「アタシにしてみれば、チェシャー。あんたの思惑を止めたいのが全部。だから、ここで全力で止めさせてもらうわよ。マオフェンは死んじゃったし、美月もそう。だけれど、だからこそ意義がある。最強の転生者……それが今、篠崎有栖と篠崎妙子の下に向かっているからね。それを阻止させるわけにはいかない」
「……いいの? 私達にそれを教えるという事は、ここで殺されても文句は言えない」
綺咲がボールに手をかけると、シュレディンガーは高笑いを上げる。
「バカ言わないで。貴女達なんて、敵対するレベルですらない。行きなさい、ベベノム」
シュレディンガーの繰り出したのは小型のポケモンでありながら、真っ白な躯体を揺らめかせる特殊な個体であった。蜂の毒針を想起させる頭部に、その全容が知れない姿かたち――今戦っている場合ではない、と綺咲は判断しながらも纏っている正体不明の闘争本能を前にボールの中のジャランゴが震えているのが伝わる。
「……ベベノム……! チェシャーのポケモンと同じ……!」
幸子の震撼したような声音にシュレディンガーは満足げに口角を吊り上げる。
「このポケモンが特別だって言うのは見れば分かるわよね? さぁ、あんた達は勝てない勝負に、せいぜい時間を掛けさせてもらうわよ。どうせ今から頑張ったって、篠崎有栖を救う事なんて出来ないんだからね!」
シュレディンガーの哄笑が異空間の高い天井に残響する。綺咲はベベノム相手に、ジャランゴならばどれほどの時間を掛ければ勝利出来るかの前提条件を浮かべていた。
これまでに見た事のない、不明なるポケモン。しかも、ジャランゴが宿しているのは怯え。少しでもうろたえてしまえば、遠大に時間を浪費してしまうだろう。今は、一刻も早く有栖の下に向かわなければいけないのに、最悪の相性だ。
「さぁ、誰が来るの? 誰が来たって、アタシ相手に速攻を掛けられる奴なんて、居るわけ――」
『残念ながら。ここに一人だけ』
シュレディンガーの声が遮られ、アルセウスフォン上のチェシャーがその面を上げる。
「……チェシャー……?」
『高峰幸子様、姫宮綺咲様、それにカイ様も。有栖の下へと急行してください。異空間を繋ぐショートカットを用います』
「……それって許されないわよねぇ? あんた、だって運営側の受付嬢でしょう? 転生者への過度な干渉はペナルティを受ける可能性があるって……」
『理解していないはずがないでしょう。シュレディンガー。その論法で行くのならば、転生者をここで足止めする貴女のやり方こそが、姑息な真似にしか映りませんね』
チェシャーが挑発すると、シュレディンガーははんと鼻を鳴らす。
「どんだけ言ったって、あんたは所詮、傍観者! 何一つ出来やしない!」
『……その通り。わたくしはここまで、傍観者を気取っておりました。しかし、このチームロワイヤルは通常の“ゲーム”より逸脱している。ゆえに、補正するためにわたくしも身銭を切りましょう。姫宮綺咲様、有栖をお願いします』
「……チェシャー……あなた……」
「そんな事をさせると思っているの! ベベノム、ベノムショック!」
ベベノムの放つ毒の包囲網が綺咲達を一瞬にして囲もうとする。明らかに時間稼ぎの技が実行されたかに思われた瞬間、全てが断ち切られる。
「――ベベノム、ダストシュート」
その声が紡がれると同時に「ベノムショック」の包囲陣が一瞬にして収縮し、直後には掌大の球体になって押し潰される。
綺咲は息を呑んでいた。
今しがたまでアルセウスフォン上で話していたチェシャーが、目の前に顕現していたからだけではない。シュレディンガーと同個体の、毒々しい紫色のベベノムを繰り出し、その策を封殺したからである。
「……何のつもり? って言うかあんた……現世にイニシャライズするなんて……分かっているの? アタシ達はアーキタイプを……」
「承知の上です。姫宮綺咲様、有栖への直通ルートを異空間で繋ぎました。そちらの道筋を使って、有栖の援護を」
「させるわけ……ないでしょうが!」
ベベノムが放ったのは音響攻撃であった。「りんしょう」の異常音階を前に頭痛を覚えたが、チェシャーは落ち着き払って手を払う。
「ベベノム、竜の波導」
ベベノムの肉体が青く発光し、その内部骨格に刻まれた紋様より青白い炎が幾何学の軌道を描いて直進する。
シュレディンガーは舌打ちして毒の糸を張り巡らせ、それらを打ち消していくがチェシャーは矢継ぎ早に放つ。
「ベベノム、そのまま輪唱」
「輪唱!」
音響攻撃が互いに相乗し、異空間を揺るがす。その背中を綺咲は眺めながら、この戦いにおける勝利者の事を考えていた。
チェシャーが味方になってくれる事など基本的にはなかったはずだ。彼女は中立である。だと言うのに、今は自分達を有栖へと繋げようとしてくれている。
「……チェシャー。あなたは……」
「行ってください。わたくしの気が変わらぬうちに。それに、この戦いを超えた先にこそ、貴女方の選択肢はあるのです。分かっているのでしょう? “ゲーム”の先に待つものを。貴女の宿命を清算するために。有栖の持つ、残酷な因果をそそがなければ」
チェシャーは全て分かっている。分かっていて、この選択をしてくれた。
「……ありがとう」
「礼には及びません」
綺咲は異空間のワームホールに飛び込もうとして、ベベノムの妨害が走る。
「逃がすわけないでしょうに! ベベノム!」
「させません。ダストシュート」
シュレディンガーのベベノムの放った「りゅうのはどう」をチェシャーのベベノムが全て吸収し、固めて無効化しようとするが波導攻撃は拡散する。それを狙っていたかのようにシュレディンガーの追撃が迫る。
今に、ベベノムの一撃が突き刺さるかに思われたが、それを止めたのは幸子のストリンダーであった。
「……高峰さん……」
「転校生……! あんたの事は相変わらず気に食わないけれど……有栖の事になるのなら、話は別。共闘しましょう。何よりも……私はあんた達に言わないといけない事がある。マオフェンの企み……何で有栖と、お姉さんを集中的に狙ったのか。……こんな事を言ったって信じてもらえないのかもしれないけれどね。元々、最初にあんたを狙おうとしたのは私だし」
ストリンダーが吼え立て、電気のギターを薙ぎ払ってベベノムの一撃を弾き返す。
「……転生者風情が邪魔立てを……!」
「ベベノム、輪唱」
チェシャーのベベノムの異常音階がシュレディンガーの動きを一瞬だけ制する。その好機を使ってワームホールに飛び込む瞬間、綺咲はチェシャーへと声を掛けていた。
「……死なないでよね。いくら中立の受付嬢でも……死なれるのは寝覚めが悪いわ」
「ご心配なく。皆様方をサポートするのが、受付嬢の務めです」
平時の淡白な言葉遣いと何ら変わらないように思われたが、綺咲にはチェシャーにも少しばかりは心があるのではないかと思えていた。
「……行くわよ。高峰さん、カイ」
緑色の色調が渦巻くワームホールへと踏み出す際、綺咲はそう言えば、チェシャーの最終目的を聞いていなかった事を思い返す。自分達を転生者にして、その先で彼女は何を得ようというのだろうか。あるいは何も得られないのかもしれない。それでも、ここで時間稼ぎを務めてくれているのならば、チェシャーは中立地帯を踏み越えた――その報いを受けるのかもしれない。
「……ねぇ、転校生。それに転生者も。移動中に情報交換はしたい。だから、私の言う事は……信じられないかもしれないけれど」
口火を切った幸子に綺咲は眉を跳ねさせる。
「信じられない? ……もうここまで来ているのよ。今さら信じる信じないなんて……」
「違ってさ。……“ゲーム”そのものの事じゃなくって、有栖の事。私、聞いたんだ。マオフェンが何で有栖をつけ狙って……そしてお姉さんと敵対させたのかを。けれど……にわかには信じられないって言うか……」
後頭部を掻く幸子もここで切り出すかを悩んでいるらしい。しかし、有栖の下へと急行するのならば、ここで情報交換しなければ損だろう。
「……聞かせてちょうだい。篠崎さんは……何か秘密でも握っているの?」
「……そもそも、なんだけれど。……私は有栖の親友で幼馴染……の、はずなんだよね……?」
「ちょっと待って。何でそこで疑問形? あなたはアリスさんと親しいはずでしょう?」
割って入ったカイに幸子は視線を逸らす。まるでその事実そのものが、捻じ曲げられた代物であるかのように。
「……私は有栖の親友のはずだった……。けれど、マオフェンやシュレディンガーの言っていた事が、同時に間違いじゃなかったのは私もお姉さんも同時に実感していた。……ハッキリ言うよ。有栖は……違うんだって」
渦巻く異空間の通路の中で、幸子は直接の表現を避けているようであった。しかし、綺咲は追及する。
「……それは可笑しいんじゃないの? だって、篠崎さんはこれまでも……」
はたと、そこで思考が止まる。
これまでの“ゲーム”、そして、これから先の“ゲーム”においての「篠崎有栖」の存在。疑うはずのない事実であったはずなのに――妙な違和感が付き纏うのは何だ?
「……これまで、“コール”や“レイズ”が断続的に行われてきたのならば、有栖の存在はどこかでニアミスしていても可笑しくはない。けれど……だけれども、マオフェンはこう言った。“それはあり得ない”と」
これまでの“ゲーム”の戦歴を巻き戻す“コール”、その先に進み“ゲーム”を推し進める“レイズ”――いずれも基本のルールだ。だから、どこかの時空かどこかのタイミングで有栖には出会っているはずであった。だが、それがどうして――「断言出来ないのか」。
「……どういう事なの? 篠崎さんは、じゃあ元々……転生者じゃなかった……?」
「ううん。有栖は転生者、それは間違いない。問題なのは、これまでの“ゲーム”参加者の証言。リー・マオフェンも綾坂美月も、結構な手練れだった。もちろん、何度も“シーズン”を重ねているんだと思う。けれど、どうしても、何があっても――有栖の存在を、確定する術がないと、そう言っていた。それは……有栖の肉親である、お姉さんもそうだった、と」
その言葉の信ぴょう性を再認識する前に、はたと思考を止める。まさか――自分以外にこの“ゲーム”を客観視している存在が居るとでも言うのか。
「……篠崎さんのお姉さんは……それを?」
こくり、と無言で幸子が首肯する。何よりも雄弁な残酷なる運命。しかし、綺咲には予感があった。果たして――有栖はそれに気づいているのか。気づいていたとしても、きっと彼女は戦い続ける。だってそれは、綺咲がかつて目の当たりにした、まばゆいばかりの輝きそのものだからだ。
「……真偽不明とは言え、今の篠崎さんを揺さぶるのには充分だわ。急ぎましょう」
幸子とカイは視線を交わして頷き、三人は異空間の通路を辿っていく。たとえ、どれほどに凄惨な未来が待っていようとも。それでも戦うのが、転生者なのだと信じて。