「彼奴が降りて数刻経った?」
「現時点で、三日目です」
ふむ、とハートの女王は結晶の玉座で思案を浮かべる。
「……よもや気づいたか。鏡面界と現世では、時間の進み方の原則が違う事に。とすれば……なるほど。彼奴も考えておる、と思うべきか」
ハートの女王がカツンと玉座から立ち上がると、平伏しているトランプ兵団の下っ端達がめいめいに肩をびくりと震わせる。
一端の成人男性であるところの兵士達がびくつくのは、正直可笑しささえも感じさせる。
「そうかしこまるな。妾とて、ただの少女には変わらんはずじゃろう?」
「い、いえ……恐れ多く……」
必死に面を上げまいと努力する下っ端達は涙ぐましいが、ハートの女王はその意思を軽々と摘むようにして、杖で一人の兵士の肩を突く。
「命令じゃ。面を上げい」
「……い、いえ……! いけません……!」
「いけない? 妾が、この鏡面界の支配者たるハートの女王の意見が聞けんと?」
「……我々にそのような領分は許されておりません……! おたわむれを……!」
「……分かっておるのじゃぞ? ノックスに何やら言い含められておるな?」
兵士が恐れに震撼したのが伝わる。正直に言えば、ノックスが何を企んでいるのかは一切分からないし、興味もない。だが、こう言えば熱心な兵士達が心を乱される事をハートの女王はよく知っている。
だからこれは戯れだ。
まさしく、児戯のようなもの。
しかし、子供の戯れ一つで摘む命ほど、純粋な輝きを誇るものはない。甘露なる美酒のような麗しさを伴わせて、兵士の掠れた声が漏れ聞こえる。
「……そ、そのような事は……」
「そのような事は? 貴様、分かっておるのか? 妾に嘘をつけば、どうなるのか」
しなやかな指先で兵士の頬を撫でる。興が乗ってきたのは、脂汗がその指先の表面を流れたせいか。
「う、嘘などは……決して……」
「では、跪いて舐めてみせよ。うぬの汗じゃぞ?」
指先から垂れた兵士の汗を舐めさせようと、手をゆっくりと上げる。それに引き寄せられるように、今の今まで面を伏せてきた兵士の顔がゆっくりと上がった瞬間、ハートの女王は喜悦に唇を歪ませていた。
「あ、あ……」
「――妾を見たな?」
その眼で直視したのならば逃れられない。兵士の瞳の中に反射した己は、まばゆいばかりの緋色の眼差しでその心を手中に置く。
途端、兵士の全身が虚脱していた。
当然だ、“障った”のだから。
「“我に触れたもの、三日にして感情をなくす”、か。まったく、我ながら妙な逸話に振り回されたものじゃが、今はよかろう。して、うぬはノックスから何を言付かっておる?」
「わたしは……のっくすへいだんちょうから、なにもいうな、とだけ」
「ほう? ノックスの奴め、一段階程度の感情障壁の突破は想定済みか。愛い奴よの。よかろう、ならばこれでどうじゃ?」
これまでは手袋越しであったが、生身の指を晒す。
太陽光を知らぬ、真の石膏のような白磁の指が兵士の頬を撫でる。それだけで、兵士から感情がまっさらに失われていた。
「あ……あ……」
「いかぬな。やり過ぎると何の意味もない、傀儡を生み出す事になるが。まぁ、よかろう。数だけは一端に居るのじゃ。一人程度散ったからと言って、何も変わらぬ。では、今一度問うぞ? ノックスに何を言付けられた?」
「あ、わたしは……のっくすへいだんちょうから……」
「ほう、ノックスから? 何を?」
愛撫するように首筋をさする。兵士の眼球から血の涙が滴り落ちていた。これ以上は快楽の限界か、と思いながらもハートの女王自身、久しぶりの戯れに自身を抑え切れていない。
昂りの中心である左胸へと触れた瞬間、兵士は恍惚の表情を浮かべて口から血を迸らせる。
「あ、」
自ら舌を噛み切ったのだ。噴水のように口中から迸った鮮血がドレスを濡らすかに思われたが、全て遮断されたようにハートの女王の絶対王権の装飾は穢れる事はない。
「……ノックスめ。まさか自害を組み込んでおったとはな。この調子では他の者も同じであろう。妾の“感情”を司る権能を理解しておったか。確かに、このヒスイ地方には文献資料も残っておろうな」
だが、ここまでノックスが用意周到とは意外であった。つまるところ、信用されていなかったと言う事実に集約される。
否、今さらの話か。
「妾の特性を理解した上で、立ち回ろうと言うのか。……まったく、ヒトの子と言うのは、どこまでもまかり間違うものよの。その兵士を始末しておけ。退屈な時間にも少しは彩があるかと思われたが……張りもない」
他の兵士達が今しがた自決した下っ端を運び出していく。彼らの眼に宿っていたのは、一様に畏れ、そして恐怖の“感情”。
どれもこれも、一級品には程遠い。“それそのもの”を支配する自分にとっては、まるで些事だ。
玉座の間に戻り、ハートの女王は捕えておいた楽しみをいたぶってやる事にした。玉座の奥で今も目を伏せている水色のドレスの少女。麗しい絹のような金髪に、穏やかな色彩を誇る聖者の母たる素質を持つ柔肌。
だが、その実は邪神であると言うのだから、この世はやはりまかりならぬものだ。
「そろそろ目を覚ましたらどうじゃ? ――アーキタイプ、アリスよ」
その頬を引っ掴み、天井から垂れ下がる赤い鎖を揺らす。それでも、アリスは目を覚ます様子はない。それどころかより深い呪いのような眠りに落ちようとしているのが窺える。
「……妾も一人遊びには飽いてきたと言うのに、うぬはまだ目を覚まさぬか。いつかのように、妾の“影”を相手に笑えばよかろう? あの時のように、邪悪な煉獄に迷い込んだ幼子相手に、微笑みかけてみよ。その唇で、その指で、その瞼で、あの“影”と戯れてみせよ。……と、これも何百回目か分からぬな。無為なる問答を続ける気はないぞ、アリスよ」
カン、と杖の底で床を叩くが、それでもアリスは頑として目を覚まさない。びくつくところを見るに意識はあるのだろうが、その魂と呼べるべきものはここにはないのだろう。
「……ふむ。やはり、現世で夢を見ておるのか。のぅ、アリス。妾もな、夢を見るのじゃ。それもいつも筋書きの同じ、退屈で飽いた夢よ。妾は機械仕掛けの鋼鉄の森林を掻い潜り、そしてダイマックスポケモンを狩って回っておる。どこにも捻りのない、ただただ平坦な夢であったが……最近、その夢に続きがある事を知ってのぅ。そこでは貴様そっくりな稚児が、妾に向けて様々な感情を向けてくるのだ。何を期待しておるのか、何を考えておるのか、と内側では散々考えるのじゃがな、夢うつつの世界を行く妾は決断を下せずにいる。……いや、これも違うか。当の昔に、貴様が心を奪ってしまった。そうであろう? 何故ならば、妾はハートの女王――“感情”を統べる者であるのと同時に、貴様は……そうであるな。言うなればヒトの“意志”なるものを司る……そういった存在であるのだからな」
人間に“感情”の大元を与えた自分を、ヒスイの大地に棲む多くの人間達はこう称え、崇め奉った。
――曰く、“感情(ハート)”の女王、と。