の
しばらく螺旋階段をゆっくりと下りながら、さきほどまでのショックと、この問題に向き合う心構えを再形成する。
いくらか回ったので、くらりと足をよろめかせながら、出口のドアノブに手を伸ばす。扉を開いて少し歩くと、食堂の前の壁になにかを貼っているニカの姿が目に入った。
「あ、勇者さま」
彼もシュンに気づいたので、シュンはなんとなく近づいてみる。
「さっきぶりですね、なにしてるんですか?」
「ちょうど、勇者さまがここで迷わないように目印を貼っていたんです。この矢印に沿って歩いていくと、勇者さまの|自室(へや)につくことができます。」
「おー、ありがたいです」
「いえいえ」
さわやかに笑って言うニカは、貼り終わったそれをいくらか手のひらで押して、床に数枚重なったそれを拾い上げた。
「ほんとに、どこ歩いてるのかわからなくなるので助かります。」
「そうですよねー。住んでいる人も迷うので、この機に迷子が減るかもしれません。一部の場所は使う人しか行かないですし。」
「そうなんですか」
「ゼリュー姉さんとかしょっちゅう迷うんですよ。そういうときにニコルグさんが手を貸してるみたいなので、ちょっと心配なんですよね」
なるほど、てきとうに相槌をうって、シュンはしばらく他愛もない話に癒されることとする。
「ゼリュー先生は、結構迷う人なんですか」
「なんか、考え事をしながら歩いていたら、気づいたら知らない道にいるみたいです。まぁ迷子になっても結局ここは家なんで、深刻な問題ってわけでもないんですが、あのひとがお酒とか飲んだ後に、たまに廊下で転がっているのをみます」
「おいしゃしゃん……」
喫煙に続けて飲酒も趣味らしき医者の実態を情けなく思うシュンが、気の抜けた声を反射して、ニカが苦笑いを浮かべると、
「そろそろ僕、いきますね。勇者さまは他に、困っていることはないですか?」
「いや、特にはないです。いろいろ今日はありがとうございました。」
「いえ、勇者さまもお疲れ様です。」
頭を下げ、この場を後にした。
それに手を振って見送って、しばらくその場でシュンは呆然と立っていた。現実の中に戻されたような気がしたからだ。シュンの中にある二面性はどちらも現実であることには違いないのに、こんな時に限って、現実は常に嫌悪を示されているなどと気づいてしまった。
そして、背後から聞こえる声は、そんな寄り道さえ許してはくれないかのようだった。
「調子はどうかな。」
「……どうだろう」
じっとうつむきがちの視線を固定して曖昧な返事をするシュンに、おだやかな声の主は食堂の扉を開けて、
「すこし、話をしようか」
とだけ伝えた。
そのまま気配のなくなった彼と、壁に貼っている矢印をシュンは交互に意識して、結局ため息を吐いては、自身も食堂へ向かった。
がらんどうの、奥のカウンターの前に座り、グラスへ酒を注いでいる様子のルーマの隣にシュンは座る。
「きみも飲むかい?」
「……ちょっと、わからないです」
「じゃあ、注いでおくよ。いつでも飲めるようにね。」
ルーマは曖昧な否定を無視して琥珀色の酒の入ったグラスを差し出した。躊躇なく差し出されたそれに、シュンは困惑しながら、
「いちおう、未成年なんですけど……」
「関係ないさ。こういう日は、飲まなくてはやっていられないというものだよ」
都合を押しつける壮年に無理な納得をして、その液体を見つめた。隣では既にグラスに口をつけるルーマがいる。
「……あなたはまだ、じぶんに、殺されるつもりでいるの?」
「当然さ。退路がないんだ。仕方がない。」
「しかたないで、済ませられるかな」
「済ませられるよ。」
酒が入ったからか、楽観的に彼は言う。シュンは何故だか、この正気こそが、狂気かもしれないと錯覚した。
「もっとなんか、やりたかったこととか、ないの」
「そりゃあるさ」
「あるのに」
彼にとっては残酷な話であるのに、自身の正当化のためにシュンはそれを押しつけるように吐いた。
しかしルーマは、その穏やかな心持のまま答える。
「ニカに楽器をおしえたかった」
「……。」
シュンはただ黙って、その言葉を見つめた。
「たとえこのことがなくても、墓までもっていくつもりだったけどね。」
「いや、教えればいいじゃないですか。こうやってじぶんに押しつけているみたいにして」
「あの子は音楽が好きだけれど、強制したら嫌いになってしまいそうだからなぁ」
「だれだってそうでしょうに」
しかし控えめな姿勢のルーマに、横槍を入れずにはいられなかった。不機嫌をぶつけるように、感情論で、彼のそれを汚く利用している自分がいることを自覚しながら、しかしシュンはその姿勢を彼に向け続ける。
「それに、今日の夜と明日だけでは終わりそうにもない」
「別に今日明日で終わらせなくたっていいでしょ。一週間だって、一か月だって、一年だってかけようよ」
「それは無理だよ。」
「無理じゃないよ!」
叫んで、心の中に生まれたどうしようもないどろどろを吐き出すように、
「あなたはなにもしていないし、なにも悪くない。それがこんなにも確実に追い詰められるのは絶対に間違いで、あっちゃいけない。それに踊るあなたもよろしくないし、正しくない。これは絶対に、曲げない」
胸中でぐるぐると沸騰させた正義を伝えた。
真っ直ぐな赤い瞳をみて、ルーマは、ひどく冷静に空になったグラスに視線を落として、変わらない声音で答える。
「それは、きみもいっしょだろう。きみも悪くない。それがわかってくれたら、はやめに手を打ってほしい」
「わからないし、わかりたくない」
声量を押し殺してシュンは言い、彼は心を殺した声のまま、
「しかし、仕方がないことなんだよ。どんな形であっても、平和を得るためにはなにか代償が必要なんだ。いくら駄々をこねても、問題はなにひとつ変わらないんだよ。」
単なる駄々として扱った冷たい言葉は、シュンの思考を止めた。
「きみがわたしの立場になったらどうする? じぶんの命だけで乗り越えられる問題なら、それでいいと思うだろう?」
「──それは、そうかもしれないけど……それはそれとして、明らかな不条理は認めないし、命がかかっているなら尚更だよ。まだ粘りたい」
語気の弱まった勇者の心をじわりと追い込めるように、ルーマは続ける。
「それに、わたしはこれが嘘だったとしても、このまちをまもれたと思って死ねるんだ。きみにとっては単なるわがままかもしれないけど、それは誇らしいと思うんだよ」
「そんなのきれいごとだ。あなたのそれは、きっと、正義じゃなくて、じぶんを言いくるめるための独りよがりだ」
「ここでの正義は、完璧に問題を解決できる方法を実行することだよ。幸いにも方法はある、今からでも遅くはない」
「違う!」
幼く甲高い声をきんと響かせて、感情論での悪あがきをするシュンに、ルーマは一切の嫌悪を示さず耳を傾けている。
「理想ばかりみてることも、じぶんが未熟だってこともわかってるんだ。それでも、抗いたいよ……! どこかに抜け穴があるかもしれないじゃんか。」
「だいじょうぶだよ。きみは、勇者だ。その心がいまは、わたしにとってなによりも尊い」
「まだ勇者じゃない!」
シュンは立ち上がり、叫んで、カウンター上にあるひとくちもつけていないそれをルーマの前へ滑らせて、その心の行きたいように胸に手を当てた。
「じぶんは、しゅんって名前です。本名だから、きみって名前でもよかったんだけど」
「あ、ああ」
唐突な話題の変化に困惑するルーマを横目にシュンは独りよがりを続ける。
「だから、なんかわかるまでちゃんと待ってて、それかまだ探してほしい。ほんとうにあなたが死ぬ必要は、どこにもないと思うんだよ。」
グラスから手を離し、背を向けては
「だから、諦めないでよ!」
捨て台詞を吐いて、彼の顔さえ見ずにシュンは走り出した。逃げ出した、というほうが近いらしかった。
ぽかんとその背を見つめる壮年は、残されたそれを手にとり、上げっぱなしの口角を下げて、ようやくため息を吐いた。
*
ふわふわと心地のいい気分で、しかし心の底に残る憂鬱をどうにかしなければという思いは晴らせなかった。それでも普段の憂鬱よりはだいぶましである。
やはりそんなことをずっと思いながら、壮年は、いつものように階段を下る。
薄暗い王宮のなかをちらちらと目新しいそれが、死神の居場所を暗示しているが、殺意がなければ意味がない。今はとにかく待つしかないのだ。
しかし、心の中で嘆いているわけにもいかない。シュンの言った通り、この状況を打開する方法を、言葉以外でなにか考えなくてはならない。
そんなときだった。
なにか、軽いものが壮年のつま先に触れた。静かにそれは転がって、彼の一歩も満たない歩幅の先で、拾い上げられる。
「筆……?」
やけに古い、ぼろぼろのそれを、壮年は見つめて呟いた。
あまりにも不可思議な状況のそれは、すぐさまあの問題へと絡みつく。これはもしかして、例の遺物ではないかと。であればなぜここに。
ルーマは辺りを見回す。誰もいない。静かな空間が、思考の中へと彼を意識させる。
当然の疑問は払われ、ひとまず、壮年はそれを持って、道を引き返し始めた。そそくさと今日、勇者と出会った室へ入っては、ぼんやりと空間を照らす棚のなかにある赤い光に目を向け、
「──やってみるしかない。」
と、それに手を伸ばして、机へ向かった。
てきとうな紙を広げ、引き出しからは絵具をさがして取り出しては、些細な量のそれを机上に垂らす。荒れた頭の筆を濡らして、絵具を掬っては紙に向き直った。
始祖の遺物らしき腐りかけのそれは、噂通りなら、誰かの直筆署名を介さずに【契約】を結べるということだ。たとえこれが偽物で、ふざけた行為として終わってもいいのだ。手紙もまた見返して、筆を動かす。
すべてをなかったことにできる可能性がある。【契約】をした相手となら、再度契ることでなかったことにもできるのだ。
「────」
ルーマの手がとまる。であれば、書けないのだということに気づく。自分の本名は知っているとしても、顔も見たことのない相手の本名など、知る由もない。呼び名すら、記されていないのに。
だとしたら、渋々ともうひとりの可能性を探る。
──じぶんは、しゅんって名前です。本名だから、きみって名前でもよかったんだけど。
頭の中に、甲高い声が反芻する。そばにおいた赤い炎を見つめた。
そして、筆を執り、勇者の名前を記した。自分の心がずっと、肯定してきたことだ。
「……。」
本文はすらすらと思いついた。書き上げて筆から手を離すと、炎の入った瓶を手に取った。この炎を持っている理由も、この筆を拾った理由も、奇妙な運命だと思いながら、疑いさえ忘れて、その炎を紙に落とした。
燃える紙は灰を落とさず、炎は机に移らず、ただ使命を全うするかの如く、静かにそれだけを溶かす。
赤い揺らめきのなか、知っているその現象をゆるやかに理解して、壮年は呟いた。
「──すまない」
あとがき
酒って呑むの難しくない?
炭酸だから胃を圧迫するし、消毒液みたいなにおいするときもあるし……あぁ、そんなに関心がないんだわ。大人になったから飲んでいるだけみたいな。
ゼリューやルーマはプロの大人をしているのだろうか。というのは、子どもと大人とかいう、顔立ちや心という曖昧な観点からの区別を問うおぞましい疑問だ。いま初めて年齢という単位が便利だと思った。しかし年齢は私を置いてけぼりにしてしまうから、今の私は「大人になってしまった」と表すほかない。大人になった以上、その表現の外でそれについて考え続けなくてはならない。
酒って呑むの難しくない?