「よぉーし! もういっちょ頑張ってみますか! 有栖っ!」
立ち上がって手を差し伸べる幸子に有栖は起き上がってその手を取る。
「……でも、幸子ってタフだよねぇ……。あたし、疲れてきちゃった……」
「夜になるまで時間はまだまだある! ギリギリまでレベル上げするよー! 鏡面界に居られるのはせいぜい、学校の時間くらいなんだし!」
トランプ兵団を探してもそう簡単に見つかるわけでもないが、そこいらで生活の営みを続けるポケモンは散見される。時折こちらと目が合った個体は襲ってくる事もあったが、迎撃はさほど難しくはなかった。
「……ねぇ、チェシャー。ポケモンと人間が共存するのは難しいって言っていたけれど、この辺の子達は大人しそうだけれど……」
『この近辺はまだレベルの低い個体が生存しています。ですが、ポケモンは生存競争を勝ち取った存在。湿地帯や山岳地帯に行けば、自ずと強大なポケモンと相対する事もあるでしょう』
「じゃあ余計にレベルアップの機会じゃん! もっと強いのを倒しちゃおーよ!」
「……もう。幸子は楽観的過ぎるよ。囲まれたり、強い個体に行き遭ったらどうするの?」
「そん時はそん時ー」
気楽そうに手を振る幸子の背中を認めながら有栖は川にかかった橋を視界に中に入れる。近づくと石造りで作られた強固なものであり、劣化は進んでいるが明らかに人の手が入ったのが窺える。
『どうなさいました? 有栖』
「あ、いや……。何でこうも人間の文明の証明だけ残して……人は居なくなっちゃったんだろう……。トランプ兵団のせいだけじゃ……ないような……」
『わざわざ破壊する必要性もないのでしょう。トランプ兵団も人型である以上、人間の機能を使う必要性があります。それは例えば橋や道など、壊す理屈のないものもあるのでしょう』
壊す理屈。だがその論法で言えば、自分達がトランプ兵団を倒す理屈もまた、ないのではないか。そんな思いが脳裏を掠めた矢先、幸子が足を止める。
「あっ……そろそろ帰んないとさすがにまずいか……」
アルセウスフォンに表示された現実世界の時刻に有栖も気づいて頷く。
「うん、じゃあ、また明日ね」
「チェシャー。現実世界に戻るからイニシャライズしてよ」
『かしこまりました』
直後、世界が灰色の靄に切り替わり、オーロラの向こうで現実世界の暮れかけた夕映えが視界に留まる。
「……これも慣れないなぁ。鏡面界と現実の時差って言うのも」
『ですが、こればかりはどうしようもない事ですので』
「分かってるってば。有栖、私と一緒に帰れば怪しまれないと思う」
「う、うん……」
幸子と共に家までの帰路に当たる坂道を登っていく。その途上で幸子は不意に言葉を投げていた。
「……有栖さ。こういうのって嫌なの?」
「あ、いや……嫌とか言うわけじゃ……」
まごついていると幸子は、まぁねぇと声にする。
「ちょっと不良になったみたいだし、有栖みたいないい子ちゃんにしてみれば、引っ掛かるか」
やはり幸子に嘘はつけない。有栖はおずおずと頷いて返答する。
「あのね? 別に全然嫌ってわけじゃないの。……ただ……こんな事をしていても、いずれは……一年後とかにはあたし達ってもう受験生なわけじゃない。いいのかな、って」
「あのねー、有栖! まずあんたは真面目過ぎ! クソ真面目!」
ずびしと指差されると有栖は二の句を継げなくなってしまう。
「それと、別に私達が逃げたっていいじゃないの。だって、転生者じゃないと鏡面界は救えないらしいけれど、現実世界じゃ世界を救うなんて大それた事なんて絶対に出来ないんだからさ。逃避って言うけれど、これも立派な世のため人のためだと思うけれど?」
どこか詭弁めいてはいるが、確かに転生者として選ばれた自分達が戦わなければ鏡面界の危機だと言うのならば、優先度はその通り。
「……あたし達にしか、出来ないんだよね……?」
「もちろん! だからあんたは後悔したり、気負う事なんてないんだってば。どうせ、有栖が考えたって、なんちゃらの考え易きに似たりって奴なんだし」
「……むぅ。褒めてないよね、それ……」
幸子は快活に笑い、自分の肩を何度も叩いてから家路につく。
「じゃあね! また明日!」
幸子へと手を振りながら有栖はふと、このような感慨も、そして永劫に続くと思われる日常も、もう壊れているのだと感じ取る。
ポケモンの出現と、“ゲーム”への参加、転生者としての責務――どれもこれも、ほんの17歳の少女が背負うにしては重責だ。
「……ただいまぁ……」
「有栖、そう言えばテスト勉強は……」
「ちゃんとしてるってば……。お姉ちゃんは黙っててよ」
リビングでくつろいでいる妙子に思わず反論してしまうと、その手が肩に触れる。
「何を言ってるの! あんた、そうじゃなくったって成績はよくないんだから……勉強しないと母さんに迷惑をかけちゃうでしょ!」
別段、妙子に苛立っていたわけでもない。妙子も妙子で自分の事を考えての発言だったのは分かっている。だが、どうしても自分の事など誰が理解していると言うのだ、と反発心が生まれてくる。
「……うるさいなぁ! お姉ちゃんには関係ないでしょ!」
「関係ないって……! 大ありよ! あんた、ただでさえぼんやりしてるってのに、勉強一つ真っ当に出来ないで……」
「勉強出来るのがそんなに偉いの? お母さんが客員教授だから? お姉ちゃんが大学生だから? そんな風に上から言って……身勝手に分かった風にならないで!」
思わぬ感情の発露であった。
普段なら妙子の小言も、ましてや母親の職務にも干渉する事などない。お互いの線引きは明瞭だったのに、今だけは踏み入られるのがここまで嫌だなんて。
「な……っ! ちょっと母さん! 有栖がワガママ言って……!」
「ワガママなんて言ってない! 自分の事は自分で決める!」
「偉そうな事を言うんじゃないわよ! あんた、バイトの一つもやっていないクセに……社会に出たらあんたみたいなのなんて使い物にならないわよ!」
「じゃあお姉ちゃんは使い物になるの!」
本来なら言わないでいい余計な言葉だった。だが、妙子の物言いの激しさと、自分の譲れない一線がここで均衡を崩してしまったのだろう。
「……この……ッ!」
張り手が見舞われる。鋭く、反響する音と反比例して鈍く熱く広がる痛み。
恐らく、妙子は自分が泣き出すのだと思ったのだろう。彼女の表情に翳りが見えたが、有栖はその眼差しを真正面から睨み返す。
「……何よ、有栖……」
妙子が後ずさる。有栖は身を翻し、二階の自室へと籠っていた。
すぐさまベッドに飛び込み、枕を抱き締めて仰向けに寝転がる。
『有栖、今のは何だったのですか?』
「……別に。ちょっと喧嘩しただけ」
『あの方は有栖のお姉様でしょう? あんな風に言う事はないのでは?』
「……うるさいなぁ。チェシャーには関係ないよ」
『ですが、あの方も苦しそうでした』
「……そんな事ないよ。お姉ちゃんはいつだって、あたしが嫌なんだから。世の中を知った風になっている未成年なんて、いつだって鬱陶しいんでしょ。その証拠みたいに、お姉ちゃんはファミレスでバイトしてるし。別にバイトなんてしなくたって充分大学には通えるのにさ」
見せつけているつもりなのだろうとさえ思う。思えば妙子とは良好な関係であった覚えがない。どこかでお互いに粗探しをして嫌味を言い合うような、そんな仲だ。
『理解しかねますね。有栖はでは、お姉様が嫌いなのですか?』
「……時々、死んじゃえばいいってくらいには思うよ。ウソついたってしょうがないし」
『ではそれほど憎んでいるとでも?』
「……どうだろ。そんな風にもっと憎めれば……割り切れたのかもね」
どうせ、夕飯で顔を合わせる。その時に少し気まずいだけの、正直に言えばその程度の諍いでしかない。家族なのだから、いつでもニコニコとしてずっとご機嫌取りをすればいいと言われてしまえば、それも違うとは言い切れるのだが。
『有栖。貴女は心の奥底から、望む願いがあるのですか? お姉様を殺してしまいたいだとか、それとも現実世界でもっとうまく立ち回りたいだとか』
「……そんなの願ったってしょうがないし。あたしはどうせ愚図で、そんでもって大した立ち回り方も知らないもん」
もっと愚かならば諦めもついたのかもしれない。あるいはもっと賢しければ、自分の要らぬプライドに拘泥して驕っていたのかもしれない。いずれにせよ、どっちつかずの身を持て余すだけ。どうせ、高校を卒業すれば流れるようにして大学生になる。可もなく不可もない偏差値の大学に入り、適当な四年間を過ごし、その先に待っているのは就活合戦でどれだけ自分のこれまでの経歴に嘘が付けるのかを競っていく。
その先も、そのさらに先も待っている。
それを思うだけで憂鬱な気持ちに胸を押し潰されそうになっていた。
どこまで行っても、どこまで人生経験を積んでも、どうせ行き着くところは平凡だ。そんな自分を変えようとして勉学に励んでも、それは大枠の優秀な歯車に成り下がる適性値を上げているだけ。
「……ねぇ、チェシャー。“ゲーム”の願いって、どこまででもいいの? 例えば……世界から戦争や飢餓や、貧困や格差をなくすだとか……そういう大げさなものとか」
『有栖はそれらをなくしたいのですか?』
自分で列挙しておいて、その薄ら寒さに思わず鼻を鳴らしてしまう。
「……そんなの、無理に決まってるし、あたしはそこまで出来た人間じゃないよ」
『ですが、心の奥底からの願いならば、叶える事は可能です。この世から争いをなくし、格差をなくし、そして悲しみをなくす事は』
アルセウスフォンから浮かび上がったチェシャーが両腕を広げて宣言する。それを有栖は醒めた目線で眺めていた。
「……けれどそんなの、意味なんてないよ。争いがなくなれば違う事で競い合うだろうし、貧富の差がなくなけば別の差が生まれるだけ。……あたしはさ、世界なんて救えないのかもね」
『それは困ります。鏡面界を救えるのは転生者だけなのですから』
有栖は寝返りを打ち、チェシャーへと視線を合わせる。
「……そう言えば何で、幸子まで転生者になれたの? ツバサ姉もそうだけれど」
『申し訳ありませんが転生者同士の情報は……』
「……そうだった。情報交換はチェシャーの口からは言えないんだったっけ。でもさ、幸子もツバサ姉も……これだけ近くに居たのに分かんなかったんだよね。二人とも転生者になって……叶えたい願いがあるのかな……」
『望みは人それぞれです。願いも千差万別』
有栖は鞄からモンスターボールを取り出し、光に透かしてセビエの状態を見る。セビエは横たわってすぅすぅと寝息を立てているようであった。思えば、鏡面界で無茶をさせ過ぎた。このしわ寄せが来る前に回復させなければ、と霧子から受け取った回復の薬を探っている途中で、その手が止まる。
――アルセウスフォンを破壊された霧子は、この世から完全にその証明が消えたかのように掻き消えていった。
あれが転生者の末路だと言うのだろうか。だが霧子から仕掛けたのだ。覚悟がないわけではないだろうが、それでも目を瞑るとあの時の直前、霧子が許しを乞うようにしたのが脳内で明滅する。
「……転生者が許されるなんて……それもどうなんだか」
セビエをボールから出して回復の薬を吹き付けている途中で階下から母親の声が聞こえてくる。
「有栖! あんた、またお姉ちゃんと喧嘩して……! ご飯出来ているわよー!」
「今行く! ……お母さんも、正直うざいよ」
しかし、今の自分はただの女子高生。親の補助がなければ生活など三日も持たずに破綻するだろうし、学校に通えているのも親のお陰だ。こうして反目する事自体、とても愚かしいのかもしれない。
それでも、どこかでこの安穏とした日々がずっと続くかもしれない事に憂鬱な気持ちに陥る。誰かのために生きるでもなく、何かのために生きるでもなく。どうしたって、生きていく事に必要なものと、自分の意思で決定するものとは食い違って。
階下に降りると、既に妙子が告げ口をしていたのか、母親に早速説教を受ける。
「有栖、あんたってば、お姉ちゃんに口答えしたんだって?」
「……口答えなんて言い方したんだ。お姉ちゃんって最低」
「おバカ。あんたが子供過ぎるのよ」
「……そんな話ばっかなら、あたし、ご飯いらない」
「あっ、待ちなさい……! もう! 知らないんだからね!」
母親の制止の声がかかる中で有栖は部屋に閉じこもっていた。どう足掻いたって自分の居場所なんてないのだ。あるとすれば、それは鏡面界で転生者として戦う事だけ。
「……ねぇ、チェシャー。転生者として戦えば、もっと……もっと強くなれれば……何か変わると思う?」
『はっきりとした事は言えませんが、転生者は特別な存在です。他の人間に簡単に務まるような責務ではありません』
「特別な存在……か。じゃあ、あたしは……」
答えは出ないままだった。