ALICE   作:オンドゥル大使

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第73話 超克の『乙女』

 

 セグレイブは山脈を想起させるような鋭い背びれを纏い、その黄色い瞳に意志の光を宿す。それは間違いなく、全てを裏切った自分を殺し尽くすという決意の光であった。

 

「……気に入らないわねぇ……有栖ちゃん……ッ!」

 

 オニシズクモが弾けたように駆け出し、水の糸を手繰り寄せて瞬時に有栖の背後へと立ち現れる。今の今までこの足場で戦い抜いてきたのは無駄ではない。こういったイレギュラーに対処するために、既に無数の結界がこの足場には張られている。

 

 当然、有栖は反応出来ないはずであった。それはただただ体躯が大きくなったように映る手持ちポケモンも同義であろう。

 

「死になさい!」

 

 せめて、最後くらいは名誉ある死を与えてやろうとオニシズクモに命令しかけた刹那、であった。

 

 有栖が振り返っている。

 

 どのように洗練された人間であっても、あるいは兵士として的確であろうとも、“人間”である限りは反射速度には限度があるはずだ。だと言うのに、有栖は迷いなくオニシズクモを見据え、そして呆れ返ったかのように指先で爪弾く。

 

「――……その程度?」

 

 ツバサは身に纏ったアルコスの権能を使っていた。使うつもりのなかった権限の一つである、ポケモンの瞬時の呼び戻し――それはアルセウスコスチュームの有する最大規模に近い能力であったのに、傍らに呼び戻したオニシズクモの脚部に纏い付いているものに瞠目する。

 

「……氷の、根……?」

 

 あり得ない、とその可能性を捨て去る前に白色に輝くドレスを纏った有栖は指をパチンと鳴らす。

 

「……瞬間凍結、レベル8」

 

 その言葉を意識の表層で聞き流していたとすれば、確実に獲られていただろう。アルコスの権能の二つ目で予見し、先読みしてオニシズクモに命じる。

 

「足を切り離しなさい! 早く!」

 

 だが、オニシズクモ側の反応が間に合わない。切り離したかに思われた足から生じた凍結の津波がオニシズクモの半身を凍て付かせ、表皮からと水泡からの呼吸を奪う。

 

 一瞬にして氷の大樹に埋め込まれたかのような形だ。

 

 殊に水泡はオニシズクモにとっての生命線――それはポケモンを操る自分にとってもフィードバックとして返ってくる。ツバサは一瞬にして呼吸でさえも満足に出来ない状態に陥れられていた。

 

 凍り付かせられた気管支で喘ぎつつ、意識だけでオニシズクモへと命令権を飛ばす。これもアルコスの権限であったが、それでもギリギリの駆け引きであった。

 

 レイコンマ一秒でも遅れていれば、オニシズクモと同調に近い状態にある自分は、確実に死んでいただろう。水泡を自らの頭部を台座へと叩きつけた事でほんの一瞬だけの活路を見出し、オニシズクモは新たに水泡を構成し直す。

 

 それによってツバサ本人も呼吸を取り戻していた。

 

「……有栖……ちゃぁん……っ!」

 

「残念。死ななかったんだね。最後のつもりで撃ったのに」

 

「……篠崎さん、あなた……姿が……!」

 

 綺咲が目を戦慄かせる。

 

 白光を帯びた有栖の姿はドレスとなって纏い付いている。背中には棘のような意匠を施され、胸元には目が覚めるような真紅の宝石が埋め込まれていた。白を基調としていながら、金色のパーツがそれぞれ身体の各所に散りばめられている。

 

 それは、まさに――自分と同じ、アルセウスコスチュームの真髄であった。

 

「……でも、何で……? 何で君まで……この姿になれるのよ……! シュレディンガー! 一度に二名の願いを叶えるなんて、そんな事……!」

 

「出来るわけないよ……ツバサ! あんなの……“ゲーム”の想定には……ない……」

 

 シュレディンガーのエラーを疑ったが、彼女は茫然と頭を振る。ならばチェシャーかとも思ったが、その当人も有栖の今の状態が手筈通りとは思えない。

 

 ならば、とツバサが思い至ったのは今も輝きを発する一人の少女であった。

 

「……キャロル? 君は……有栖ちゃんにも権能を与えたの……!」

 

「なんのこと。わたしはしらない」

 

「ウソを言うんじゃない! あんたじゃなければ……誰が……――!」

 

「あたしの“意思”だよ、ツバサ姉」

 

 その細い首をへし折りかけたツバサへと、有栖が呼び掛ける。全ての事象を超越したかのような、その立ち振る舞い。そして、自分と同格の力。

 

 最早、疑うまでもない。

 

「……ああ、そう。やっぱり、君達三人は……真っ先に殺しておくべきだったのよねェ……ッ! まさかアーキタイプを有する存在として、覚醒するなんて!」

 

「……アーキタイプ……? チェシャーもそう言っていた……アーキタイプって……一体……」

 

 幸子の問いかけに応じるような余裕はない。今しがたの観測範囲だけでも、今の有栖はこちらを瞬時に殺傷するだけの実力があるはずだからだ。

 

 ならば、最適解を取るまで。

 

「……オニシズクモ。アルコスの第三権能を与える……。潰えさせなさい……!」

 

 オニシズクモの黄色の紋様の部分が赤く染まり、ツバサの思惟はオニシズクモに乗っていた。ポケモンの反応速度、そしてその実力を最大限まで引き出す形態へと。

 

「跳ねろォ……ッ!」

 

 オニシズクモが台座に展開させていた極細の繊維を立体的に駆け抜ける。この水の糸はオニシズクモにしか視認出来ない、即ち、その転生者である自分にしか操れないのと同義。

 

 最早、意識は肉体を離れオニシズクモへと同調を果たしている。それでも肉体を動かしているのは神の権能が働いているからに他ならない。意識は分割され、刷新されて飛び回る。

 

「有栖ちゃん……ッ! どれだけその権能が優れていようが! アルコスの物真似で出来る事なんて限られている……! 形だけ真似たって、何が! 六年もこの姿を追求し続けた、この片翼の蝶には及ぶわけが――!」

 

 駆け抜ける神経。加速する意識の果て。オニシズクモの反応速度がこの場に居る全員を凌駕し、口吻に水の槍を構築して有栖の首筋を狙う。今度は外さない。確実に命を啄んだかに思われたが、有栖は醒め切ったような眼差しでオニシズクモと同調したツバサを捉える。

 

「……反応出来るわけが……!」

 

「氷のつぶて」

 

 短く放たれた命令がオニシズクモの躯体を突き破る。まさか、とツバサは現実の肉体を折り曲げて血反吐を吐く。

 

「……見えているって言うの……? オニシズクモの構築した、戦闘繊維が……!」

 

 あり得ない。否、それよりもあり得ると仮定すれば、この戦場での優位性が全て覆る――。

 

「瞬間凍結、レベル4」

 

 セグレイブが吼え立て全身から凍結を拡大させる。それは的確にこれまでオニシズクモが張っていた戦闘繊維を凍て付かせていた。足場を取り戻そうとして、氷となった繊維に足をかけそびれたオニシズクモの躯体が無様に転げ落ちる。

 

「……ウソ……でしょぉ……? 全部凍らせたって言うの……? この短時間で……?」

 

 いや、それよりもダメージフィードバックがまずい。同調後のダメージと損傷は全て跳ね返ってきている。ツバサは全身を氷の刃で引き裂かれたように裂傷を作って膝を折っていた。

 

 何度も血の塊を吐いて、ツバサは純白の衣装を赤く染めていく。決して穢れないはずの禊の白の衣装は今、赤黒い血でそこいらに汚れをつけていた。

 

「……ツバサ姉。あたし、ツバサ姉を殺したくない。だから、もうやめよう? こんなの……正しくないよ」

 

「正しくない? 正しくないって言ったの……? だとすれば、決裂ねェ……ッ! この神の座に至るまで……どれだけ私が苦汁を舐めたのか……六年前にどれだけ殺してきたのかを分かりもしないで! このガキぃ……ッ!」

 

 唇の端から血を垂れ流しながら、ツバサは吼える。それに呼応したオニシズクモが有栖へと水の衝撃波を放出していた。これもアルコスの権能の一つ――ポケモンの最大出力を瞬時に引き出す――だが、「アクアブレイク」を何倍にも濃縮させたその一撃は有栖に届いたかに思われた瞬間に爆ぜて全て凍らされていく。

 

「……ツバサ姉。アルコスをキャロルに返して。そうすれば、これ以上はやらない」

 

「……全部凍らせた……? 渾身のアクアブレイクよ……? アルコスの権能まで使ったのに……?」

 

「ツバサ姉。もう一度、言うよ。アルコスを返して負けを認めて。それなら、これ以上はやらない」

 

 この世にあまねく全ての邪悪を挫くかのような、慈愛に満ちた声。その意思を禊の白に凝縮させ、白光の乙女として有栖は通達する。

 

 負けを認めろと言うのか。ここまで来て――ここまでやったのを、全て無為にせよとでも言うのか。

 

「……ふっざけないでよ……! あんたに……あんたに私の何が分かるって言うの……! ぬくぬくと温室で育ったクソガキ程度にぃ……ッ! 神の力は……あんたなんかに返さない……ッ! 私の血を触媒にして……オニシズクモ!」

 

 オニシズクモは流れる水流、水分、空気中の微細な水素分子に至るまでをその手中に入れて操る事が出来る――ならばこの時、そのポケモンと完全同調に位置にまで至ったツバサ自身も、それが不可能な事ではない。

 

 ツバサは自身に流れる血をオニシズクモの操る水の材料として用いていた。神の力を帯びた自分の血は、そのままアルコスのブーストを得た状態となる。オニシズクモが全身を白と金色に染め上げ、その躯体を跳ねさせる。今度は予め構築なんて生易しい事はしない。

 

 跳躍と同時に足の裏から水分を生じさせてその刹那に足場を作ったオニシズクモの軌道を誰一人として読めるはずがない。

 

 そのまま、ツバサはオニシズクモを光の速度にまで加速させ、四方八方を駆け巡る。

 

「勝った! どれだけ神の力の猿真似を出来たとして……私ほどの熟練の域に到達出来るはずがない……! 有栖ちゃん、残念だけれどさよならね!」

 

 セグレイブが氷の障壁を生み出すが、今のオニシズクモはそれを凌駕して挙動出来る。即ち、有栖が命令し、セグレイブが動いた時点でもう遅いのだ。

 

 セグレイブの丸太の如き腕に亀裂が走る。

 

 オニシズクモが口吻から水の糸を生じさせ、それを纏わりつかせて引き抜く事で、疑似的な糸鋸のように堅牢な表皮を裂く。

 

 出血が膨れ上がり、有栖が直後に凍り付かせた空間に張り付いていた。

 

「……セグレイブに」

 

「あんたを優先的に殺したっていいのよ! 有栖ちゃぁん……ッ! けれど、どっちを先に仕留めてあげるかなんて言ってあげなァい……ッ! 何も分からないまま……死ねェッ!」

 

 意志と殺意が躍動し、全方位から有栖とセグレイブの動きを俯瞰する。この状態に至れば、最早絶対的な殺戮圏は確約されたも同然。オニシズクモが口吻の矢じりを蓄える。照準し、その切っ先が望むのは有栖の心臓であった。直前まで水の糸鋸でセグレイブを間断なく攻撃する事で、有栖自身守りに入るはず――そう認識しての確殺。逃れる術などない。

 

 オニシズクモが最後の躍動に移る。とは言っても、有栖にはそれが最後の動きを確立させるべき溜めには映らないはずだ。今のオニシズクモの軌道、速度、速力、その瞬発性、どれを取っても最高レベル。光の速度の戸口にまで立ったツバサとオニシズクモの思惟が加速し、有栖の心臓へと迷いのない一撃が今、下されていた。

 

「……は……」

 

 否、違う。

 

 有栖に、ではない。

 

 一撃を受けたのは――。

 

「……有栖を……殺させやしない……よ。ツバサ姉……」

 

「幸子……!」

 

 幸子のストリンダーが電流の皮膜を作って水の矢じりを蒸発させていたのだ。微細なコントロールを可能とするために、ギリギリまで引き絞ったのが仇となった。如何に損耗していてもストリンダーは電気タイプ。返す刀の稲妻のギターによる殴打がオニシズクモを叩き飛ばそうとするが、それを潜り抜けてオニシズクモは「きゅうけつ」の一撃をその脇腹に差し込んでいた。

 

 ストリンダーが膝を折る。その隙を逃さず、姿勢を沈めてツバサの意識は有栖とセグレイブを狙おうとするが、その時にはセグレイブの威圧の眼差しと、そして有栖の青い瞳がこちらを捕捉している。

 

「……セグレイブ、充分に……力は溜まったよね?」

 

 その言葉の意味を解する前に、オニシズクモに留めておいた意識共々、ツバサは跳ね上がっていた。口吻にトドメの一撃を溜め、有栖を狙おうとしてセグレイブは背中を向けたまま、その口腔部より莫大な冷気を放つ。それだけで周囲の空間が屈折してしまいかねないほどの冷却の呼気であった。土台が冷却スチームに包まれ、世界は白に染まる。

 

 しかし、同調に至ったツバサはその射程から逃れようとしていた。何も難しくはない、飛び退って態勢を整え直せば――そう考えたツバサとオニシズクモの視野に映ったのは、セグレイブの山脈と剣を併せ持ったかのような剣先であった。

 

 セグレイブが咆哮して全身から冷気を放出し、まさしくそれらを推進剤として飛翔して、オニシズクモの躯体を狙う。

 

「――巨剣、突撃……!」

 

 直撃の感触がオニシズクモの躯体を貫いた瞬間、そのダメージフィードバックを引き受けるツバサも腹腔に激痛を感じていた。熱く煮え滾ったような業火に焼かれるに等しい痛みを前にして、精密な同調がぶれる。

 

「……あ……」

 

 最早、余分な言葉が漏れる余裕すらない。ツバサは腹部を押さえて倒れ伏し、オニシズクモの身体はセグレイブの大剣の背びれに突き刺されて異空間の一部で引き裂かれている。

 

 血が噴出し、オニシズクモが戦闘不能になるのと、降り立ったセグレイブが傍らの有栖を守護するように前に出たのは同時であった。

 

「……ありがとう、セグレイブ。あたしの思っている事、ちゃんとやってくれたね……」

 

 応じるような鳴き声の後、有栖は一歩ずつ、こちらへと歩み寄ってくる。冷たい足音が残響する中で、ツバサはかっ血しながら自嘲していた。

 

「……こんな風に……なんてザマなのかしらねぇ……。六年前は負けなしだったのに……」

 

「ツバサ姉。……最後に聞かせて。何で……あたしがアルセウスフォンを差し出した時に、記憶を取り戻したふりをして、攻撃しなかったの?」

 

「……何だ、そんな事……。勝てると思っている相手に、焦る必要性なんて、ないわよ」

 

「……それはウソなんじゃないの? ツバサ姉は……! ツバサ姉はあたし達との日々があったから……! 思い出があったから、すぐには裏切れなかった。そうなんだって……!」

 

「……そうなんだって言って、か。傲慢よ、有栖ちゃん。ヒトの欲望に際限はなく、蹴落とす事に何の躊躇いもない。それはこの“ゲーム”を少しばかりは理解してきたのなら、分かるんじゃないの……?」

 

「それは……」

 

 有栖が口を噤む。こんな土壇場であっても案外、年長者としての言葉は出るものだ、とツバサは不可思議な気分にさえ駆られる。

 

「……私はこの時のために……そう、六年よ。六年前にチェシャーに振り落とされてからずっと……この時の事を待っていた……。争い、欺き、殺し殺され……私にはもう、安穏な日常になんて帰れない」

 

「違うよ……! それは……だって違う……! ツバサ姉は……あたし達と一緒の日常に……いくらでも帰れる……。あたしは……! 殺し合いをしたとしても、ツバサ姉が好き。それは幸子も同じなんだと思う」

 

 幸子が無言の肯定のようにこちらを見据える。二人分の見当違いの視線を受け止めてから、ツバサは痛みを堪えながら思いっ切り高笑いしていた。このザマが可笑しいのもあるが、それ以上に。

 

 ここまで自分を信じ込む少女らの、ある意味では眩しさに。

 

「……有栖ちゃん。それに幸子ちゃんも。ここに居るのは“ゲーム”のトップランカー、翡翠ツバサ。君達のよく知る、だらしがない女子大生じゃない。だから、人死にだとか殺しただとか、そういう事をいちいち考える事はない。足を取られる事もね。私は自分自身の望みのために戦い、そしてこの結果を受け入れるわ……」

 

「ツバサ姉……。キャロルに、アルコスの力を返して。そうすれば――」

 

「残念だけれど、それだけは絶対に出来ない。シュレディンガー!」

 

 呼びかけた自分にシュレディンガーが白いベベノムで弾幕を見舞い、一時的に有栖の攻撃を阻害する。

 

「ええ、分かっているわ。――神の力、天へと至る梯子の回廊を構築する……アルコスの最後の権能を使い、鏡面界と現実世界を楔で止める……!」

 

 途端、ツバサの身に纏っていたアルコスが解け、光の柱となって異空間を貫く。それは空と大地と、世界そのものを一本の楔で縫い留めた証左であった。光の柱による世界法則の構築と、そして転換。摂理は砕かれ、虚ろであった秩序は再構築される。

 

「……ツバサ姉! これは……!」

 

「終わり……ね。私の目的であった、鏡面界側との契約。それこそがシュレディンガーとの約束。神の力を得る代わりに、鏡面界を現実世界と融合させる。その境界は溶け合い、混ざり合い、最早、どちらがどちらでもなくなっていく……」

 

 その時、胸ぐらを掴んできたのは綺咲であった。彼女はまばゆいばかりの緋色の瞳に、敵意と殺意を浮かべる。

 

「……何て事を……! 何をしたのか、分かっているの! 翡翠ツバサ!」

 

「……もちろん。今さら、悔いる事も、懺悔する事も……ないわ。私の纏っていたアルコスは、神の力の一部。取り出された絶対神、アルセウスは転生者を伝ってその権能を実体化させる。私を一度介する必要性があったのは、全て……転生者の仕組みのため……」

 

「ツバサ、よくやってくれたわ。アタシは……このまま、現実世界に出る……!」

 

 その胸に自分の肉体から剥離したアルコスの輝きを抱えて、シュレディンガーが天へと続く回廊へと足を踏み出しかけて、その膝を貫いたのはチェシャーのベベノムであった。

 

「……やらせません……! それだけは……あってはいけない……!」

 

 シュレディンガーは呻き声を上げながら、血塗れの足で光の螺旋階段を上っていく。一歩進む度に、激痛に顔をしかめながら、白いベベノムを疾駆させる。

 

「ベベノム! ……チェシャーを止めておきなさい……」

 

 白いベベノムと紫色のベベノムが争い合う。それをツバサは――もうほとんど意識のないままに倒れ伏していた。

 

「……ツバサ姉?」

 

「あ……そう、よね……。アルコスを解くと言う事は、こういう事、なのは……」

 

 有栖が悲鳴を上げる。自分の肩へと縋りつき、必死になって血を止めようとするが止め処なく溢れる胸元を貫いた傷は癒える事はない。

 

「……ツバサ姉! いやっ! いやだよぉ……っ! ツバサ姉ぇっ!」

 

「……なに、うろたえ、てるの……。かった、んだから、むね、はりなさいよ……」

 

「ツバサ姉が死んじゃうなんてやだよぉ……っ!」

 

 可笑しな事を言うものだ。ここまで非情なる殺し合いを繰り広げてきたのに、今さら死んで欲しくないなど。

 

 ああ、だから自分は。

 

「……あんたたちとのまいにちなんて、ほんとぉに……」

 

 嫌いなのだとそう言い切ろうとして、呪いを放とうとして唇は別の言葉を紡いでいた。

 

「……たのし、かった……」

 

 口にしてからハッとする。自分は、この“ゲーム”のトップランカー。何があろうとも、この心に決めた意義だけは、他の何者にも左右されない。そのはずだったのに。

 

「……あぁ……うそ、みたいに……きれいな、ひび……」

 

 思い出なんてない。有栖の素性を知っていれば、そう言い捨てたのなら間違いなく呪詛であった。間違いなく、彼女の心を傷つけられた。

 

 だと言うのに、どこまでも甘くなったものだ。

 

 この六年間は、非情なる殺戮者であった翡翠ツバサを、ただの一個人として毎日を安穏と過ごすのがお似合いな――凡人に成り下がらせた。

 

「……ツバサ姉っ! ツバサ姉ぇ……っ!」

 

 もう言い残す言葉も思い浮かばない。やられるのなら、最後の最後には散々な文句を吐いて退場するつもりであったのに、今際の際には案外、いい言葉なんて選べないのだろう。

 

 駆け寄ってきた幸子と、白光の神の衣服を纏った有栖。この二人を終わりの淵で、まさか見る事になるなんて思わなかった。

 

 どうせ、自分の事だ。何の感慨も浮かべずに、二人とも殺すのだろうと思っていただけにこの帰結は意外である。

 

「ありす、ちゃん……さちこ、ちゃんも……。……がんばってね」

 

 そう言って微笑んだのは我ながら上々の悪役であったのかもしれない。この“ゲーム”は幕を閉じるのであろう。最悪の形で。

 

 ならば幕引きの前に、最悪の言葉を吐いたのだ。

 

 笑って送り出して欲しいと願っているのに、有栖の涙に濡れた面持ちと、幸子の呼びかける声がいつまでも耳にこびりつく。

 

 うるさいなぁ、と跳ね除けるだけの気力も残っていない。

 

 だと言うのに胸中は凪いでいた。

 

 全てを終えた人間は、最後に他者を呪う事も出来やしないのだと今さら思い知ってから、ツバサは瞼を閉じる。

 

 茫漠とした闇の冷たさ。それがきっと、殺戮者であった翡翠ツバサにとっては似合いの末路であったのだろう。

 

 だと言うのに、最後に彼女らに何で「がんばってね」なんて言えたのだろうか。

 

 最早、それを回顧し直す意識は残っていなかった。

 

 

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