兎真は殺気に対して横っ飛びするが、その瞬間には水に足を絡め取られていた。不格好に転倒するや否や、今度は口元を覆う水の皮膜に呼吸が出来なくなっていく。
何かが起こっている。だが、自分は攻撃してくる転生者相手に振り返る事さえも出来ない。
兎真は指を鳴らしていた。
それに応じてアップリューが「Gのちから」を行使し、水を払い落すかに思われたが、唇を塞ぐ水は剥がれる様子もない。
「それにしても……もっと早くでもよかったのに。お陰で余計なダメージを受けたよ」
美月が誰かと喋っている。その誰かこそが、今の今まで現れて来なかった五人目の転生者であるのだと兎真は確信していた。しかし、鼻孔と口を塞がれた状態ではどうしようもない。ポケモンへの命令は基本的には音声。この状態で出来る事はたかが知れている。だが、たかが知れているからこそ、慢心があるはずだ。兎真はトントンと地面を指で突く。
するとタルップルが遮るようにして動き、「リンゴさん」を放出する。堰を切ったような強酸性が周囲の遮蔽物を融かしてゆき、兎真は起き上がってタルップルの身体の陰に隠れる。恐らく、攻撃範囲は見えている範疇。それを少しでもずらせば、正確無比な攻撃は不可能なはずだ。
しかし、と兎真は何度も咳き込む。
今の攻撃には無駄がなかった。陸地で溺死するなど、まるで性質の悪い冗談であったが、これはそのような不可能を実現させる。何度も咳き込んだせいで、涙が浮かんでくる。鼻頭が熱くなり、兎真は涙を拭っていた。
今の一瞬、殺せていた――タイミングと察知がレイコンマの世界でも遅れていれば、赤子の手をひねるまでもない実力であっただろう。それを回顧する度、兎真は心拍が早鐘を打つのを感じる。ここで敗北していたよりももっと最悪なのは、何も分からないまま殺されていた事。つまるところ、追い詰められているのは自分のほうなのだ。
「……それにしても、もっと早く援護に来てくれれば、ここまでやられる事など……」
「勘違いしないでよね。私は確実に相手の命を摘める瞬間しか出てこない主義なの。今ならば、あなたが早谷兎真に殺される直前こそが、最も成功率が高かった」
どこかで聞いた覚えのある、女性の声であった。しかし、兎真には思い出せない。思い出せないだけではなく、その言葉に宿った冷徹さに首裏が粟立つ。
この転生者は、相手を殺す最適解しか、考えていない――それはまさしく恐怖だ。
これまで幾度となく転生者とは相対してきたが、ここまでストイックな存在は居なかった。その上、ポケモンの攻撃で殺害するのではなく、溺死と言う名のシンプルな攻撃方法だけで討ち取ろうというのだから脅威判定は最高レベルだ。
「……一つ、聞かせて。五人目の転生者なのだとすれば……何で今の今まで姿を見せなかったのか」
「姿を見せる事そのものにデメリットがあった、それじゃ不満? いずれにしても、君はもうちょっと優位性を保ったまま、一息に殺すべきであった。憐憫なんて要らないのに」
一歩、また一歩と。カツンカツンと冷たい靴音を響かせる五人目の転生者に兎真は心拍を落ち着けようと深呼吸する。溺死を喰らえば今度こそ殺されるだろう。それならば、タルップルに時間稼ぎとしてもらうかと考えたが、タルップルもアップリューも体力はレッドゾーン。この状態でほぼ無傷の相手とやり合うのは得策ではない。
「……もう一つ。君、もうちょっとさ、立ち回りが下手とも言えるかもね。緩衝材の役割を買って出ている割には、肩入れし過ぎ。チームロワイヤルなんだから、最悪の条件でも相手よりも多く殺せば勝ちなんだから。何だってそんな面倒な事をするの?」
「……何だって……って」
すぐに言葉が出ない。そこには有栖や綺咲を裏切れないという建前もあったが、兎真にしてみればそれは少しだけ違う。戦い続ける意義、戦いの末を描こうとする意味。
願いを叶えるため――そんな手垢のついた言葉で切り返せるとは思えなかった。自分の最奥にある、本物の衝動をここで晒さなければ、たとえ戦いに勝ったとしても勝負に負ける。ならば、正真正銘、己の欲望を発露すべきだ。
「……あーしは、心の奥底から……それこそヒメや有栖をほっぽってでも、叶えたい願いがある。それを誰にも邪魔はさせない」
「そんな理由で特別になれたつもり? 平凡だよ」
「……かもね。けれどあーしはさ……平凡でも、自分にしか出来ない願いのために――カッコよく死にたい……ッ!」
タルップルから駆け出し、アップリューに掴まって飛翔するもその空域を一瞬にして水の壁が阻む。それだけの微細でなおかつ繊細な技の行使を可能にするのは相当な転生者としての技量持ちであろう。ならば、と兎真はすぐさま命じる。
「Gの力!」
「それは通用しない」
水が一斉に落下するかに思われたが、どうやら相手の操作する水の塊は自由自在に伸縮し、重力磁場をすり抜けていく。
「……そう。だとしても……!」
兎真は落下の途上でカミッチュに水を噛み付かせる。その瞬間、齧りつくのと同時にその肉体から生み出されたのは「かふんだんご」であった。
「……一度に二回の攻撃を可能にする……」
「ダブルアタック!」
水は既に噛みついており、その牙の接触点から相手の動きを制している。その上で「かふんだんご」を射出する事で兎真は相手の無効化を図ろうとしていた。その途上で水の壁によって屈折させられた転生者の姿が「かふんだんご」によって濁り、その全貌を晒す。
「……まさか、ここで正体を晒す事になるとはね」
「……もしかして……でも、だってそれは……」
「簡単な話。私は誰も信じていなかった。けれど、ここまでやった事は褒めてあげる。どういう死に方がしたい?」
兎真はすかさずタルップルの放出する「リンゴさん」で相手の転生者の出鼻を挫こうとしたが、その前に澄み渡った水の壁が屹立する。瞬時に洗い流され、水が円弧の軌道を描いてタルップルのその横腹に直撃する。
タルップルが苦悶の声を上げたところで、相手の転生者は水を纏わせた節足昆虫を思わせる素早さと沈めた躯体からの一撃をタルップルの真正面から放つ。
「這いよる一撃」
頭部に水泡を固めさせ、タルップルの重厚な肉体を跳ね返す。まさか兎真もタルップルほどの重量級を覆すとは思いも寄らない。
「アップリュー!」
瞬間的にアップリューに命じようとして、水の砲弾がアップリューの肉体を嬲る。すぐに攻撃に移れないと踏んでいたのはとんだ見当違いだったわけだ。
「私はポケモンの技までのラグと、それらの固有の弱点はバカほど見てきた。アップリューも、タルップルも、カミッチュも同じ。今の状態からじゃ、私には勝てない」
「ボクがやろう……! 思い知らせてくれる……早谷兎真ァ……ッ! これだけコケにされて、黙っていられるわけが……!」
美月は再び戦意を取り戻したようであったが、転生者の女性は長い黒髪をなびかせて頭を振る。
「やめておきなさい。君じゃ勝てないわ」
「出来るさ……! ブリジュラス……!」
ブリジュラスが吼え立て、こちらを狙い澄ます。ダメージは深刻な様子であったが転生者である美月の期待に応えようとするいじらしさはあった。
「言っておくけれど、もうブリジュラスの攻略は見えた。どんな事をしてもあーしには勝てないよ」
「果たしてそうかな……! こうして水のフィールドが生み出されたという事は、電気タイプが優位となるという事! 喰らわせてやれ……エレクトロビーム!」
ブリジュラスの装甲が電磁を纏って輝き、電光の放射が全方位へと放たれる。兎真はタルップルの肉体に隠れて機を待つが、美月にそれほどの余裕はないのだろう。
「エレクトロビーム……連射……!」
何度も何度も。ポケモンの耐久力やエネルギーを無視した「エレクトロビーム」が発射される。兎真は美月のやけっぱちな戦法そのものよりも、これを利用しての転生者の攻撃を警戒していた。手鏡を使ってそちらを観察するが、美月に手を貸すつもりも、ましてや奇襲をかけようとする様子もない。
それどころか、その眼差しは醒め切っている。仲間である美月への同情も、ましてや期待もない。心底、どうでもいいとでも思っているかのような絶対零度の視線に震えたのは兎真のほうであった。
「ほらほらァ! これでどう! 出てくる事も出来ないまま……死んで行けェッ!」
ハイになっているのはこの局面では美月だけだ。しかし、兎真は転生者の動きを仔細に観察する。何かの拍子に美月のあてずっぽうな攻撃でさえも致命的になる可能性はある。
「……けれど、やるっきゃないか……」
深呼吸して兎真はタルップルの肉体から飛び出す。アップリューに掴まって飛翔し、即座に「Gのちから」で押し潰さんとするがブリジュラスの重厚な装甲は健在――重力磁場を振り払い、ブリジュラスの全身が発光する。
「来たな……! ラスターカノン……!」
しかし、兎真にとってはそれこそが読み通りであった。光を凝縮させ、一点かあるいは拡散させて放つ「ラスターカノン」ならば、それらは着弾の瞬間に反射する。それは時に鏡面であったり、あるいは単純にコントロール出来ない資材であったりするだろう。
その結実する先にあったのが一点集中の光条であった時点で――読みは勝った。
「その動き、それに戦闘の熟練度。……どれを取っても、確かに。ヒメや有栖なら勝てていたかもね。けれど、あーしが相手だったのが運のツキ!」
「強がりをぉ……!」
今に収斂した鋼の光芒が兎真を撃ち抜くかに思われたが、それは完遂されない。揺らいだのは降りしきる水のフィールドであった。光を乱反射させ、「ラスターカノン」は直進しない。それこそが兎真の勝因であり、針の穴ほどの勝率であった。
「ラスターカノンじゃなくエレクトロビームを使っていたのなら、まだそっちに分があったのかもね。けれど水を伝導するエレクトロビームを使えば思わぬ感電の可能性だってあったから、そっちはラスターカノンの安全牌を振った。けれどそれこそが……あーしにとっては優位に働く」
「こけおどしぃ……!」
今に光芒が突き抜ける直前で、兎真の姿が掻き消える。美月は見失ったその像を探り当てようとして周囲に首を巡らせていた。
「ど、どこへ……!」
「水のフィールド……これは多分、雨乞いかな? それは電気タイプにとって優位に働くけれど、同時に光を収束させる鋼タイプにとっては上手く軌道を描けない場合がある……釈迦に説法かもだけれど、ブリジュラスは明らかに機動力を捨てた固定砲台だから、砲撃系の技を使わざるを得ない。相手がどんな手を打っていたとしても、それでも貫くべく、ね」
「どこへ行ったァ! 早谷兎真ァ!」
「もう駄目だよ。あーしの姿を追えないのはブリジュラスじゃない。転生者である綾坂美月、あんた本人」
「ボク本人……?」
美月も自覚していないのだろう。それも致し方ないか。
「アップリューで重力磁場を用い、ブリジュラスの動きを制した。タルップルのリンゴ酸でその装甲を融かそうともした。けれど、これが本懐じゃない。タルップルの体液には特殊な溶剤が含まれていて……これが気化するとどうなると思う? 元々、密度の高く揮発性の高いこの粘液は、知らず知らずのうちに転生者本人へと及ぶ。この蜜を直接受ければ、人間ならば窒息死。それほどの粘性を持つこれが、気化すれば? 一番に影響を受けるのは粘膜だ。目視は自ずと当てにならなくなる」
美月が側頭部を押さえてよろめく。どうやらそろそろ効いてきたらしい。
「な、何を……!」
「雨のフィールドでよかった。上手くタルップルの蜜を紛らせるコトが出来たし、それにそっちはこの状況のマズさを理解する前に、もうあーしの手中にある」
美月が次に膝を折る。何が起こっているのかと目を戦慄かせているが、その視力はほとんど失われているはずだ。
「だ、が……どうして転生者である君は……無事で……?」
「自分が扱うポケモンの特性は理解しているつもり。だから、これ」
瞳を指差す。特製の色付きコンタクトレンズはタルップルの放つ蜜を弾くくらいはわけない。
「……まさか……! この局面になる事を予期していた……? これほどまでの戦いを……!」
「あまり、侮らないでよね。あーしだって歴戦の転生者。さて、一つ質問。ここでリタイアだとして、そっちのチームでは困ったコトになるんじゃない?」
アップリューの爪が美月の手から滑り落ちたアルセウスフォンにかかる。しかし、相手の切り札である転生者はせせら笑う。
「……それは本人の実力不足。私は干渉しないし、それをする義理もない」
「ねぇ……待って! 待ってくれ! 助けてくれよ……! まだ……死にたくないぃ……!」
「……とのコトだけれど? 見過ごす? あるいは見殺す?」
「そうね。じゃあどっちも寝覚めが悪いから、こうしましょう」
パチンと指を鳴らすと同時に雨が質量を伴わせて美月のアルセウスフォンを射抜く。その行動には兎真も後ずさっていた。ただ一人、美月だけが現実認識が追いついていないのかアルセウスフォンを握って叫ぶ。
「何でぇ……! 嫌だ! いやだいやだいやだぁ……! 死にたくない! 消えたくないぃ……!」
「潔いほうがいいわよ? それに、まぁ君達は結局のところ、この大いなる“ゲーム”の中において駒以下でしかなかったわけだし」
「いやぁ……。お願い、たすけてぇ……」
「もうアルセウスフォンは壊れちゃったじゃない。今さらどうやって助けろって?」
余裕しゃくしゃくの転生者に美月は最後の最後、牙を突き立てようとしたのだろう。ブリジュラスへと意識を飛ばし、その攻撃の矛先を定める。
「ブリジュラス! 破壊光線……!」
ブリジュラスが全霊を込め、全てのエネルギーを収束させて転生者に向けて「はかいこうせん」を放とうとする。その光軸はこれまでの攻撃の比ではない。まさしく存在証明を懸けた一撃が完遂されようとして、兎真はアップリューに掴まって飛び退る。
「……厄介なコトになったわねぇ……!」
ブリジュラスの最後の攻撃の光芒が転生者を襲うが、それに対して特別な措置をしたわけでもない。パチン、と指が鳴らされる。
「攻撃の方向性を変える。水泡で四肢を捻じ曲げ、ブリジュラスの姿勢を崩す」
その言葉通り、構築された水の塊がブリジュラスの四肢を縛り付け、その体重を移動させる。だが、兎真は呆気に取られていた。追い込まれているとは言え、ブリジュラスの全霊に等しい「はかいこうせん」を反射するでも、ましてや逸らすでもなくポケモンの体重移動や肉体動作、それに裏打ちされた戦術で無効化するなど思いも寄らなかったからだ。
実際、ブリジュラスの鋼鉄の肉体がまさか水でバランスを欠くなど美月自身、何も理解していなかったのだろう。渾身の「はかいこうせん」の光軸は、学園都市の宵闇の空へと吸い込まれていく。
「……あり得ない……。破壊光線を……無効化した……?」
「そんな風にマヌケ面で呆気に取られるのが、お似合いの末路ね」
アルセウスフォンを基点として美月の肉体が渦巻いていく。失格の時だ。美月は必死に手を伸ばす。
「い、いやだ……! 何でこんな……こんなのってないはず……!」
「こんなのってない? それはこれまで殺してきた転生者の子達に言えるのかしらね。いずれにせよ、ここで失格……いいえ、アーキタイプを持たないのなら、永劫に魂の安息は訪れる事はない。何もない“無”だけがその帰結よ」
美月は最早、戦意もましてや恥や外聞もないのか、兎真へと手を伸ばす。
「たすけぇ……。こんなの……こんなの、あんまりなのにぃ……」
兎真は思わず後ずさっていた。消え入る寸前の、人間の醜さ、そしてこれまでのように超然とした振る舞いからはかけ離れた、ただ生き残りたいためだけの命乞い。どれもこれも、人間の汚点を見せられているようで。
「たすけて……! たすけて、たすけて……たすけてよぉっ! こんなに……ボクの終わりに相応しいわけない……! 死んでいくのなら、せめて……何か……何か成し遂げないと……!」
しかしブリジュラスにはもう、その攻撃を振るう気力すら残っていない。全ての手は出し尽くした。転生者である美月にはそれが雄弁に理解出来ているはずだ。
「……何だか生き意地汚いわねぇ」
そう呟くと同時に美月の顔面を覆ったのは水泡であった。声を上げる事も出来ず、美月が喉元を押さえる。それはほんの三秒ほどであった。
溺死した美月が倒れ伏すのと、その存在の証明が掻き消されたのは。
「……弱い転生者の最期なんて、見ていても面白くはないわね」
兎真は眼前の転生者相手に、今の状況では勝率が低いと判断する。そもそも、これほどまでの熟練者と真正面から戦うのは下策だ。
「……アップリュー」
アップリューの鉤爪に掴まり、この場から立ち去ろうとする。不思議と相手が追撃はしてこなかった。それもある意味では当然で、明らかに相手の思惑は自分の討伐ではない。
間違いなく言えるのは、一個だけ。
「――有栖。早くこれを伝えないと……でないと、取り返しのつかない事になる……! 知らない事が罪というのなら、この罪過は……!」