ALICE   作:オンドゥル大使

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第74話 望まれた『存在』

 

「……翡翠ツバサが死んだわ」

 

 綺咲の冷徹な声に有栖は嗚咽を漏らす。何度しゃくり上げても、それでもこれだけは揺るがないのはたった一つ。

 

 自分が、ツバサを殺したのだ。

 

 自分の意思で、自分の実力で。

 

 どうして、ツバサは最後の最後に「がんばってね」なんて言ってくれたのだろう。最後なのだから、恨んでも憎んでもよかったのにその声音は思い出の中にあるツバサの穏やかな口調そのものだったのだ。

 

「……ツバサ姉は……」

 

「遺体はここに置いておきましょう。時間もないわ。……シュレディンガーが光の螺旋階段を上り切る前に、何とかして撃ち落とさないと」

 

 有栖は涙を拭いて天上を仰ぎ見る。崩れかけた異空間の中で、光の回廊だけがハッキリとしている。それはアルコスが持つ威光そのものなのだろう。

 

「……有栖。そのカッコは……」

 

「……あたしにもよく分かんない。けれど、これを授けてくれた人は、よく知っているような……」

 

 その先を紡ごうとして不意に倒れ伏した人影に有栖は目線を振り向ける。

 

 神の威容を誇っていたキャロルが、荒い呼吸をついてその場に蹲っている。

 

「……この子……確かキャロルって……。でもさっきまでの感じじゃない。……酷い熱……!」

 

 幸子がその額に触れた途端に驚愕する。有栖はその仕組みを理解していた。綺咲へと視線を振り向けると彼女もそれを分かっているようで、ばつが悪そうに目線を伏せる。

 

「……キャロル。私の集めた情報通りなら、この子はただの女の子じゃない。文字通り、“願いを叶えるためのエネルギー”そのものなのでしょうね」

 

「願いを叶えるための……」

 

 アタッシュケースが変じたのもその理由があったのだろうか。しかし、呼吸も脈拍も乱れているキャロルにはそのような素質があるとは思えない。

 

「……まさか、ツバサ姉がシュレディンガーにアルコスを渡したから……?」

 

 幸子がキャロルを抱えてその状態を見やるなり、階段を上がっていくシュレディンガーを忌々しげに仰ぎ見る。綺咲は仕方のない事のように語る。

 

「……そうね。その子が死ぬ事で、この事態は収束するわ。翡翠ツバサは最後まで、願いを諦めなかったのよ。だからこそ、こんな事になっている。……包み隠さずに正直に言うわ。想定する限りでは最悪の事態よ。鏡面界と現実世界の境界が溶け合い、混ざり合う事で、世界そのものが崩壊しかけている。……現実世界では私の会社の特殊部隊が動いているはずだけれど……」

 

 アルセウスフォンの交信能力は復旧しない。と言う事は、まだ“ゲーム”が続行していると言う事なのだろうか。それとも、異常事態に陥っているのだろうか。

 

「……有栖! この子……このままだと……!」

 

「篠崎さん。選ぶ必要性なんてないわ。私達は、このままシュレディンガーを追跡し、その手にある神の力を奪う。そうでなければ……現実世界が終わるわよ」

 

「……うん。綺咲ちゃんの言う事は、分かるんだ。だけれど、あたしにはもう一つの結末もあるの」

 

「……もう一つの……?」

 

 綺咲が怪訝そうにこちらへと視線を振り向けた瞬間、有栖は胸元の真紅の宝玉へと指先を留めていた。

 

「……キャロルが苦しんでいるのは、その魂の本質部分であるアルコスが遠く離れようとしているから。アルコスを戻せば、何の問題もないはず。だから……」

 

「……まさか。やめなさい! 篠崎さん……!」

 

 綺咲が制する前に有栖は決断を下していた。

 

「あたしは“神の力をキャロルに返す”」

 

 纏っていた白光のアルコスが解け、その光がキャロルに注がれていく。すると、今しがたまでの異常が嘘であったかのように、キャロルの呼吸も脈拍も落ち着いていく。やがてただ眠っているだけになったキャロルに、幸子は瞠目していた。

 

「……何をしたの、有栖……あんた、元のカッコに……!」

 

「うん。……アルコスを返したの。成功するかどうかは五分五分だったけれど……」

 

 困ったように微笑むと、幸子は信じられないものを見るような目つきで戸惑ったようだ。

 

「……この子を救うために……? けれど、それってさっきまでのあんたとは……」

 

「さっきみたいには……出来ないかな……。あれはアルコスのお陰だし」

 

「……篠崎さん。あなたの決断で、最後の望みが潰えてしまった。アルコス持ちのあなたなら、シュレディンガーに追いついて、完全に抹消する事も出来たでしょうに。……見なさい」

 

 綺咲が顎でしゃくる。

 

 光の螺旋階段を上り切ったシュレディンガーは、チェシャーのベベノムによる攻撃でほとんどほうほうの体であったが、それでも最上階まで到達していた。

 

 螺旋階段の辿り着く先――異空間の天上には黒く輝く結晶体がある。

 

「……残念……! だったわねぇ……! チェシャーの転生者! それに、姫宮綺咲! 貴女達には出来ない! アタシの、創られた目的……! それこそが、この……!」

 

 黒い結晶体へと、アルコスの力をシュレディンガーは注ぎ込む。その瞬間、異空間が砕け、回廊が消失してシュレディンガーの肉体は宙に放り込まれていた。

 

「……は……?」

 

 その意味を理解する前にシュレディンガーが土台に叩きつけられてその肉体を弾けさせる。

 

「……見ちゃダメよ」

 

 綺咲が手で制するが、有栖はその肉体がゴミのように砕け散ったのを目の当たりにしていた。何よりも、もう当事者なのだ。ならば、逃げていいわけがない。

 

「……チェシャー。ここから出る術は?」

 

 有栖はすくっと立ち上がり、チェシャーへと向かい合う。彼女が隠していた真実、そして自分達を遠ざけようとしていた事実に向かい合わなければならない。チェシャーは傷だらけの身体を引きずりながら、指を伸ばす。

 

「……アルセウスフォンを」

 

 チェシャーの前にアルセウスフォンを差し出すと、不意打ち気味に空間が開ける。

 

「……現実世界へと戻る……最後の扉ね」

 

 綺咲の言葉にチェシャーは無言で頷くのみであった。異空間の周辺が砕け、輪郭がぼやけていく。今にこの土台も危ういと知った幸子はキャロルを抱えて異空間の扉に飛び込もうとしていた。

 

「グレイシア! 崩壊現象を瞬間凍結で止めて……!」

 

 カイもグレイシアの力を振り絞らせ、必死で異空間の扉を固定しようとする。チェシャーにもこれまでのような超越した権限はないのか、扉はゆらゆらと揺らめく。

 

「……有栖! それに姫宮も! 迷っている時間なんてないよ!」

 

「……そうね、確かにその通り。チェシャー。ここまでと思っていいのかしら」

 

 綺咲の冷徹な論調はここまで何もかもを秘匿してきたチェシャーを許していないのだろう。そもそも、チェシャーがツバサの事をもっと早くに打ち明ければこんな結末は訪れなかったかもしれないのだ。

 

「……はい。どうか皆様、生きてください……」

 

 顔を伏せて罪人のように告白するチェシャーに、有栖は歩み寄っていた。その姿に綺咲が戸惑いの声を上げる。

 

「……篠崎さん? チェシャーは、もう……」

 

「うん、分かってる。綺咲ちゃんや幸子の言いたい事は、あたしだって分かるつもり。けれど……けれどね、チェシャー。あなたが導いてくれなかったら、あたしはこの“ゲーム”を知る由もなかった。だから……」

 

 最初に出会った時のように。

 

 今度は自分が手を差し伸べる番なのだと。

 

 チェシャーは信じられないように目を戦慄かせる。

 

「……いけません、有栖。それは……越権行為です」

 

「かもしれない。けれど、今さらじゃない? チェシャーはあたし達の事、分かっていてサポートしてくれてたんでしょ? なら……」

 

 ならば、その手を取らないのも嘘ではないか、と。

 

 チェシャーは何度かの逡巡の沈黙とそして歯噛みした後に、有栖の差し出した手を掴む。

 

「……よいのですか……? わたくしはこれまで……たくさんの嘘を……」

 

「じゃあもう、ウソはないんでしょ? たくさんウソをついてきた人なら、つかなくっていいような未来を……選べるはずなんだから」

 

 チェシャーの苦しみが分かるとは言わない。だが、彼女にだって生きていい理由はある。そうでなければ傍観者を気取ってもよかったはずなのだ。それなのに、この土壇場でツバサやシュレディンガーに相反するような事を出来たはずがない。

 

「……貴女は本当に……」

 

 チェシャーの言葉は最後まで聞き取れなかったがそれでいいのだろう。カイが土台に凍結領域を広げるが、それでも足場が崩壊していくのを止められはしない。

 

「アリスさん! チェシャーも! すぐに飛び込まないと……! もう、持たない……!」

 

 カイが必死に呼びかけてくる。有栖はチェシャーの手を取り、セグレイブをボールに戻して異空間の通路へと飛び込む。置いていくしかなかったツバサの遺体へと一瞬だけ振り返ったが、それ以上は深追いしなかった。

 

「……篠崎さん。あなたの決断が、現実をゆがめた。その咎は負うべきよ」

 

 綺咲の言葉の意味も今は全てを理解したつもりはなかったが、それでも有栖は繋いだ手の体温に誇りを持ちたかっただけなのだ。

 

「……待って! 道が……途切れて……!」

 

 前を行く幸子が立ち止まって茫然とする。異空間を繋ぎ合わせる通路が途絶え、その先は漆黒の暗闇に通じている。

 

「……チェシャー。この先は……!」

 

「完全な、奈落です……。わたくしに残された権限では……ここまでが……」

 

「そんな……!」

 

「……諦めろ、と言う事なのかしらね。篠崎さん……最後に、言う事があるわ。私自身の功罪であり、そしてあなたにも関係がある事……それは……」

 

 綺咲は闇の断崖へと足を踏み入れる。その緋色の眼差しの映すものは、有栖には分からない。一体、何を抱えているのか、何を思っているのか。

 

「……もう、どうしようもないって……」

 

 幸子もカイも、絶望に飲まれかけたその時であった。

 

「……待って……! アルセウスフォンから、声が……」

 

『……たい……ったい……! 絶対……っ!』

 

 その声に応じるようにして有栖はアルセウスフォンの画面を闇へと向ける。その瞬間、光が繋ぎ合い共鳴し合ってアルセウスフォン同士が道を構築させる。

 

 闇の断崖より現れたのは、必死に手を伸ばす兎真であった。

 

「……早谷兎真……、何故、ここに……」

 

「って! ヒメに有栖? サッチーも……って、チェシャー! 傷だらけじゃん! ……えっと、これってなに? 奇跡とか……?」

 

 兎真がうろたえている間にも道は次々に途絶えていく。

 

「みんな! 戻る道もないよ! ……こうなったら、飛び移るしかない……!」

 

 カイがグレイシアの凍結領域で少しでも闇の浸食を止めようとするが、それも限界が近い。有栖達は、覚悟を決めた相貌を互いに見返す。

 

「……兎真さん! そっちに全員、飛び移れますか……!」

 

「えっ、そりゃー出来るけれど……。なに、いきなりピンチ?」

 

「言い訳だとか申し送りだとかしている時間もない! 飛び移るよ!」

 

 キャロルを抱えた幸子が最初に向こう岸に飛び移る。その後にチェシャーの手を取った有栖が向かう。

 

「……綺咲ちゃん……?」

 

「……行きなさい。私には役割があるわ。ここで死ぬ事、それそのものが私の役目……」

 

「何言ってるの……。綺咲ちゃんも一緒じゃなきゃ……やだよ……」

 

 綺咲はその眼差しを振り向ける。ジャランゴを繰り出し、その腕でカイを引っ張り上げて無理やりこちらへと放り投げる。

 

「いったた……! 何をするの……! せっかく生き残れるのに……!」

 

 尻餅をついたカイが声を張り上げるのを、綺咲はどこか達観したように途絶えていく闇の断崖の中で呟く。

 

「……こんな運命だったのかもね。私は……篠崎有栖さん。あなたに……現世でもう一度出会ったあの日から……こんな結末を迎えるように……」

 

「もう一度……? 綺咲ちゃんは……あたしが出会った時には……」

 

 いや、違う。

 

 夢の中で、一度邂逅していた――その事を言っているのではない。自分の関知しない、別種の出来事なのだ。それを綺咲は思い出に留め、そして今、闇の中に潰えようとしている。

 

「……早谷兎真。あなたの事はそれなりに信用はしているつもり。篠崎さん達を現実世界に連れ戻して」

 

「ねぇ、待ってって! いきなり何! ……ヒメが死ななくっちゃいけない理由なんてないでしょ!」

 

「……あるのよ、それがね。“ゲーム”の行方次第ではあったのだけれど……シュレディンガーが回廊を辿ってその目的を達成した以上、私の生存が最もあってはならない。私はここで消えるわ。後の事は頼むわね、早谷兎真」

 

「待って! ……何もかもトンデモ過ぎて……あーしには何も分からないけれど……でもさ! ヒメはこの時が来るのを分かっていたんでしょ? 分かっていたから……ちゃんと対策を練って……!」

 

「その物言いなら、直属部隊はちゃんと機能しているみたいね。心残りの一つだったから安心したわ。さぁ、行きなさい。私は……ここで終わる」

 

 予感があった。

 

 この時、綺咲を無理やりにでも連れ出さなければ――その手を取らなければ、もう二度と会う事はないのだと。有栖は胸を衝き動かす決意のままに、闇の断崖を飛び移り、再び消えかけている回廊へと戻ろうとしてその手をチェシャーに強く引っ張られる。

 

「……チェシャー……離して」

 

「いけません、有栖。これは姫宮綺咲様の覚悟なのです」

 

「……覚悟なんて、知らない。知らないよぉ……っ! もう二度と……目の前で救える人が……何も出来ないままに死んでいくなんて……いやなのぉ……っ!」

 

「その言葉だけ充分よ。……ありがとうね、アリス。あなたの想いは、きっと……」

 

 最後の最後、闇へと飲まれる前に綺咲は上手く笑おうとしたのだろう。そのぎこちない微笑みに、有栖は堪え切れなかった。

 

 どのような運命があろうとも。

 

 どのような事情があろうとも。

 

 如何なる残酷な未来が待っていたとしても――ここで手を伸ばさない自分は、「篠崎有栖」ではない。

 

「……セグレイブ!」

 

 セグレイブの生み出した凍結の手枷が自分と綺咲を繋ぎ止める。綺咲も想定外であったのだろう。この土壇場で、自分一人のために足を止めるなど。

 

「……行きなさいと言っているでしょう。私に頓着して、全滅なんてあり得ない……」

 

「あり得ないのは……あり得ないのはこの状況もそう……! あたしは……綺咲ちゃんを諦めたくなんてないっ……!」

 

「あーしもそう! ヒメはここまで頑張ってきたんじゃん! 何だって犠牲なんて言い出すのさ!」

 

「姫宮! ……私が言える事なんて少ないけれどさ……。あんた、有栖のために戦ってくれたんでしょ? なら……敵の敵は味方じゃないけれど、あんたは間違いなく……味方なんだから!」

 

「綺咲さん! ……わたしは所詮、“ゲーム”の数合わせなんだろうけれど、それでもね? あなたのやってきた事、意味がないなんて言わせないよ! 立派なまま死ぬのは、気分がいいかもしれないけれど……残された人が、居る……!」

 

 全員分の声を引き受けて、綺咲は緋色の眼を見開く。

 

「……でも、ダメ。私は生きていると……迷惑を――」

 

「生きていて迷惑なんて……誰だってそうだよ……! 誰だって、誰かに迷惑をかけながら生きてる……! あたしだってそう……。でも、あたしは綺咲ちゃんが居ないといや……っ! 綺咲ちゃんの居ない未来なんて……考えられないくらいに……っ!」

 

「……アリス……」

 

 綺咲の居る側の通路が次々と暗闇に飲まれていく。世界からの交信が途絶え、道行きが消え去っていく中で、有栖は氷の手錠で繋がり合ったこの体温を信じていた。たとえマイナスの凍て付く氷であろうとも、それでも人と人を繋ぎ止める体温だけは否定出来ない、そう思いたい。

 

「……来て! 綺咲ちゃん……っ!」

 

 綺咲は一瞬だけ面を伏せた後に、今に足場が消え去る瞬間に跳躍していた。それを有栖は腕に嵌めた手枷で引き寄せる。

 

 今は先刻のように全能感はない。だから、感じ取る綺咲の重さも、その命の重量もそのままに、有栖は力いっぱい綺咲の身体を引き寄せていた。

 

「……生きて、いいの……? 私が……」

 

「当たり前だよ……っ! 綺咲ちゃん……!」

 

 

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