世界の均衡が崩れ、ヒスイ地方の静謐を湛えた空が暗雲に蝕まれる。
黒々とした暗夜の中に、まるで悪夢のように浮かび上がったのは赤い燐光を滾らせる脈動であった。
渦巻き、逆巻き、その中に胎動するのは破壊の衝動。
「……また、こうなってしまったようじゃのぅ」
「恐れながら。やはり転生者は危険です。我々に駆逐命令を」
率先して口にした自分に対し、灰色のオーロラの向こうで少女の笑い声が響き渡る。
「可笑しな事を言うのぅ。確か、貴様は……」
「ノックスです。兵団長を今季から努めさせていただいております」
「……そうであったなぁ。うぬのような人間もまだ居ったのか」
「ご命令を! あちら側に行く術も少しずつですが、確立されつつあります。どうか、私めに……!」
「なに、気にするまでもない。これまでも何度もあったであろう。調和が崩れ、あちら側とこちら側の境界が薄れつつある。まこと……面白き世よのぅ。このヒスイの地を平定してからというもの、ここまでの退屈さにはうんざりしておった」
灰色のオーロラのせいで顔は見えない。しかし、明らかにこの状況を――世界の終わりを、嘲るように扱っているのは理解出来た。
「……お取消しください。この世界の……ヒスイの危機なのです」
「……兵団長!」
思わずトランプ兵団の部下達が肩に手を置いて首を横に振る。それを振り払い、ノックスは前に出ていた。
「今、何と言った? 妾の言葉を、取り消せと、そう言ったのか?」
その威圧感だけで、身が押しつぶされかねなかったが、ノックスはあえて前に踏み出る。
「……どうか、お取消しください……。如何にこの地を治めるお方とは言え、過ぎた言葉です……!」
直後、その威圧感を形にしたとしか思えない重圧が両肩に圧し掛かり、ノックスは思わず膝を折る。
否、この少女の前では、ヒスイ地方の民草は頭を垂れるほかない。
「そう言えば、うぬはヒスイ地方から我がトランプ兵団に加わった者であったなぁ。そこまで斯様な地が大事か? 既に……遊戯の盤面でしかない、この場所が」
嘲るような口調でカツン、カツンと歩み寄ってくる。その気配が濃くなるにつれて、ノックスは表情筋一本ですら動かせなくなるのを感じ取る。
脂汗が浮かび、視線ですらも自由ではない。
「……私にとっては……故郷……なのです」
今に血反吐を撒き散らしても可笑しくはない状況下での進言であったが、その首筋に杖の冷たい先端が当てられる。
終わった、と感覚するよりも前にその頬をしなやかな少女の指先がさする。
「……なるほど。妾も学ばねばならぬか。よかろう。兵団長に成り上がっただけはある。現地民にしては肝が据わっておる。その面をよぉ見せぇ。妾の顔を見る事を許可する」
「……いえ……! それは……眼が潰れてしまいます」
ふふっ、と少女の戯れのような声が耳朶に届く。
「今さら何を言っておるのだ。妾に具申してみせた。その胆力を褒めておるのだぞ?」
「め、滅相も……」
灰色のオーロラが解け、その顔が露になる。
黒髪を一つに結い、厳かな白いドレスに身を包んだ、このヒスイ地方を治める王の血脈。それを誇示するかのように、まばゆい緋色の瞳が射竦める。
「どれ、顔を見せてみよ。妾は部下の顔を覚えるのは苦手じゃが、うぬの顔は覚えておこうぞ」
白磁の指がノックスの頬を撫で、それだけで全身が危険信号を発する。場が場ならば失神しても可笑しくはなかった。
だが、ノックスは唇を噛み、必死に意識を保ちながら、ようやく声にする。
「お、お戯れを。我らが盟主――ハートの女王」
ハートの女王はそう呼ばれた途端、唐突に興を削がれたように手を離し、灰色のオーロラの向こうにある玉座へと踵を返す。
「……気概のある人間は嫌いではない。だがそれ以上に。何一つ己の意志など存在する余地などない純然たる兵士こそが、我らトランプ兵団の持つ兵力そのもの。ノックス兵団長、であったか。妾はうぬの事を覚えておこう。ただ……次は無様な野垂れ死にの報告を聞く事になるやも知れぬがな」
ノックスは平伏し続ける。
怖いのではない。ただ、おぞましいのだ。
このヒスイ地方を平定する者の一挙手一投足。そして、それらに誰も意見を挟まない、この醜悪な組織が。
「……つつしんで。ハートの女王の、そのご意志のままに……」
俯いたまま、ノックスは己の中に流れるヒスイ地方生まれの血を、ただただ呪うのみであった。