目を覚ますのが随分と遅れたのはいつもと同じ目覚まし時計が鳴らなかったせいだ、と有栖はまどろみから引き上げられる感覚を味わう。身を起こすと普段の自分の部屋ではない。
「……そっか、あたし……」
「気ぃついた?」
洗面所からこちらを覗き込んでくるのは兎真であった。ラフな格好でちょうど今しがた起きたばかりらしい。ベッドの下には寝間着がそこらかしこに脱ぎ捨てられている。
昨夜遅くの事であったので、有栖は兎真の部屋に泊まる事になったのだがそこから先をほとんど覚えていない。
妙子と幸子が二人とも敵になった衝撃で、何一つ頭に入っていなかった。
「……あたし……?」
「朝ごはんはパン派? ごはん派?」
洗顔を終えた兎真がごそごそとキッチンを探りながら問いかける。
「……あっ、一応はパン……です」
「そっ。あーしもだわ。ごはんって言われたらコンビニ飯しかなかったところだったし助かる」
にんまりと笑う兎真に有栖は毒気を抜かれた気分であった。昨夜はあまりにも大きな事が起き過ぎて麻痺していたが、そもそも兎真の部屋も異質であった。
ゴゥンゴゥンと空調機が忙しなく稼働しており、壁は打ちっぱなしのコンクリートである。部屋の間取りは広めだが、ベッドとテレビ、それに小さなクッションとテーブルがあるだけなので随分と簡素に映る。
何だか悪夢から抜け出し切れていないように感じられて、有栖は顔を拭うとじっとりとした汗と汚れが手にこびりつく。昨日の煤けた顔のまま眠ったのだと実感し、今さらでありながら有栖は謝っていた。
「あの……! すいません。あたし、ベッド借りちゃったみたいで……」
「ああ、いーのいーの。あーしにはこれがあるし」
そう言って兎真が足で蹴ったのは寝袋で、どうしてそんなものがあるのかと問い返したい気持ちに駆られたが有栖は我慢する。
「……その、顔洗っていいですか? 何だか気持ち悪くって……」
「あ、それなら洗面所使いなよ……って言うかウチは洗面所とお風呂場がガッチャンコしてるからねー。お風呂も入りたければ入りなー」
気安いのか、それとも興味がないのか、兎真はキッチンで朝食の準備に入っている。
さすがに湯舟までいただくのは気が引けたので、有栖は軽く身体の汗をシャワーで流し顔も冷水で洗って鏡に映った自分を顧みる。
「……酷い顔」
無理もない。一夜にして全てが覆ったのだ。
自分達以外の転生者の介入に、母親と妙子を攫われた。しかも、まったくダメージを与える事なく敗北したのは苦い記憶として居残っている。
「……あたしが強かったら……お母さんとお姉ちゃんも……」
骨が浮くほどに拳を握り締める。
無力感と怒りに駆られそうになるのを必死に堪えて煤まみれの制服に袖を通そうとして脱衣所に畳まれているジャージを目の当たりにする。
「制服汚れてるんでしょー? さすがにそれで通学したら目立つからジャージ着なー。あーしのサイズが合うかはわからないけれどね」
兎真は優しいのだろうか。
それも分からない。前の“シーズン”では迷いなく幸子を殺したのは明白なのだ。だからこそ、分からなくなる。恨めばいいのか、感謝すればいいのかも。
しかし、ただただ闇雲に誰かを憎んでいたって先には進めない。それに、こんな時でも腹は減るらしくきゅぅと腹の虫が鳴く。
「……情けないな、あたし」
憎む事も、信じる事も出来ないで、どっちつかずの身を持て余すなんて。
インナーに袖を通してからジャージを着込み、ベッド兼リビングルームに向かうとテーブルを挟んで兎真はチャンネルを切り替えていた。
「まーた新都心のニュースだよ。これだって結局のところはヒメのとこのセーフガードが全部情報統制してるんだけれどねー。イニシャライズされたポケモンの被害がほとんど。ヒメはそれを抑止するために、ずーっと夜通し戦ってんの」
「……そう、なんですか……」
「おっ、何とかサイズは通ったけれど……袖がダボダボだぁ。ちょっとおっきかった?」
笑顔を向けてくる兎真の顔を直視出来ず、有栖は曖昧に応じる。
「ですかね……。あたし、ちっちゃいほうだから」
「いいじゃん。萌え袖みたいで。あーしはヒメや有栖に比べれば背も高いし、スタイルもまぁまぁいいほうだからねぇ」
そう言いながらザッピングする兎真はテーブルに置かれた朝食を片手間に頬張る。カリカリに焦がしたパンにイチゴジャムを塗っていた。
こちらの分は少しだけ気を遣ってくれたのか、コーンスープとサラダ、それにパンにはとろとろのチーズが乗せてある。
「……あの……」
「なに? 食べれないのとかあった?」
「いえ、その……本当によくしてもらってばっかりで……何だか悪いって言うか……」
「いーの。あーしがしたいだけだし! それに、ま、朝までこうしてあーしと一緒に居てくれた人なんてヒメ以外に居ないからねぇ」
「……綺咲ちゃんはこの家に?」
「来た事はないよ。ただ、向こうはこの学園都市を牛耳っている姫宮財閥のご令嬢様だろうし、本気出したらここくらいヨユーで特定出来るでしょ。そうしないのは旨味がないってのと……それとまぁ、協定もあるのかなぁ」
頬杖をついて兎真はぼんやりと告げる。そういえば協定に関しては詳しい話を聞いていなかった、とパンを頬張ると予想外に瑞々しい。
チーズも高級品なのか、寝起きの舌と鼻に突き抜けてくるハーモニーだ。
「……おいしい」
「ホント? よかったぁー。いやさ、あーし他人にごちそうとかしたコトなくって。ホント、この見た目で何言ってんだ、って感じだろうけれどねー」
心底安心したとでも言うような兎真の声音に、有栖は不思議な感慨に囚われていた。
兎真は気兼ねなく自分に対して打ち解けてくれているようなのに、自分はここまで複雑な感情を抱いている。恨めばいいのか、許せばいいのか、何もかも分からなくなってくる。
そんな感情がない交ぜになったせいか、頬を伝う熱を止められなかった。
「あ、あれれ? 美味しくなかった? うーん、昨日コンビニで買ったばっかの高級チーズだったんだけれどなー。おっかしいなぁー……」
「……違うんです。その……あたし、嫌な子だなって。だって……ここまでしてもらってるのにあたし……兎真さんの事、嫌いになりたいって思ってるんです。憎めちゃえばどんなに楽だろうって……そんなの……」
涙が止まらない。
どうして、こんな風になってしまったのだろう。自分は努めて平穏に生きていたかっただけなのに、一時のスリルに身を任せて転生者となり、その上で戦う道を選んだはずだ。
だが、揺らいでしまう。
兎真や綺咲も、身勝手に敵なのだと思えればもっと簡単だ。しかし現実問題は違う。ここまで複雑な人間を相手にしているのに、相手が転生者と言うだけで敵対しようとしていたのが我ながら浅ましい。
「……有栖はさ、気にし過ぎだよ。あーし、こういう時に何て言えばいいのかは分かんないけれど、一応は、さ。あーし達は可能な限り、恨みっこなしってだけを言ったけれど、あんなの感情論込みじゃどうしようもないもんねぇ? ……恨んでくれていいよ。あーしのコト。何なら許さなくったっていい」
「でも……けれどぉ……っ」
こうして朝食を用意してもらい、一夜のベッドまで貸してもらった。加えてこの戦いの裏側に潜むチェシャーの思惑まで、自分のような一介の転生者には教えないほうが有利なはずだ。
しかし、兎真は違う。同じ視野で話してくれているのが、何よりも辛い。
それを恨み切れず、許す事も出来ない己の偏狭さも。
「……あーしのコト勘違いする必要性はないよ。酷い人間ってのは事実。有栖の友達を殺す必要性はなかったね。でもさ、あそこまで行くと“カタストロフィ”も迫っていたし、死にかけていたあの子……高峰幸子だっけ? 苦しんで死ぬよりかは、楽にしてあげたかった……ってのもエゴだよねぇ。あーしは誰にも縛られたくないだけなのかもしれないし」
「……誰にも……ですか……?」
「そっ、誰にも。“ゲーム”の運営とやらも、何なら他の世の中の何もかもからも。……って言ったって、こうして朝は起きて、学校に行かなくっちゃいけない。未成年のツライところだよねぇ……」
壁にかけられた優秀な生徒の証である制服からは窺い知れない。それに有栖の眼には兎真は自由気ままに映っていた。
「……兎真さんは、嫌になったりしないんですか……? この日常とか、現実からは……」
「嫌だよ? 嫌だけれどさぁ……ま、知っての通り、あーしの学校ってのはこの学園都市でも特別に優秀な人間の行くトコで……さすがに高校は卒業しないとねー。奨学金を返さないとだし」
「……奨学金……」
「うん。まぁ、有り体に言うと? 親が居ないもんだからさぁ。何かするのにしたってまぁまぁメンドーなわけ。一応は大学までのエスカレーターなもんだけれど、どうしたものかねぇ……勉強するのも大変だけれど、やんないとお金がないもんだからさ」
軽く流されてしまったが、有栖は思わず息を呑んでしまう。親が居ないとはどういう事なのか、それともこれは聞き流したほうがいいのか、と肩を強張らせていると何でもない話題の延長線上のように兎真は語る。
「まぁねぇー……。あ、別にヘンに気を遣う必要ないよ? 昔、親がクビ括っちゃって、それで大変な中で親戚一同たらい回しにされただけだし。そこまで不幸って境遇でも……おや、喋り過ぎたかな?」
自分で言っておいて首を傾げる兎真に有栖は思わず吹き出してしまう。絶対に笑ってはいけない空気であったのに、兎真の纏うなんて事のなさがそうさせたのだろう。不謹慎だと笑いを鎮めようとして、兎真は微笑んでいた。
「……ようやく笑ったじゃん。昨日から、有栖の顔、酷いもんだったよ? この世の終わりに一気に落ちたみたいな。まぁ、それも当然だよね。友達とお姉さん、それにお母さんまで敵の手の中にあるって言うんじゃ」
兎真はジャムの瓶を開ける。半分に切り分けたパンに塗りながら雑談のように語られたので、有栖は困惑し切っていた。
「……その、ごめんなさい……! あたし、人の境遇を笑うなんて……」
「いんや、いいってば。別にそこまで心も狭くないし。それにね、あーしは全然、ここまで悪い人生だとは思ってないんだよねー。そりゃー、親が居たほうがいいのは間違いないんだろうけれど、これはこれで気楽なもんだし。転生者関連のフットワークが軽いのは、ほとんどこの生活のお陰だしねぇ」
有栖はどう返事をしていいのか悩む。兎真自身、恐らくは憐れまれるのが最も嫌なはずだ。だからと言って恵まれている自分の家庭を卑下するのも違うだろう。
『新都心ではこの数日間で数十件近いガス爆発があり、セーフガードの対応の甘さにも言及されています』
「おーっおーっ、ヒメの会社も大変だ。セーフガードって言ったって半分自警団みたいなもんだし、ま、学園都市で頼るなってのも間違いか」
ジャムを塗ったパンに齧りつく兎真に有栖は自ずと話題を変えていた。
「……綺咲ちゃんと、その……長いんですか?」
「長い……って言うとちょっと違うけれど、まぁ一年くらいかな。お互いに転生者ってなって……最初はバチバチだったよ? ヒメも強いし、加えてこの街がほとんどヒメの庭ってもんだからさー。ああ、こりゃー勝つとかそういう目的よりも別の戦略を探そうってなって。それでお互いに不可侵条約って感じになったのかな。ヒメも自分に匹敵する転生者を探していたみたいだし、渡りに船ってね」
意外ではあった。だが、当たり前なのだ。
転生者は行き会えば相手を倒すしかない――最初の一巡目ではそう思うのも必然。しかし、その段階からシステムの穴を突こうとした兎真は単純にしたたかである。
「……綺咲ちゃんはそれで納得を?」
「納得って言うか、利害の一致? ヒメはあーしのコト、ちょっとは信用して欲しいところなんだけれど、未だに有栖の見てないところじゃ、結構丁々発止って言うかさ。スタンスがそもそも違うから意見が合うわけもないんだけれどねー」
コーンスープを飲み、兎真はテレビのチャンネルを変える。ちょうど天気予報がやっていたので、それを観る事に決めたらしい。学園都市を見渡す衛星からの映像を眺めている。
「綺咲ちゃんは、兎真さんの事、恨んだりとか憎んだりはしなかったんですか……?」
「うーん……わっかんないかも。だってヒメってその辺はクールだからさ。本音では邪魔だと思ったりやるコトなすコト恨みつらみはあったのかもねぇ」
「だったら……」
「けれど、あーしはヒメのコトが好きだし。可能な限り、恨まれないように生きていきたいのかなぁ。有栖もそうじゃん」
「……あたしも……?」
「あ、それはちょっと違うか? ……けれど何て言うか、有栖ってヒメに嫌われたくないって本能的に思ってるんだと感じたんだけれど、違う?」
思いも寄らなかった。
綺咲に嫌われたくないと、どこかで考えているなんて。
確かに争いたくはないし、憎みたくもない。しかし、それは転生者ならいずれは仕方ないのではないかと思っていたのだ。
ある意味ではドライな感性が自分の中にはあった。その醒めたような己の胸のうちに、有栖自身が戸惑う。
「……あたしは……どうしたいんだろう」
「それは自分で決めなー。ごっちそうさん。じゃああーしは学校に行くけれど、有栖はどうする?」
「……あ、あの……。あたし、このまま学校に行っても多分、幸子の事を考えちゃうし……」
「じゃあどうする? 上着あるから出たければ出てもいいよん」
壁にかけられたライダースジャケットを指差し、兎真は登校の準備を始める。システマティックなその所作は昨日までの自分と似たようなもので、有栖はもう学校にいけないのだろうか、と胸の前でぎゅっと拳を作る。
不安よりも、勝ったのは後悔だ。
自分が転生者である事を思い出さなければ、と。だが、それもいずれは変わっていただろう。兎真に出会い、綺咲に出会っていればどれだけ遠ざけたところで回って来るのは分かり切っている。それに、自分自身戦う事が嫌なわけではない。
むしろ、戦闘時の昂揚感を望んでいる部分でさえもある。
戦いに、酔っているのだろうか。
「……じゃあそこんトコロに合鍵置いておくから出たければ出てってちゃんと鍵はしてよねー。他の転生者に乗り込まれるなんて面白くも何ともないからさ」
ローファーを履いて支度を整えた兎真に有栖は戸惑いながらジャージの上からライダースジャケットを羽織る。
「……その、途中まで、いいですか?」
迷惑かもしれない、と恐る恐る告げると兎真は何でもないように肩を組んでくる。
「いいよーん♪ ってか、別にあーしの学校に来ればいいのに。匿ってあげるよ?」
「そ、それはさすがに……だって兎真さんの学校、特待生じゃないと……」
「そんなの気にしないのににゃー。ま、いっか。どこまで行くの? 路面電車の定期券持ってる?」
荷物を纏めて有栖は頷く。
「……一応、行き先は決めていまして……」