「ツバサ姉……居る?」
カワセミ書店に夜遅くに訪れたのは何も伊達や酔狂ではなく、有栖は重い門扉を開けるとカウンターで灯火一つだけ点けて本を読みふけっているツバサを発見する。
「……あれ? 有栖ちゃんだけ?」
「あ、うん……。今日は幸子は来てないの?」
「まだね。……もう時間も遅いってのに、有栖ちゃんは門限はいいの?」
「……門限なんて。もうどうでもいいよ」
あれだけ喧嘩したのだ。今さら門限の一つや二つを破ったところで、どうせ意味なんてない。
「……さては喧嘩したか。まぁ、私も高校時分は親にも反抗したものだしね。思春期って奴」
「……ツバサ姉、言っても三歳違いじゃない。分かった風な事言わないでよ」
「そりゃ、失敬。分かった風にしか成れないのが大人なのよ」
ツバサの手持ちであるシズクモは傍で浮かび上がっており、せんべいをその小さな口で吸収している。水の球である相貌に灯火の明かりがゆらゆらと反射する。
「……ねぇ、ツバサ姉。幸子とさ、鏡面界によく行くようになったの」
「それはいい事なんじゃない? だって、最終目的はトランプ兵団を倒すのが転生者なんでしょ」
「……だけれどさ。ヒスイ地方……本当に誰も居ないの。生息しているポケモンも何て言うのかな……覇気がないって言うか」
「覇気ねぇ……。要は有栖ちゃんは鏡面界の事も、現実世界の事もどっちつかずってわけか」
力なく頷く。どちらかが刺激的な毎日ならばそれでよかった。もちろん、鏡面界に赴けば自ずと昂揚感に駆られる。セビエを操っての戦闘は胸が高鳴るし、その攻撃スタイルも少しは洗練されてきたと思える。だが、それでも何かしら――足りないものを感じるのだ。
ポケモンを扱って鏡面界――言うなれば異世界を救う。大それた、それこそ誇大妄想のような事実だが、有栖にとってはそれが何だか一番遊離している。
自分達がもし、力を合わせて鏡面界を救ったとして、ではその後は?
願いを一個だけ叶えると言うこの転生者のシステム。それそのものが、転生者同士の連携を拒んでいる。赤沢霧子があのスタンスだったのも頷けるのだ。
他の転生者を抹殺し、その上で自分の進めたい方向に進める。何一つ、間違っていない。戦略としては上々であろう。
しかし、有栖の脳裏には綺咲の動向がどうしても掠める。
転校生として有栖のクラスに赴き、これまで何度も助けられてきた。それを転生者同士だからと言って裏切っていいとは思えない。否、そもそも綺咲に自分を助けてきたと言う意識など一ミリもないのかもしれない。だから、こうもすれ違う。こうもお互いの感情が行き違っていく。
「……あたし、綺咲ちゃんの事、何一つ理解してないのかも……」
「有栖ちゃんから話を聞く限りじゃ、その姫宮綺咲って言うのは、かなりのやり手に思えるけれどね。戦いに要らない感傷を持ち込まないって言うか。けれどさ、それって結局強さなのかな?」
ツバサの疑問に有栖は顔を上げる。
「……強さなんじゃないの?」
「私はね。……ああ、これって自分勝手な想像ね? あの子、何だかとてつもない無理をしている気がするのよねぇ。で、どれだけ苦しくっても誰かに打ち明けられない。そんな堂々巡りを繰り返しているんじゃないかな?」
「……綺咲ちゃんが、無理をしている……」
考えた事もなかった。綺咲は常に二手三手先を先回りしており、転生者相手にも慣れたように立ち回っている。そんな綺咲に、どうしても打ち明けられないものがあるなど。だが、まだ十七歳の少女に過ぎないのならば、少しばかりは大人びたツバサから見れば、その面持ちに抱えた闇が垣間見えるのかもしれない。
それはきっと、自分も同じ。
どれだけ母親や姉相手に反抗しようとも、それは結局、大人にしてみれば通過儀礼のようなものに過ぎないのだろう。可愛いものだと思われているのかもしれないし、ある意味ではまたかと落胆されているのかもしれない。
有栖にしてみれば、それは許せない事柄であった。
自分の怒りも、悲しみも、そして傷ついた心も、何もかもを設計されているように対応されるのは、自分と言う人間を見てもらっていない気がしてしまう。
否、そもそも自分を見てくれている人など居るのだろうか。別段、彼氏が欲しいわけでもないし、男子の目線が気になるわけでもないのに、こういう時に人恋しいのは、ある意味ではずるいのかもしれない。
「……ねぇ、ツバサ姉。あたしって、嫌な子なのかな?」
「……何でそう思ったの?」
有栖はツバサに寄り掛かる。ツバサはそっと自分の金髪を撫でてくれていた。この距離感が今はありがたい。
「……あたしね。あたし……嫌な子になりたいのかもしれない。幸子みたいに、みんなの身勝手な見方だとかそういうのを打破して……それで自分ってものを、ちゃんとしたいの。これって……ヘンなのかな」
「……そんな事ない。有栖ちゃんは頑張ってるってば。転生者として、トランプ兵団を倒すために戦うんでしょ? なら、こんなところで弱音吐いてもしょーがないし。ま、私が言える話なのかって言う。ついこの間まで高校生だったくせにね?」
そう言ってウインクしてくれるのが、有栖にしてみれば胸の奥がじんとあったかくなった心地であった。妙子ならば世の中を分かっていない子供の言い分にしか聞こえない言い訳なのだろうが、ツバサはちゃんと受け取ってくれている。
「……うん、それなら――」
『有栖? まだ起きてる?』
不意にアルセウスフォンに着信があったので、有栖は手に取ると、幸子の声が漏れ聞こえてくる。
「……どうしたの? こんな時間に」
『ちょっとさ。……今から鏡面界に行かない? ほら、夜のヒスイ地方って行った事なかったじゃん』
「……だけれど、確かチェシャーは危ないって……」
『何言ってんの! 私達は転生者なんだよ? 選ばれた存在なら、それくらいはやらないと! でないと私達……鏡面界を救えやしないよ?』
有栖はツバサへと判断を乞うように視線を彷徨わせる。ツバサは首を横に振っていた。判断は自分に任せるつもりなのだろう。
「……分かった。カワセミ書店の近くの公園で集合でいい?」
『さっすが有栖! 分かってるじゃん! ……ツバサ姉も呼んだほうがいいのかな?』
ツバサはあくまでも静観を貫くつもりのようであった。恐らく、これも通過儀礼。こうして大人になっていくのだと、ツバサは言いたいのだろう。
「……ううん。今日はあたしと幸子だけで……」
『じゃあ、決まり。行こっか。鏡面界へ』
「……うん。ねぇ、幸子」
『……どったの?』
「……いや、何でもない。あたし達、ずっと……ずっとこのままだよね?」
友情も、紡いだ絆も、重ねた思いも、何もかもを一切合切纏めた問いかけだったが、幸子は何でもないように返す。
『当たり前じゃん。それくらい分かってよね、有栖!』
快活な声を潮にして通話が切られる。有栖はツバサへと問わずにはいられなかった。
「……ツバサ姉も、こうやって大人になっていったの?」
「……どうかな。私もまだ……大人なんて言えない、そんな身分なのかもね」
「でも、二十歳過ぎてるし……」
「年齢の問題じゃないと思う。……って、そんな事言いだしたら私はいつまで経っても、子供と大人の境目に居るのかも、しれないけれど」
書棚の隙間にかけられた姿見に有栖は自身の姿を目にする。
鏡像の己自身――長い金髪に青い瞳。幼さを残した面持ち。いずれ、この姿かたちが大人のものになる事があるのだろうか。まるで想像出来ない中で、有栖はツバサから離れる。
「……あたし、ずっと大人になんて……なりたくないのかも」
「それも有栖ちゃんの決断だよ」
ツバサはやはり分かってくれている。それを噛み締めてから、有栖はカワセミ書店の扉を開けて外に出ていた。
どこか肌を刺す冷たい夜風に巻かれて、幸子との待ち合わせ場所に向かう。やけに綺麗な三日月が宵闇を照らし出す。その月明かりに導かれるようにして、公園で待ちぼうけの幸子へと有栖は声をかけていた。
「早かったじゃん。近くまで来てたの?」
「ううん、別に……」
「まぁ、いいや。チェシャー。イニシャライズを」
『構いませんが、前にもご説明させていただいた通り、夜には凶暴なポケモンだけではなく、トランプ兵団も戦力を固めています。本当に行きますか?』
「くどいってば。行くって決めたら行くんだから」
何だか今の幸子はどこかやけっぱちにも映る。何かあったのだろうか、と声をかけようとして何と言えばいいのか分からなくなってしまう。
幸子の事情に踏み込むだけの勇気が、自分にはない。己への嫌悪感に、足先まで凍て付いてしまいそうだった。
「……どったの? 有栖も行くんでしょう?」
「あ……うん。チェシャー、イニシャライズを」
『警告はしましたよ、お二人とも』
濃霧が包み込み、明滅する赤い流転の光の先を抜け、次の瞬間には鏡面界の草原に出ていた。
チェシャーの言う通り、昼間とは気配が違う。
そこいらかしこでポケモンがひしめき合い、中には明らかに巨大な個体も見受けられる。
「エレズン!」
恐れを宿した自分とは正反対に幸子はエレズンを繰り出し、早速勝負を仕掛けていく。野生ポケモンは恐慌に駆られて逃げるものも居たが、エレズンの「ようかいえき」で動きを制して至近距離で電気の頬袋を擦り合わせてその動きを鈍らせる。
「有栖!」
「あ……セビエ!」
セビエが大地を踏み締め、そのまま跳躍して身体を丸まらせる。「ドラゴンテール」の一撃が食い込み、ポケモンを戦闘不能に追い込んでいく。
「よっし! このまま経験値を荒稼ぎすれば、転校生にも……!」
「……綺咲ちゃんと何かあったの?」
その言葉に幸子の鋭い一瞥が投げられる。何か言ってはならない事を尋ねてしまっただろうか、と逡巡を浮かべる間に唐突に声が響く。
「――あれか。転生者」