のそれか。
「……あたしは、もういいんだ。綺咲ちゃんに出会えた、兎真さんに出会えた。……幸子も、ツバサ姉も。……お姉ちゃんだって。みんな、あたしとっては欠かす事の出来ない、大切な人達……。だから、あたしの願いはもういいの。……みんなの願いを、叶えて」
「い
い
の
か
い?」
「……うん。あたしは、みんなから……溢れるくらいのものを貰ったから。だから、みんなの願いを……誰かの祈りを……あの星に届けて欲しい。いずれ、新生するみんなの世界に……どうか、ひとひらの願いと祈りが……降り注ぎますように」
「……そうなのだとおもえるんだね。――アリス」
不意打ち気味に見知ったような声で尋ねられたものだから、有栖は戸惑いがちに視線を振り向ける。
その時には、輝ける存在は別次元に昇華していた。
まさに、解けたパズルを解き直すようにして、千本の腕が知覚される。
月から望めるあの星は、もう自分のよく知る星ではないのだろう。
それでもよかった。
だって――溢れるほどの“アイ”で、自分は紡がれ生まれたのだから。
この物語は、ここでお終い。
語り部の居ない、鏡の国でのおとぎばなし。
満足げに星の創生を見守る中で、月の内海でむせび泣く声を聞く。まるで正反対の鏡写しのようにして、佇む自分とは位相の異なる場所に立つ少女が泣いている。
「……泣かないで、綺咲ちゃん。きっと、これでよかったんだから」
「でも……でもぉ……っ! 誰も“アリス”を知らないんだよ? そんな事ぉ……っ!」
「……ありがとうね、綺咲ちゃん。あたしの事を、世界が変わってもきっと、あなたは覚えてくれているはず。あたし、夢の中で出会えてよかった。ううん、夢で逢うよりもずっと前から……あたし達は、特別な縁で繋がっていたんだね」
「だからって……こんなの……。残酷だよぉ……っ!」
鏡を隔てて、足元の綺咲と向かい合う。
きっと、創造される世界は、よりよい未来。よりよい明日のはずだ。そこに自分が居ないかもしれないのは――ちょっとだけ悲しい。
けれど、きっと良い未来を、彼女らならば描いてくれる。
「……ごめんね、綺咲ちゃん。あたし、やっぱり弱いや……。心残りが出来ちゃう。だから……」
金髪を結ぶ白いリボンを、綺咲の手に託す。
ぴょこんとした、ウサギを象徴するようなリボンが鏡の世界を超えて、綺咲の手に届いていた。
「……世界が変わってもきっと……あたしは、別のあたしで出会えるよ。だって綺咲ちゃんは……どれだけ世界を隔てたって……最初に出会うんだから」
「でも……でもアリス……っ! 今のアリスは……どうなるの……?」
どうなるのか、自分でも分からない。何せ、宇宙規模での事象の書き換えだ。綺咲が自分を望んでくれた以上の改変が行われるのかもしれない。
もしかしたら、宇宙が変異する頃には、もう自分の存在など誰一人覚えていないのかもしれない。
それでも――信じるのは、出会ってきた人々の事。
「……綺咲ちゃんは、あたしの最後の心残り。リボンをあげちゃったから。けれど、思い出してくれる時にはきっと……綺咲ちゃんの傍にはあたしが居る。いつだって、傍に居るよ」
だから、もう夢の時間は終わり。
鏡の世界の向こうに居る綺咲と繋がっていた指先が離れていく。
「アリス……! ……ううん、篠崎……有栖さん……」
有栖はその言葉に微笑む。
「……よかった。だって綺咲ちゃん、ようやくあたしの名前を、呼んでくれたね」
あとはこの世界創造を見守るだけ。
数億年、数千年、あるいはもっとか。自分の選んだ世界の書き換えを、最後まで――事象の一欠片になるまで観測し続ける。それこそが、この真の“コール”を選んだ功罪。
月面で、有栖は椅子に座り込んでいた。
時間だけはたっぷりとある。新しい世界に、新しい自分。そもそも、全てが書き換わった後で、何が残るのかも分からない。
月の内海で、綺咲が名残惜しそうにしていたがやがて身を翻す。
いつまでも自分に囚われる必要なんてない。
永遠の乙女――“アリス”との別れは出会いの始まりなのだ。
そうなのだと、全て分かっているのに。
「……何でなんだろう。すごく寂しいの……泣く事くらいは……いいよね……?」
数億年の静寂の中で、有栖は止め処なく溢れる涙に頬を濡らしていた。
「あーあ……なんかスケールデカ過ぎじゃない?」
隣でそう口にすると相手がまさかの相手であったので、兎真は頬をむくれさせる。
「……これが、神様の……世界の作り替えなんだね」
「カイってさ。もうちょいロマンチックに言えない? 新しい世界の始まりの夜明けなんだよ?」
その問いかけにはカイも肩を竦める。
「……色々と勉強したけれど……やっぱり実感湧かないかも。これが世界の始まりの日なんでしょう?」
「だねぇ。……ま、メンドーな事は、全部神様に任せちゃえばいいんだってば」
その結論にカイは宇宙の片隅に佇みながら、千本の腕による創世神話を眺める。
「……分からないものだよね。わたしは数百年……ううん、もっとかもしれないけれど、随分と前にヒスイ地方で死んだであろう、人間の魂の焼き付き、再現に過ぎないのに……それでも心打たれるものがあるなんて」
「きっと、人間ってさ。どんな境遇でも、感じ入る心くらいは持ってるもんなんだよ。それこそさ、“感情”も、“意思”も“知識”だって、誰かに与えられるものなんかじゃない。自分で見出していくだろうねぇ」
「……わたし達の戦いは、無駄じゃなかったのかな」
「そう思わないとやってけないっしょ。ま、世界の作り替えなんて大それたコト、あーしはパス。めっちゃ疲れそうなんだもん」
やれやれ、と思っていると不意にカイはそういえばと問いかける。
「……結局、あなたは“知識”の神……ユクシーの分霊のようなものだったの?」
「うぅーん、どうだろ。確かに“知識”の神……っつーか、全知全能っての。マジに疲れちゃうから、もうカンベン。だってさ、全部が分かっちゃうって、すっごいつまんないよ? やってらんないってば」
「……わたしは全知全能とは言ってないけれど?」
あらら、とこのような土壇場で醜態を晒すとは想定外。兎真は戦いの中でぐしゃぐしゃになった髪を手櫛で梳く。
「……喋り過ぎちゃったかな? まー、髪の毛もぼっさぼさ! ホント、いー加減にして欲しいし!」
梳いた髪からインナーカラーが抜けていく。その色彩に、カイが目を見開いたのが伝わった。
「……兎真さん、あなた……ユクシーじゃなくって――」
その答えを制するように、兎真は唇の前で指を立てる。
「しーっ。これ、秘密じゃん? まぁ、それに? 全知全能やるのって、今どきJKには流行んないっしょ♪」
微笑みを浮かべて、兎真は世界創造の光景を眺める。
たとえ、世界が何巡も繰り返そうが、あるいは何億年もかけてやり直そうが、関係がない。自分の役割は、案外、つまんないものなのだ。
「……シンオウさま……。……本当、神様って気紛れだね」
「でしょー? 神様って本当に、気紛れなんだからねぇ」
やがて千本の腕が星の形状を伴わせて来る。この段階だけでももう数千年。きっと、自分達が生きてきた時代に到達するのには、もっとかかるのだろう。
それでも――その行方を見守り続けるのだと決めた有栖に、今は尊敬しかない。
きっと、世界の始まりの日には祝福と共にありますように。そう願いながら、兎真は輝き始めた己の内奥に潜って、そして一言だけ呟く。
「……始まりも終わりも同じ。さぁ、“アリス”――目を醒まして」