学園都市を飛び回り、高層ビルを抜けてから、綺咲は背後から迫り来る敵を関知していた。制服のスカートが風圧に翻り、袖口から伸びたワイヤーを駆使して振り切ろうとしたが、それは全て霧散する。
着地するのと同時に足裏に置いていたモンスターボールのボタンを押し込む。
「……行きなさい、ジャランゴ」
灰色の躯体を震わせ、ジャランゴがその腕を振るう。その特徴的な表皮を軋ませ、高周波を巻き起こしながらジャランゴが音圧だけで追跡する相手を圧倒する。
「……やっぱり。まだ敵わないか」
「……何のつもりなの。高峰さん」
月明かりが差し込み、屋上からこちらを見下ろすのは有栖と行動を共にしているはずの幸子であった。綺咲にしてみれば唐突に狙われるいわれもない。しかし、幸子の側は違ったようで、屋上の鉄柵にもたれかかってこちらを見据える。
「……私、転生者になったの」
「それは分かる。でも私を狙う理由までは分からない」
「分からない? それはウソでしょ。だって、転生者は何人も要らない」
「……赤沢霧子の消滅で学ばなかったの? 下手に仕掛けないほうがいい。私は手加減が出来るほど、器用でもない」
「……だからこそ、全力の勝負を望む。エレズン!」
エレズンと呼ばれた紫色の皮膚をしたポケモンを解き放ち、その矮躯が想定外にすらりと着地した瞬間、放たれたのは毒の「ようかいえき」であった。
「ジャランゴ、音圧だけで弾けるわね?」
ジャランゴは強く鳴き、その身から放つ音響で弾き飛ばしていくが、エレズンと幸子の目的はジャランゴの封殺ではない。
「ようかいえき」が崩したのは足場だ。ポケモンの毒は如何にレベルが低くても現実世界の構造物ならば簡単に溶かしてしまえる。足場の安定性を失ったジャランゴに対し、身の丈の小ささを活かしてエレズンが肉薄する。
素早さは決して速くはないが、それでも一度攻撃姿勢を解かれたジャランゴを振り切り、狙うのは――なるほど、転生者である自分自身か。
それを理解し、綺咲は片腕を掲げて伸長させたワイヤーで上昇する。
「……見たところ、進化前のポケモンならばここまでは来れないでしょう」
「私だってそれくらいは分かってる。私がしたかったのは、転校生。あんたのポケモンがどれだけ強いのか、という試金石。私のエレズンでどれだけ通用するのかを」
幸子と同じ高さのビルまで躍り上がり、綺咲はその眼差しに浮かんだ侮蔑にも似た感情を真正面から見返す。
「……経験値を得るため、か。鏡面界にはそう簡単には行けないけれど、私に仕掛けて他の転生者ならばどうするのかを見るため、ね」
「有栖やツバサ姉とは戦わない。けれど転校生、あんたなら違う。別に居なくなったって……私は心を痛めない」
「転生者としてならば立派な心掛けね。ただ……あなたは私のジャランゴを舐め切っている」
ジャランゴが咆哮し、幸子の感覚を阻害する。「いやなおと」による聴覚の妨害は一時的ではあったが、その一瞬で充分だ。姿勢を立て直すために周囲の瓦礫を吹き飛ばす。
「岩石封じ」
瓦礫がエレズンに降り注ぎ、その動きを完全に封殺する。
「エレズン! 戻って!」
「それは届かせない」
エレズンをボールに戻すための光を遮り、「がんせきふうじ」の岩場を逆立たせる。幸子がハッとした瞬間、勝負は決していた。
「……エレズンを……!」
「これであなたのエレズンを押し潰せば、あなたは転生者としての資格をなくす。けれどそんな結末、望んじゃいないでしょう?」
最早、王手なのは疑いようもない。ジャランゴにわざと岩場を破壊させ、エレズンの首根っこを掴ませる。
「……どういう……つもり。施しなんて受けない!」
「それはもう少しまともな転生者になってから言うものね。今のあなたは正直、ザコよ」
エレズンを投げると幸子は即座にボールに戻して敵意を剥き出しにした表情を向ける。
「……あんたなんか……!」
「私は特段、恨みを買った覚えもないのだけれど。それに、勝ちたいのならもっと能率のいいやり方を覚えなさい。今のエレズンではどんな転生者にも通用しない」
幸子は忌々しげに舌打ちを漏らし、身を翻す。
その背中が完全に離れたのを認識してから、綺咲は背中に声がかかったのを感じ取っていた。
「ねぇ、ヒーメ。何で潰さなかったのぉー?」
「……早谷兎真。あなたには分からない」
いつの間にか歩み寄ってきた兎真が馴れ馴れしく肩に手をやる。鬱陶しいが敵意がないのは伝わるので綺咲は咎める事はない。
「そうかなぁ? でも、転生者なんて減らしたほうがいいって言うのは、あの子と意見が合うかも? 分かってるはずじゃん? そろそろ“シーズン”が切り替わる。その時に得点が足りていなければ、あーし達は流れる。そりゃー、初心者狩りなんて褒められたもんじゃないけれど、ヒメにしてみればわざわざ赤沢霧子みたいな面倒なのを相手にしなくっても、あの子とかやっちゃえばいいじゃん」
「……その点で言えば意見の相違よ。私がどれだけ新人の転生者を始末したって、どうせ増えてしまう。もしかすると、より性質の悪い人間が転生者になるのかもしれない。それなら、ある程度の目の届く範囲に留めておくのは戦術としては間違いではないわ」
「なるほどねー。けれど、あの子、ヤバいよ。鏡面界に嵌まり切ってる。いいの? 篠崎有栖ちゃんに言ってあげないと。手遅れになっちゃうよ?」
綺咲にしてみれば有栖と幸子が鏡面界にのめり込んでいる事も、ましてや転生者として成長しようとしている事もわざわざ抱え込むまでもない。ただ、鏡面界に誘っているのは間違いなく――。
「……チェシャー。何であの二人に言わないの。鏡面界は彼女らが思っているよりも、安全な場所じゃないって」
『わたくしの領分を超えます』
結局のところ、チェシャーに真っ当な善性を期待するだけ無駄なのだ。それに転生者として覚醒したのならば、それらは全て自己責任となる。
「ねぇ、ヒメ。あーしらで同盟結ばない? だってさ、他の転生者もこの街でひしめき合っている中で、あーしとヒメなら無敵だってば!」
兎真の纏わりつくような距離感の詰め方に綺咲は辟易してため息を漏らす。
「……私は慣れ合わない。何度言わせるの」
「何度も言うってばぁー! それに、あーしと組むのは何もデメリットばっかりじゃないと思うなぁ。ヒメにしてみてもやたらと目を付けられるし、露払いにはなるでしょ」
兎真の交渉はある意味ではまともであったが、それもこれも綺咲にしてみれば一つの通過点、一つの意味のある戦いだ。
「……誰かに頼ったっていい事なんて一個もない。私は好きにさせてもらうわ」
「あっそ。……でもまぁ、もしヒメがあーしのコト、必要になったら言ってね? だって、この“シーズン”が始まる前から顔見知りなんて珍しいし。あーしは最終的に勝ち抜くのはヒメだと思うなぁ」
その言葉を潮にして兎真の気配は掻き消えていた。相変わらず神出鬼没を形にしたような少女である。綺咲はビルの路面を蹴り、音もなく宵闇に沈んだ学園都市の一角へと降り立つ。
「……チェシャー。“シーズン”の切り替わりまでの時間は?」
『残り三十二時間以内です』
「……もう二日もない。急がないと、何も出来ないまま終わってしまう。監査部へ。捕獲したダイマックスポケモンに関してのデータを転送して」
『承知しました、こちらとなります』
情報局に現れたサナギラスのデータは細分化され、解析されて姫宮財閥のラボに収容されている。それもこれも、ダイマックスポケモンの頻出と、そして一体でも多くのデータ算出のためであったが、そのリミットも残り二日もない。
アルセウスフォンに送信されたデータによると、サナギラスは現状、体内を循環するダイマックスエネルギーを制御出来ていないらしい。いつ、どのようなきっかけで起爆するか分からない爆弾と同じようなものだ。
「……ポケモンはこの世界に現れ続ける……。私達の思惑なんて超えて。チェシャー。転生者を……篠崎有栖に関してだけれど」
『転生者同士の情報は譲渡出来ません』
「その事は分かってる。分かっているけれど……こんな戦いに巻き込まれなければ、もう少しマシな生活を送れたのにね」
『後悔なさっているのですか?』
「まさか。転生者になると決めたのはあの子だもの」
綺咲は街に飛び交う威勢のいい声や、客引きの爛れた声に埋もれながら、街並みを踏み締めていく。
この学園都市も清廉潔白とは言えない。どこかで制御出来ない闇と、誰にも救えない人間達が居る。自分は正気の沙汰ではないとさえ思う。
姫宮財閥と言う大企業のお膝元なだけで、ここもまた、鏡面界の戦いだけの世界と同じだ。
陰鬱とした気持ちのまま、綺咲は答えのない夜の通りを歩む。
静謐に包まれた街路を抜け、訪れたのは自然エネルギーとの共生を標榜した緑地公園であった。誰も居ない事を確認してからジャランゴを繰り出す。
「お食べ」
ジャランゴへと差し出したのはあんぱんであった。それを手に取り、満足げに頬張る姿を見つつ、綺咲はここから先の戦略を講じる。
「チェシャー。私達を狙わせるように誘導しているんじゃないでしょうね」
『いえ、高峰幸子様の意思です』
「それはそれで問題だけれど。いずれにせよ、私達が争う理由なんてないのにね」
あんぱんを飲み込んだジャランゴの喉を撫でてから、モンスターボールに戻す。
転生者同士の戦いは苛烈となるのは眼に見えている。問題なのは、互いを理解していないのに、こうして攻めてくる蛮勇の相手と戦う事だ。
殺してしまえば、それだけで禍根となる。
綺咲はベンチから立ち上がり、アルセウスフォンに浮かんだチェシャーへと言い放つ。
「……次の遭遇時。高峰幸子へと真実を話す」
その決意にチェシャーは言葉少なである。
『それが、貴女のご決断ならば』
スカートの端を摘み、恭しく頭を垂れるチェシャーに綺咲は心底吐き気を催していた。真実を告げる――その意味を分かっていないはずがないのに。それでも彼女はあくまでも“ゲーム”を円滑に進めるためだけ以外の事にはまるで頓着しない。
「……可能な限り……そうね。篠崎さんにも……伝えないと」
だが、どう伝えればいい?
もし――この真相が彼女らにとって不都合であった場合、自分が攻撃される事になるのは火を見るよりも明らかだ。
『姫宮綺咲様。わたくしはその意見を尊重します』
尊重、そんな安っぽくそして紙屑のような意味のない言葉。そのような言葉を投げられるくらいならば、口汚く罵られたほうがまだマシのような気がした。