ポケモンのステータス、そして戦術は既に脳内に入っている。ノックスは何度もイメージトレーニングを繰り返しながら、それでもハートの女王相手に反逆する瞬間を考えるだけで血の気が引く思いであった。無理もない、自分をこの日この時まで支配してきた絶対者。ヒスイ地方を盤面としか思っていない、残酷なる少女。そのまばゆい緋色の瞳に射竦められるだけで全身の力が消えていく。
何度も何度もその時の心構えをしても、やはり困難であった。
「精が出るな。トレーニングルームで瞑想とは」
そう声を掛けてきたのは強面のGIGの隊長である。
「……貴様も今回の作戦には賛成か?」
「チェシャーとコハクがそれぞれの強みを活かして我々に協力してくれている。光体爆弾と言う名の切り札も揃った。仕掛けるのならば今しかないのだろう」
「それにしては……浮かない顔に見えるがな」
ノックスが鎌をかけると隊長は対面のベンチに座り込み、やがてゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……わたしも、この戦いに終止符を打つために、あらゆる手を尽くしてきたつもりだ。GIGの隊長としてだけではない。元々は……わたしは何でもない警官であった。貴君らの言葉で言えば、何と言うべきなのか分からんが」
「警官、か。それこそ実力者とでも呼ぶべきなのだろう。誰かを守るための職務だろう?」
「……その誇りも、もう随分と錆び付いたものだよ。わたしは代表の意志を達成するために、そしてお嬢様の預言に従ってこの姫宮財閥で戦い抜いてきた。当然、わたしのような人間をよく思わない人間も居たさ。だが、多少の妬み嫉みも、わたしにとってはこの瞬間のためにあったのだと、思わせられた」
「……転生者、姫宮の父親、か。何があったのかは推察しか出来ないが十二年も前から鏡面界の事を知っていたのならば、それは半狂乱に陥ったのだと誤解されても仕方あるまい」
少なくとも現世において鏡面界の存在が周知の事実となったのは半年前。それよりも遥かに前からイニシャライズするポケモンを狩っていたのだとすれば、綺咲は相当に覚悟が極まっている。
「……お嬢様はまだ十七歳だ。本当ならば世界の敵になんて成る必要はないのに……。それでも自らの双肩に悪意を背負っている。その細い肩が……一回だって震えやしないのは、我々のような訓練された大人でも信じ難いとも」
このGIGの隊長は作戦前だからナーバスになってでもいるのか。あるいは自分と話す事で己の中の澱を出そうとでも言うのかもしれない。いずれにせよ、話し相手にしてはまだ分かるほうではあるので、ノックスは突っ込んだ話題を切り出す。
「……転生者達は、わたしの部下達を殺してきた。いや、殺して来たと言うのも妙だな。我々には、肉体がないんだ」
「……こうして目にしている肉体は……」
「鏡の屈折現象を知っているか? 全てが反射されているわけではない。何割かは情報としては入らない。そう映っているだけ、そう見えているだけに過ぎない。わたし達、トランプ兵団は魂の原型たるアーキタイプを持たない、精神体だけの存在だ。だからこそイニシャライズの際に、誤差をほとんどゼロにしてこちらの世界に降り立てるのだが」
「アーキタイプ、か。……何度かチェシャーの証言にもあった言葉だな。未だに確証は得られんが、それがないと言う事は、人間とは呼べんと言う事か?」
「前提条件を間違っているな。“ゲーム”において、“コール”を選んだ場合は記憶も死傷者も全てリセットされるのだぞ? 所詮、現世も鏡面界も情報の集合体に過ぎない。……この世界は神のような何者かがその度にダイスを振って確率と摂理を変えていくだけの……実験場なのかもしれない。我々は試験管の中の結果論でしかないのだよ。それが如何なる結末を迎えようとも……」
ハートの女王の機嫌次第で命を啄まれていく同胞達。転生者の戯れで殺されていくだけの、命以下の代物でしかない。しかし、自分にとっては違う。部下達は自分のような存在を信じてくれている。ハートの女王の下に残してきた部下達も上手く追及をかわしているだろうか。
いや、自慢の部下達だ、今は信じようとノックスは強く瞼を閉ざす。
茫漠とした闇、それがたとえこの未来に広がっていようとも、今はただ前進する事のみを至上の目的として掲げよ。それが間違っているかもしれないなどと迷っていたって仕方がない。何よりも転生者と組むと決めた時点で、最早、分の悪い賭けに等しいのだ。
「……そこまで思い切る必要もない。わたし達は全霊をもってサポートする。所詮、お嬢様を押し上げるために存在している部隊だ。わたしは最終的に、代表とお嬢様に報いる事が出来れば、それでこそ……」
「生きている張り合いもある、か。……少し聞かせろ。何故、貴様らはあの少女を……ハートの女王の生き写したる転生者、姫宮を信じられる? トリアなる女性構成員から聞いた限りでは、狂気の沙汰と思われても不可思議ではない境遇との事だが」
「……お喋りな副官も居たものだ」
いや、この場合のトリアは自分から証言を聞き出すための交渉材料として綺咲の過去をある程度語ったのだ。その齟齬にはあえて言及せず、ノックスはトレーニングルームで重量上げを行う隊長へと目線を振り向ける。
「……十二年も前から、鏡面界の事を知りそしてイニシャライズするポケモンを狩ってきた……。わたしにしてみれば、それも理解の範疇の外だ。どうして、狂わずにいられたのか。ハートの女王と瓜二つの姿を持ちながら、その魂を高潔に染め上げる事が出来たのか」
「高潔、か。……ノックス兵団長、貴君は勘違いをされているようだな」
「……何だと?」
隊長はトレーニングを続行しつつ、まるで雑談のように口にする。その膂力、そして漲る力はここまで鍛え上げてきたGIGの隊長の名を損なわない。まさしく誉れのように筋肉は膨れ上がっている。
「お嬢様は……決して高潔などと思い上がった事は言わない。あの方はずっと、ずっとだ……。わたしは代表と共に今日の姫宮財閥の栄華に深く関わっている。当然、『ポケモン』と言う名のIPに関してもな」
「……『ポケモン』か。悪い冗談のようであった。こちらの世界では遊戯として扱われているなど。我々の世界では、ポケモンは怖い生き物なのだと幼少期より聞かされていたのに」
実際にゲーム画面を見せられても、やはり信じられない。現世では『ポケモン』は子供から大人まで親しみのあるコンテンツであり、なおかつそれを隠れ蓑にして姫宮財閥は栄光を手にしていたのだと。
隊長は日課のトレーニングをこなしながら、ルームランナーを起動させる。
「……ちょっと付き合え」
「……よかろう」
並走するルームランナーもノックスにしてみれば異質に映る機械仕掛けであった。屋内で走るためのトレーニング器具など、まるで理解出来ないが、この一日程度でこちら側のものにも少しは慣れてきた。起動させ、ノックスは駆け出す。
「……やるな。いきなり全速力か」
「舐めないでいただきたい。こちらはヒスイ地方の険しい山岳地帯や緑地を駆け抜けてきたんだ。機械の生み出す疑似的な逆境になど負けんさ」
「……その意気やよし。では、わたしも少しだけペースを上げるとしよう。……話の続きだが我々にとっての『ポケモン』と貴君らの思うポケモンはまるで違う……それこそ原初より存在する生き物かどうかの違いだけに留まらない。恐れの象徴として映っているようにさえ思えるな」
「実際、その通りだ。山や川、険しい山稜や空に至るまで、ポケモンはあまねく全てに存在する。まさに……そうだな、こちらの世界で言うところの“森羅万象”とでも呼ぶべきか」
「適合が早いじゃないか。もうこちらの言葉を学んで?」
「……わたしとて、一端の兵団長であり男でもある。部下に恥は見せられん」
実際にはイニシャライズする度に得てきた常識と照らし合わせた代物であったが、隊長は心底感嘆した様子だ。
「なるほど。……わたしも見習わなければならんな」
「一つ聞きたい。こちらの世界では、十二年も秘匿してきたイニシャライズ現象、そして転生者だが、そう容易くいくとも思えん。イレギュラーはあったのだろう?」
それはノックスにとってはある種の期待でさえもあった。どこかで歯車がかみ合わない事もあったのだろう、と。しかしその憶測に、隊長は汗を浮かべながら速力に翳りを見せずに応じる。
「……いや、それが拍子抜けなほど……ほとんど一切、なかったと断言してもいいだろう。実際にイレギュラーめいたものが観測されたのは半年前からだ。それまでの転生者の立ち振る舞いと、そして戦いは全て……お嬢様の計算のうちであった」
ノックスはそれこそ妙だと感じる。如何にGIGと姫宮財閥が特殊な方法に秀でていたとしても、情報封鎖が半年前まで瓦解しなかったなど。
「……誇張もなく、か? まさか、まるで……だと?」
隊長は頷き返し、それからぽつぽつと口にする。
「……実際、わたしも無理なのではないかと思っていた。そのような事は不可能で……いずれボロが出る、とでも言ったところか。どこかで折り合いがつかなくなり、どこかで説明がつかなくなるのでは、と。だが、本当にほとんど収集不可能な事は起こり得なかった。お嬢様の報告書では六年前においてトップランカーの転生者である翡翠ツバサが居たとの事だが、それでさえも、だ。この学園都市で、分析不可能な事はほぼ起こらなかった」
「では半年前の……ハートの女王の決起と、そしてバステトによる転生者の出現。それに鏡面界の独立宣言以外は……全て、転生者、姫宮の考えの内であった、と?」
恐れさえも抱きながらノックスは問い返すと、隊長は静かに首肯する。
まさか、と震えた唇と足並みが僅かに崩れ、ルームランナーの速度に押し返されそうになりながらノックスは走る。このような現実の逆境も、恐るべき事実にも負けず、隣の男は全てを万事問題なく終えてきた。その覚悟と、そして抱えてきた闇は計り知れないはずだ。
「……ペースが落ちているぞ」
「……舐めるな……!」
足に火を入れ、ノックスはさらに速度を上げる。ルームランナーの生み出す疑似的な逆境に負けている場合ではない。少なくとも、並走する相手は全てを乗り越えてきた猛者だ。そんな本物の「漢」を前に、弱音など吐けるものか。
「……いい走りざまだ。正直に言ってしまえば、わたしはどこかで綻びが生まれる事を……期待していた。『ポケモン』など、ゲームの中だけの話だ。この世には存在しない、そんな空想に心を砕いている暇があれば、と。しかし、現実は非情にも全ての事象を確定させる。ポケモンの存在、異世界の存在、鏡面界と言う……脅威の存在を」
隊長の足並みは少しだけ乱れつつある。まるでその心を写すかのように。
ノックスは追い越すかのように両腕を振るい、さらに先を目指して全力疾走する。
「……だが、だとして。それを認められる神経が、貴様らにはあった。イニシャライズするポケモンを狩る、転生者の実在。そしてそれを利用して……願いを叶えようとする浅ましさを。貴様らは、どこかで歯止めをかける事も出来たはずだ。誰でもない、貴様らこそが……全てに終結を付ける事が出来た」
それこそ、半年前よりもなお前の時点で、全てに決着をつける事は出来たはずなのだ。だと言うのに、綺咲は動かなかった。そして、全ての歯車が狂い始めたのが合致するのが半年前の事――GIG隊長とて歴戦の兵。そこが無関係だと思っているはずがない。
「……だが、わたしは信じたのだよ。代表と、そしてお嬢様の進める、預言とマニュアルに。転生者の存在と、そしてそれが明るみになった際の動きを。……本当ならばGIGなる組織は必要ないほうが良かった。キャプチャ・スタイラーの技術も実用されないほうが良かったはずなのだがな……」
全ては結果論だとでも言うように、隊長は走り抜く。その相貌に最早迷いはない。なるほど、それこそがこの男の真の意義。そして覚悟の行く末か、とノックスはルームランナーのスピードをさらに引き上げる。
「……いいのか? 戻れんぞ」
「今さらの話だろう。貴様らも……戻れん道を行っている。わたしが気圧されているような場合でもない」
「……上等だ」
互いにトップスピードに達し、全霊での走法で駆け抜けていく。ノックスは鏡面界に居た頃でもここまで全力を出した事はほとんどなかったなと思い直す。これは――意地。そう意地と呼ぶべきものだ。
男同士の。
そして全てを知りながらも、実行しなかった間違いだらけの愚か者同士でもある。ハートの女王を殺せるだけの力があれば、覚悟があればよかった。それは互いにそうであった。隊長が綺咲に手をかけるチャンスも、なかったわけではないはずなのだ。それでも綺咲とコウジを信じる事を選び、そして愚直にも兵士として一戦闘単位として在り続けた。
実際にはそちらのほうが辛いはずだ。
ただ従順に従う事が、辛くないわけがない。何も考えない事を選ぶ道は、何かを選ぶよりも時に難しく、そして険しい茨道となる。
だが、隊長は何も考えないわけではない。
むしろ悩みながら、悔やみながらここまで来た。
それは自分も同じ。
故郷の地を侮辱した転生者を許せないとの同じくらいに、今のハートの女王の暴虐を許せない。こうして並んでしまえば、何と陳腐な結論か。
自分は結局、思い切りが付かなかっただけなのだ。そんななりで隊長やコウジを糾弾出来る立場だとは笑わせる。
何もしなかったのは、自分も同じ。
あえて何もしなかった。ハートの女王を止める術も、もっとしっかり考えればあったのかもしれない。ともすれば恐れていただけで、もっと冴えたやり方はいくらでもあったのだろう。
殺す必要もなかったのかもしれない。
だが、ここまで来てしまった愚者なのはお互い様である。
隊長は綺咲を疑い、そして命を摘む事はいくらでも出来た。実際にそうしなかったのは、彼の中に信じる心があったからに他ならない。
――心か、とノックスは自嘲する。
その心なる不可解なものを恐れ、時に感情に揺さぶられながらハートの女王の治世に口を差し挟まなかったのは、ただの怠慢であったのかもしれない。
ルームランナーが同時に止まる。
ぜいぜいを息を切らし、肩を荒立たせたままルームランナーの上でノックスは差し出されたタオルを握り締める。
「……もっと早く……こうしていればよかったのだろうな」
「案外、最短距離なんて見えないものだ。人生と言う道は険しく、そして荒波のように一個人の思惑など飲み込んでいく。一寸先さえも見えない闇の中で、必死に手を伸ばす事さえ難しいほどに。だが、大事なのは伸ばし続ける手を休めない事。そして自分以外の誰かを信じる事なのだろう」
「……くさい台詞を言う」
「……お互い様だろうに」
互いに目線を交わし合い、ノックスは身を翻す。もうこの胸の中に燻る迷いも、そして躊躇いもない。
「……現世は案外、いい場所だな。わたしはここは地獄なのだと、教えられていたが」
「ならばわたしも地獄で踊り狂う咎人か。なるほど、そんな身分なのかもな」
タオルで汗を拭い去り、ノックスは隊長へと向き直る。
「……なぁ、GIG隊長。生き残ったら、その名を教えてくれないか? いい加減、隊長呼びも仰々しいだろうに」
「それは……」
隊長が口にする前にトレーニングルームの門扉が開かれ、途端に声が迸る。
「た、隊長ぉ~! トレーニングするなら言ってくださいよぉ! ……せっかくもうシャワー浴びたのに」
「何だ、トリア。トレーニングならまだ始まったばかりだ。なにせ、これから鏡面界に向かうのだからな。どれだけしたってし足りないほどだろう」
「げ……隊長ってばそんな事ばっかり言ってるから、モテないんですよぉ~」
トリアがひょいひょいと隊長相手にジャブを撃つ真似をする。
「放っておけ。……何故、こんな時間にシャワーを? まだ就寝時刻には早いぞ」
「そんなだからですよぉ~。私もお嬢様に同行する事にしたんです。だって……最後の女子会ですからね!」
「じょしかい……?」
ノックスがその不明瞭な言葉を中空に問い返すと、隊長も肩を竦める。
「……まったく。この世は分からぬ事ばかり! そうだろう?」
思わずノックスは吹き出す。どこか空回りな自分達がここまで滑稽な道化だと笑いが漏れてくるものだ。
「あっ、隊長ぉとノックス兵団長は来ないでくださいねぇ~! 男子禁制なんですから!」
「……いいさ。男同士でしか分からぬ事もある」
隊長がこちらに目線を配ったのでノックスはふんと鼻を鳴らす。
「……まったく、現世の連中と来たら、とでも言うところか、ここは」
しかし、嫌な気分ではなかった。それどころか、晴れやかな心地だ。この地獄のような現世が初めて――それこそ少しは楽しいのかもしれないと思えた、ほんの一刹那であったのは間違いないのだから。