「本当に参ったわよ。チェシャーにはね。私だって、そもそも“ゲーム”から降りるなんて不都合でしかないし、そんな理由なんてなかった。私はこの人殺しと欺き合いの“ゲーム”が大好きだったから。……けれど、それには不都合があったのね。チェシャーはある日、私の前に現れてこう言ったわ。“おめでとうございます、翡翠ツバサ様。貴女は現時点で最高得点を所持していますので、第三の選択肢に特別特典が付与されました”ってね。あの時のチェシャーの澄ました顔は……記憶が戻ってからは一度だって忘れちゃいない……!」
「……チェシャーが……ウソをついたって言うの……?」
「本当、信じられないわよね。アタシもそう。それを知ったのは、ツバサがもう転生者じゃなくなってからだった。基本的に、第三の選択肢である“ゲームから降りる”を選択した時点で、アタシには成す術がない。だって、それは転生者にとって最も不利益であるのと同時に、再接触は禁じられていたもの」
それにしても困ったとでも言うようにシュレディンガーは頬をむくれさせる。チェシャーとは正反対の感情を隠しもしない面持ちでありながら、ほとんどチェシャーと同じ顔なのだから混乱もする。
「……それって……何で……? ヘンじゃない……。だって、受付嬢は……」
「“ゲーム”の窓口。私を落としたがっていた理由はね、あの子がそもそもこの“ゲーム”において、唯一のイレギュラーだったせい」
「……あんたの異常性をチェシャーに、全ての責任を被せるの……」
妙子が必死に抵抗しようとしたのをツバサは振り返って首を傾げる。それだけでオニシズクモの操る水の拘束がきつくなり、妙子がぜいぜいと息を切らす。
「やめて……やめてよぉ……ッ! 何で……! ツバサ姉はそんな事する人じゃないでしょう……?」
「……有栖ちゃんに何が分かる……って、それもそうかぁ。記憶を失った後の私しか知らないんじゃ、幻想も抱くよねぇ。私は元からこんなだよ? こんな風な――人を人とも思わない人でなし。殺しに一切の罪悪感を差し挟まない、そういう存在なの。シュレディンガーはよく知っていてくれたんだけれど……問題なのはチェシャーに先回りされた事が一番……苛立つのよねぇ……ッ! 何だってあんな見え見えのウソに引っ掛かっちゃったんだろう、って!」
オニシズクモの放つ水の糸が有栖の腕に絡みつく。それはツバサの感情を反映したかのように、きつく殺意を伴わせて締め上げていく。
「痛い……ッ! 痛いぃ……っ! ツバサ姉、こんなのやめてよォ……っ!」
「……ああ、そっかぁ。人間ってこれくらいでも音を上げちゃうんだ。いっけないいっけない。反省しないと。加減が難しいのよねぇ、久しぶりなもんだから」
ツバサは有栖を痛めつける事に反省しているのではなく、その手加減が難しい事を反省しているだけだ。その面持ちに、邪悪な笑みを浮かべた口角に、あの優しかったツバサは居ない。ただ人が苦しみ、痛みを訴え、そして死に行く事に何の躊躇もない――怪物がそこに居た。
それはまさに、この世に生まれ出でた事そのものが、万人にとって害となる存在――片翼の蝶。
「いけないわよ、ツバサ。もっとスマートにやらないと。いくら悲鳴が大好きだからって、あまり時間をかけると合流されるわよ。……チェシャーがショートカットを作ったみたいだからね」
「……分かっているわよ、シュレディンガー。君は相変わらず、心配性なんだから」
阿吽の呼吸のツバサとシュレディンガーに、有栖は思わず声を上げていた。こんなものは間違っているとでも言うように。
「ツバサ姉ぇ……ッ! こんなのヘンだよ! 間違ってる! だって、あたしの知ってるツバサ姉は……こんな事をして喜ぶ人じゃな――」
「黙ってよ。ガキが」
遮るように放たれた声と共にツバサが有栖の手を踏みしだく。有栖にとってショックであったのは、手の甲に走った痛みよりも、ツバサにまるで相手にされず、その上踏みつけられている現実であった。
「あぁ……ッ! ああ……っ!」
「有栖ちゃん? 私、別に君の事は格別に嫌いじゃないの。けれど……このまま言う事を聞いてくれないと、妙子さん共々、くびり殺しちゃいそうで……あーあ! 何でこうなっちゃったんだろうなぁ! 私、元々優しいお姉さんなんてガラじゃないんだけれど」
「それは仕方ないわよ、ツバサ。貴女はチェシャーに……騙されていたんだからね」
「チェシャーが……チェシャーがツバサ姉を騙して……それでどうするの……! だって、“ゲーム”の公平な受付嬢だって……!」
「それが間違いなのよねぇ……。シュレディンガーや他の受付嬢はともかく、チェシャーだけは違う」
「チェシャーだけが……?」
疑問を口にすると、シュレディンガーは退屈そうに欠伸をつく。
「もう死んじゃってるかもしれないけれど、チェシャーはね。アタシ達、設計された受付嬢の中で唯一の失敗作。だって、あの子は“感情”があるから」
言われた意味が、有栖には一瞬理解出来なかった。
否、逆の意味ならば少しは飲み込めただろう。チェシャーに感情はない、ならば。しかし、まるで正反対の、感情がある、という言葉に脳内が処理し切れない。
「……ウソ……だって、チェシャーは……」
「あれはね、感情がない風を“装っている”だけ。まぁ、それもそうよね。そうじゃないと受付嬢として、とっくの昔に廃棄処分のはずだったし。アタシみたいに、人間らしい感情をトレースするのが、本物の受付嬢。あの子は色んな意味で不器用なのよ。だから、下手に入れ込んでしまう。ツバサを降ろしたのは、殺されていく転生者に感情移入して、その上でアタシ達の最終目的に異を唱えたから」
「……最終目的……」
「これ以上教える事ないような気もするけれど、まぁ有栖ちゃん、ここで死んじゃうからしょうがないか。チェシャーから聞かされているでしょう? 転生者はトランプ兵団と戦い、ハートの女王を打ち倒してヒスイ地方に平和をもたらす、って」
「……それが何だって言うの……」
「アッハ! 嘘八百もいいところ! ……本当、嘘をつく時にはそれっぽい要素は八割にしてつくものだって言うけれど、ここまで百パーの嘘って言うと、逆に清々しいほどよねぇ!」
高笑いを上げるシュレディンガーに、ツバサはふんと鼻を鳴らす。
「まぁ、それっぽいと言えばそれっぽいわよね。正義の味方みたいな。……有栖ちゃん。この“ゲーム”の最終目的のためには、転生者を増やさないといけない。その上で、トランプ兵団が弊害となる事は、本来はなかった。それが捻じ曲がったのも、私が六年もの間、“ゲーム”から降ろされていたから」
顔を覗き込んでくるツバサの表情に浮かんだのは狂気だ。人殺しと、そして欺き合いの“ゲーム”そのものに陶酔している。これが正しい戦いだとでも言うように、ツバサの物言いは苛烈していく。
「転生者を増やし! そして、現世で殺し合う! これほど面白くってスリリングな“ゲーム”なんて他にないわ! ポケモンを操り、その特異性や力を自らのものとして立ち振る舞う! 誰かを蹴落とし、命を啄み、その矜持の残り一欠片でさえも蹂躙し尽くす!」
「……なんでぇ……っ! 何でそんな事ぉ……っ! ツバサ姉は他人の不幸なんて望む人間じゃなかった! あたしと幸子はそれを知って――!」
顔を蹴り上げられ、有栖の言葉は霧散する。痛みがじんと伝わり、自ずと涙がこぼれ落ちていた。
「……本当、これだから困るのよねぇ。勝手に私を装飾しないでよ。記憶を失っていた時には、確かにそういう人間だったのかもね。けれど、本当の私は違う。殺人に何の疑いも差し挟まない、殺戮機械。……けれど、六年間の静寂は長過ぎた。私にとっての拠り所であった“ゲーム”の記憶は完全に薄れ、もう必要ない領域まで来ていたみたいね。でも、それを思い出させてくれたのは、同時に“ゲーム”の饗宴……有栖ちゃん達が楽しそうに戦っている姿だって言うのは、まさしく皮肉よね」
有栖はツバサの言葉に絶句する。
自分や幸子の軽薄な行いが、蘇らせてはいけない存在を復活させた。ツバサは自分達に関わらなければ、二度と“ゲーム”の事を思い出さなかったのかもしれないのに。
「……あたし達の……せい……?」
「そうよぉ、有栖ちゃん。君達の軽率で、なおかつ軽薄な姿が、私の中で眠っていた本能を呼び起こしたの。そう考えれば……同罪よね? だから、死んでくれる? 償いはしなくっちゃね?」
オニシズクモの水の糸が首筋にかかる。ここでそれを受け入れてしまえば、有栖は楽だっただろう。実際、もういいとまで思っていた。ツバサを戻れない道にまで誘い、そしてこんな風に覚醒させたのは自分のせいでもある。だから、似合いの末路なのだと。そう考えて全身の力を抜こうとした刹那、声が振り絞られる。
「ふっざけ……ッ! ふざけないで! 翡翠ツバサ! あんたはただ……自分を正当化したいだけじゃない……! 有栖のせいだって? 他の要因のせいだって? 笑わせないで! ……あんたのどうしようもない悪性は、あんた自身の功罪でしょうが……!」
「……まだ喋れたんだ? それってさ、私が悪いみたいだけれど?」
妙子へと視線を合わせたツバサの頬に、唾が吐きつけられる。
「……クソッタレだって言ってるのよ、そんなの……! 誰かのせいにして、楽なんでしょう、他人を追い込むのは気分がいいんでしょう……。けれど! けれどそんなんじゃ、一歩も進めない……! 誰よりも……私の妹に……手ぇ出すなァ――ッ!」
「お姉ちゃん……」
まさか妙子が魂の発露をするかのように叫ぶだなんて思いも寄らない。ツバサは頬についた唾を拭ってから、くいっと首をひねる。するとオニシズクモの操る糸がさらに妙子の肉体へと食い込む。
「オニシズクモの操作する水の糸は、簡単に人体なんてバラバラに出来る。それを分かっての発言なのか、それとも今、ちょっとハイになっての失言なのか、聞いてあげる。後者なら、まだ楽に死なせてあげるわ」
妙子の眼差しに揺らぎはない。それどころかより強い意志を宿して、ツバサをキッと睨みつける。
「……あんたがやってきた事なんて、ただの人殺しじゃないの。それをトップランカーだとか、優れていただなんてちゃんちゃらおかしいわ。そんな事を自慢するなんて……相当器量も小さいのね」
オニシズクモの水の糸がさらに食い込み、妙子が呻き声を上げる。ツバサは妙子の顔を覗き込み、その愚かさを矯正するかのように懇々と言い聞かせる。
「君だって同罪じゃない。有栖ちゃんが憎かったんでしょう? 殺してしまったってよかったんでしょう? ギリギリで物分かりのいい人間なんかに戻るんじゃないわよ。そんな半端者であるくらいなら、せめて殺し合いに感情なんて差し挟まなければよかったのにねぇ!」
哄笑を上げるツバサの狂気は本物だ。彼女は一時の過ちなどではなく、この戦いにおいて真のトップになる、その考えがある。最早、止める術などないのだろうか、と有栖が諦観を浮かべかけたその時、妙子は醒めたような物言いで口にする。
「……バッカじゃないの。結局あんた……自己正当化がしたいだけでしょうに。殺し合いに正義もルールも、ましてや大義なんてないわ。あんたはただの殺戮中毒者。それをそれっぽい意見で糊塗しているだけの、ただの小物」
ぴくり、とツバサの眉が跳ねる。これまでほとんど喜悦の感情だけを浮かべてきたツバサがここに来て初めて苛立ちの声を発する。
「……聞き間違いかしら? 私を殺戮中毒者だと、そう言ったように聞こえたけれど」
「間違いなんて一個もないわよ。……あんたはもう、どっかで壊れている。それを……自分が一端なんだって勘違いして……何が一端なものですか! あんたなんて……ただの人でなしじゃないの……!」
ツバサが指をパチンと鳴らす。それだけで肉体に食い込んだ水の糸から血の球が浮かび上がる。全身を拘束された妙子に逃れる術はない。
「やめて……ツバサ姉! やめてよぉ……っ! こんなの……こんなのってないよぉ……っ」
「お姉さんを殺して欲しくなければ、有栖ちゃん。ここで自らリタイアしなさい。君は何だかんだで得点を稼ぎ過ぎている。チームロワイヤルの観点からしてみても、不利なのはこっちのほう。アルセウスフォンを差し出して、それを破壊する。そうすれば、均衡は崩れるわ」
自分がアルセウスフォンを差し出せば妙子は助かるのだろうか。その懸念にツバサは穏やかな面持ちに微笑みを浮かべる。
「心配しないで。私、約束だけは違えた事ないでしょう?」
最早、事ここに至れば抵抗する術もない。有栖はアルセウスフォンを取り出そうとして、一喝される。
「ふざけないで! 有栖……あんたは私に勝ったの! 勝ったのなら……そんな無様な真似をしないで! あんたは……妹として、私に勝って、自らを貫き通した! それは立派な――」
「雑魚が随分とうるさいなぁ」
オニシズクモの水の糸がさらに食い込む。四肢の自由を奪われた妙子の呼吸が乱れている。きっと、意識を保つだけでもやっとなのだろう。それでも瞳から意志の光を消さず、ツバサへと言い放つ。
「……あなたは……! あなたじゃ有栖には勝てっこないわ! だって……だって、有栖は私の……妹……」
「それもどうなんだか。こんな状態なら教えてあげたほうがいいんじゃないの? 有栖ちゃん。妙子さんと、それに幸子ちゃん。お母さんとの記憶はある?」
何を当たり前の事を言っているのだろう。そんなもの、この十七年間、散々溜め込んできた思い出が星の数ほどあるはずだ。
「あ、当たり前……」
しかし、そこではたと思い至る。
記憶の像は、あるはずの思い出は、これまでのワガママや何度も喧嘩をしたはずの仲であるはずの母や妙子、それに幼馴染の幸子との過去は――自分の中に一切なかった。
そんなはずがないと記憶を手繰るが、手繰れば手繰るほど、どれもこれも指の間を滑り落ちていく砂のよう。
必死に思い返そうとする。そうだ、妙子と昔酷い喧嘩をしたはず――しかし、それはまるで最初から固定されていた情報のように、「あった」という事実だけが脳内にセッティングされている。実際には喧嘩の理由も、その後どうなかったのかも思い返せない。
「なん……で……?」
「教えてあげる。有栖ちゃん。君はこの数日間になるまで――この世に存在していなかったのよ」