帰宅すれば父親からの叱責が待っていると思っていたコウジは、しかしそれがいつまでも訪れない事に不信感を募らせていた。父親は孫娘である綺咲を溺愛している。それならば、すぐにでも自分に厳命が下るはずだと。
だが、綺咲はあれほど懐いていた自分の父親――つまりは祖父に会おうとはしなかった。
それどころか他の家の者達の手助けを拒絶し、まともに顔を合わせる事も十日間ほどなかったであろうか。コウジ自身、片付けなければいけない業務に追われ、そのせいで綺咲との毎日がおろそかになっていた覚えはあったが、どうせ綺咲は祖父に懐いているのだ。ならば、それでいいと思っている自分も居て、父親失格だと思いながら日々が過ぎるのを待っていた。
時として時間が解決する事もある。
綺咲の心に傷をつけたであろう犯人達の行いを正すのは司法や行政、もっと言えば医療の分野であり、自分のような素人に出来る事は限りなくゼロに等しい。そう思って、十一日目に自宅に帰ったその時であった。
「綺咲! やめなさい!」
珍しい事もあるものだと思った。いい祖父を演じていたはずの父親が綺咲に声を荒らげるなど。
そう感じて覗き込んだコウジは、直後に瞠目する。
「……綺咲……? 何をやっているんだ……?」
「おとうさん! わたし、アリスにもういちどあいたいの! なのに……どうして“ポケモン”をかいてもでてきてくれないの……?」
「……アリス……?」
いや、その不明な人物よりもコウジの視界に飛び込んできたのは、部屋いっぱいに例の怪物の絵をクレヨンで描いている綺咲の異常さであった。赤や青だけでない。あらゆるクレヨンや画材を使って、綺咲の子供部屋は狂気の色彩に染まっていた。
「やめなさい……っ! どうなっているんだ、綺咲……!」
クレヨンを取り上げようとする祖父の腕に縋りつき、綺咲は激しく頭を振る。
「いーやっ! いやっ! アリスにあいたいのぉーっ!」
綺咲はまるで憑かれたように壁や天井、それに床へと描きつけていく。コウジへと自ずと追及の視線が向いていたが、何も出来ないでいた。それどころか圧倒されてすらいたのだ。
綺咲はたった三日間を境にして、それまでとは人格でも変わってしまったかのように朝も夜も、それどころか寝る間も惜しんで怪物達の饗宴の絵を描き続ける。
当然、幼稚園には通えなくなるのだろうと思っていたが、案外外では大人しく、しかし毎日絶対に描いてくる怪物の図柄にコウジは恐怖していた。
きっと何か、よくないものを見たのだ。よくないものに触れたのだと、カウンセリングに通わせた事もあったが、その結果はまるでなしのつぶてであった。
「異常は……まったくありません。確かに空想にふけっている感じはありますが……別段、それが突飛と言うわけでもなく……それどころか理路整然としていて……。それに、怪物の絵を描く事と、“アリス”なる人物に会いたがる以外はいたって健康で……むしろ五歳にしてみれば聡明なくらいですよ」
異常が見受けられる事はなく、むしろ今よりも教育環境を良くしたほうがいいと言う診断結果に憤慨したのは祖父であった。
「綺咲の心は離れてしまった」――孫娘から相手にされなくなっただけで、見る見る間に祖父は老け込んでいった。それ自体が、まるで綺咲の呪いのように。
綺咲の状態を観察しても、怪物の絵と“アリス”なる人物に会いたがる以外は普通どころか、むしろ優秀なのだ。五歳の後半になった頃合いには、掛け算くらいは出来るようになっていたほどに。
だが、娘の心を離さなかったのは“ポケモン”と言う名称の数百種を超える怪物と、そして金髪の少女――“アリス”。
今晩もまた、綺咲は鼻歌交じりに怪物達の絵を描く。クレヨンが尽きれば、今度は絵の具。絵の具も尽きれば今度はどこからか持ってきた塗料。塗料もなくなれば、家財を削ってまで画材を生み出す。
コウジはこの行き止まりの生活の中で、ふと思い至っていた。
「正直、こっちも参っていると言いますか……」
そう口火を切ったのはあの時面談した警官で、彼は収監されていると言う指定した人物について歩きながら話していた。
「もう一か月だと言うのに……飲まず食わずなんです。けれど、何の問題もないとの事で……このままでは警察が被疑者を死なせたと吹聴されかねません」
「わたしも話があるのです」
「こちらへ」
促された先で、いくつか牢獄があったが、薄暗がりの中で一か月前に目にした女性が膝を抱えて座り込んでいる。
「……チェシャー、だったね?」
「そろそろいらっしゃる頃合いかと思っておりました」
チェシャーには気負ったところもなければ、ましてやこの一か月で憔悴し切ったわけでもない。警官の言葉では飲まず食わずどころか、真っ当に眠ってすらいないのだと伝え聞いていた。
まるで水晶のようなその瞳に吸い込まれそうになりながらコウジは問い返す。
「……綺咲をあんな風にしたのは、君か?」
「あんな風、と仰ると言う事は、姫宮綺咲様はあちら側での事をほとんど話していらっしゃらないのですね」
まるで全て理解の範疇なのだとでも言うようなチェシャーに、コウジは奥歯を噛み締めて言葉を吐く。
「……綺咲に何をした……」
「何も。証言した通り、あちら側で姫宮綺咲様はアリスと出会い、そして友情を育まれました。こちら側の世界では三日間で済みましたが、あれ以上居ればもっと危うかったでしょう」
「……綺咲の心を……壊したのか……!」
「それも妙な問答ですね。姫宮綺咲様はただ、会いたがっているだけでしょう? ただ一つ、アリスに」
思わず、といった具合にコウジは掴みかかろうとして警官に制される。ここまで怒りを感じた事はこれまで人生で一度もない。自分事で怒るなど意味のないのだと規定してきた。だが、しかし――綺咲の心を壊したのならば、それなら話は別だ。
「……許さない……! 何をしたんだ!」
「姫宮さん、落ち着いて! ……チェシャー。あなたは一体、何をしたのですか」
まだ年若い警官は調書を取りながら問いかけるが、チェシャーは抑揚も浮かべずに応じるのみ。
「あちら側の摂理に長く浸り過ぎたのです。姫宮綺咲様は……身体はこちらにあっても、心はあちらに縛られたままなのでしょう」
「あちらだとかこちらだとか……! ハッキリしたことは言えないのか……!」
「そう形容するしかありません。この現世に意味があるように、あちら側にも摂理と言うものがございます。それを壊してまでお話しする事は難しいかと」
「……今日は……お願いをしに来たんだ。……綺咲に会って欲しい」
その言葉を正気かとでも言うように警官が絶句する。
「ちょ、ちょっと姫宮さん……! チェシャーは……まだ調査中で……!」
思わず前のめりになった警官へとチェシャーは何一つ間違いではないように淡々と聞かせる。
「いえ、そうでなければならないでしょうね。わたくしとアリスが、姫宮綺咲様の心をあちら側に囚われさせてしまっている」
「一体、何があったんだ? 聞くに……“ポケモン”とは何だ……?」
「証言が、必要となるでしょう。ちょうどよろしい。貴方はわたくしを見張っていただきたい」
「わ、私がですか……?」
当惑する警官にコウジは首肯する。
「……第三者が必要な事なんです。お願いします」
まだ年若い警官は困惑を浮かべた後に、やがて決意するように告げていた。
「……分かりました。正直なところ、調書も何もかも、仕事にならなかったところです。物事が前進するのならばありがたい……」
警官にとっては職務の範疇を超えた行いになってしまうだろうが、それでも綺咲のためを思えばこれ以外の最善策は思い浮かばない。何よりも、コウジ自身戸惑いが勝っていた。祖父に懐かなくなった娘、そして異世界に心を囚われたままではきっと、この先真っ当に生きていく事など出来ないだろう。
「……しかし、説明してもらわなければ理解も出来ない。“ポケモン”と呼ばれる怪物に、“アリス”? わたしが調べた限り、アリスと言う名の少女は幼稚園には居なかったし、これまでの交友関係にもなかった」
「それは当然です。アリスはあちら側の存在。そして鏡面界の事をご説明するのには、これが必要でしょう」
チェシャーの掌の中には白い端末が握られている。刺々しい異様なデザインの端末であったが、それを目にするなり警官が目を見開く。
「いつの間に……! 証拠品だったはずじゃ……!」
「わたくしと姫宮綺咲様に付随しているのです。どこに隠そうがどれだけ遠ざけようが無理な事」
チェシャーの手の中で端末が浮かび上がる。種のないマジックを目の当たりにして、コウジは絶句していた。
「じ、冗談じゃ……」
「冗談などではございません。これより、この端末――アルセウスフォンの情報を貴方方二人にも共有していただきます」
くるりとアルセウスフォンを呼ばれた端末が揺れた途端、情報の津波が襲い掛かり極彩色の現象が脳内で激しくぶつかり合う。
コウジはその場に膝を折って鼻の奥が熱い熱によって断ち切られたのを感じ取っていた。滴った血が、何よりも雄弁に事の次第を伝えている。
「……こんなものが? 嘘だろう……?」
「残念ながら。姫宮綺咲様の体験された事実となっております」
コウジは立ち上がろうとして頭痛によろめく。それは傍らの警官も同じであったようで、一瞬にして老け込んだように声が掠れていた。
「いま、のが……」
「姫宮綺咲様は鏡面界に数年規模で渡られていらっしゃいました。わたくしがアリスと協力して現世の時間で三日間に留めましたが、数年間に等しい鏡面界の経験は人格形成に影響を与えた事でしょう」
「……綺咲は、ああ、そうか……」
尋ねるよりも先に今しがたの情報のほうが答えを出してくれている。コウジが何とか後ずさりながら立ち上がると、警官はうろたえたようにこちらを指差す。
「……姫宮さん……あなた、髪が……」
茫然とした様子の警官の声に髪の毛を掴んでいたコウジはこれまで白髪なんてなかったはずの頭髪が今の数刻で真っ白になっているのを感じ取る。
「……この世界で生きてきた大人には劇薬なのでしょう。異世界……と思しきものを信じなければいけない」
否、ただ異世界の実在を信じるだけではない。アルセウスフォンの存在とその意味を、コウジと警官は理解していた。
「……何てことだ。このアルセウスフォンは……姫宮綺咲さんと……繋がっている……?」
「仰る通り。魂の原型、アーキタイプと我々は呼んでいますが、その一部は既にこのアルセウスフォンに留まっている。先ほど申し上げた通り、姫宮綺咲様の心残りとでも呼ぶべきものでしょう。それは鏡面界側に残り続けている」
多くの言葉は必要なかった。コウジは警官と視線を合わせる。
「……チェシャー。我が社に来て欲しい。綺咲の事を……今一度、どうにかするためにも。そして……」
情報の津波は別の一側面も表していたのだ。
即ち――綺咲がもう、この現世には未練など一ミリもない事が。彼女は会いたがっている。
鏡面界で邂逅した、黄金の稲穂を行く金髪の少女。その麗しい姿に魅せられたかのように。
だが、その顔だけはコウジにも警官にも何故なのだかぼやかされていた。
「……“アリス”とは、一体誰なのだ……?」