1
赤く染まった葉が風に追われ、道を埋めていく。一週間前より、少し静かだ。カフェですごすにはちょうどいい。
「ねえ、メリーってば。聞いてるの?」
その声で、焦点が室内へと戻る。ガラス越しの蓮子が、コップの縁を指で叩いている。
「二週間も連絡しなかったのは謝るから……ちょっと論文をまとめる作業がね」
そう言ってコーヒーを口に運ぶ彼女の目には、まだ少しくまが見える。こちらの顔を伺いつつ、一定のリズムでなんども指をこすり合わせている。爪の間にはインクが付いていて、几帳面な蓮子らしくない。
「……はあ、ほんとに心配だったのよ。一人で異界の調査に行って、神隠しにでもあったのかって」
「悪かったわ。でも私がメリーを置いて調査に行くわけないでしょ?」
真っ直ぐな言葉に、目が行き所を失う。謝られているのはこちらなのに、なぜか胸がささくれだつ。行き場のない何かが、カップへと手を伸ばさせた。
「あつっ……」
「ちょっと大丈夫? せっかちなんだから」
急いで冷たい水を口へ運ぶ。水の冷たさが、胸の中を通り抜けるのを感じる。息を吐くとざわめきが出ていったようで、ようやく冷静になってきた気がする。
さっきから、まるで子供のよう。どうも落ち着かない。店内の静けさのせいじゃない。
「ちなみに、どんな論文を?」
そう聞いた彼女は、待ってましたと言わんばかりにカバンから封筒を取り出し、私に手渡してくる。
「よくぞ聞いてくれました。どうぞどうぞ」
「手書きの論文……さすが古典論回帰の懐古主義ね」
「こっちのほうが筆が進むのよ」
タイトルは、『意思情報場における基底状態と素励起スペクトル』。なにこれ。“意思結合定数”とか“情報質量”とか……そんな言葉、聞いたこともない。
「……ほんと、蓮子の頭の中ってどうなってるのかしら。こんなの理論って言えるの? バカと天才は紙一重って言うけれど……」
「失礼ね。私は天才のほうよ」
「発言がバカっぽい」
紙をめくってもなんの情報も入ってこない。もはや呪文にしか見えない。
「私にはさっぱりなんだけど」
「お望みならば著者自ら解説するけど?」
「結構です」
そんなー、と残念がっているが、蓮子に物理の話をふると長いのだ。
ひとしきり歓談すると、しばらく沈黙が落ちる。蓮子はコーヒーをいっぱい口に含むと、思い出したように笑う。
「そういえば、AI祈願って知ってる?」
聞き覚えのない言葉に、閉口していると彼女が続ける。
「特定のタグをつけてSNSに投稿すると、AIが祝詞を読んでくれるんだって。なんでも本当に願いが叶った人もいるらしいわ」
頭に思い浮かぶのは、巫女のアバターがひたすら口から祝言を垂れ流す姿。二十四時間休みなく働き続けて、少々グロッキーだ。
「いったい誰に届けてくれるのかしら」
「きっと誰にも届いてないわね。この世界、とうの昔に科学が神様を排除してしまったもの」
「うーん、祈りの不法投棄? 都合のいいときだけ祈るくせに、作法も品位もないのね」
「ま、信仰を忘れたらそんなもんよね。それでも行為は残り続けるのよ」
「皮肉なことね」
「でも、人間らしい。それでも、誰かが聞いていると思いたいのよ。それこそ、サーバーの向こうの光った箱でも」
紅茶の香りは、とうにしていない。
「しかし、神もAIも、虚構なのには変わりないわ」
すっかり冷めた紅茶を飲み干す。その冷たさが、不思議とよく体に染みた。
2
冷えた蛍光灯の光が、紙の上に落ちる。まるで白衣を纏ったかのような、人工的な冷光だ。白いはずのページがどこか灰色に見える。それでも、この冷たさが、勉学へ向き合うための鎮静剤のように感じられた。
チャイムで音が途切れる。教授に目をやると、振り向いて「今日はここまで」と宣言して講義が終了した。教室内には徐々にざわめきが広がり、私もだんだんとぼんやりした意識が戻ってくるのを感じる。今日の予定はこれで終わりだ。
帰ろうと荷物をまとめていると、どこかの席で「AI祈願」なんて言葉が耳に入った。ああ、そういえば――あのカフェで、蓮子がそんな話をしていた。
「あ、メリー! まだ居て良かった!」
あんまりにも大きな声で私を呼ぶものだから、講義室の視線が一斉に突き刺さる。知らないふりをしたい。ただでさえ秘封倶楽部の活動のせいで、学内ではとっくに腫物扱いだというのに。
「ちょっとおもしろいことが起きたのよ! このあとあなたの家に行ってもいい?」
「いいけど……なにも直接教室に来なくてもいいじゃない」
「はやくメリーに伝えたくていてもたってもいられなかったのよ」
「……そう。ああ、帰る前にスーパーによってもいい?」
「じゃあ今日はメリーの手作り料理期待してもいい?」
「ちょっと。……あなたにも手伝ってもらうからね」
「もっちろん」
先に歩く彼女の背中を、私は追った。
*
「蓮子、お皿用意してくれるかしら」
「えーと、これでいい?」
鍋の中で白いソースがとろりと揺れる。泡が立っては消えていく。火加減を弱めた。時間が、鍋の中だけゆっくり流れているみたいだった。
結局、私だけで作る羽目になった。蓮子は横からニコニコ見ているだけ。そういえば――昔、誰かと、こうして料理をしたことがあったかしら。
香りが昔の記憶を刺激している。
蓮子の輪郭がふっと滲んで、一瞬だけ、誰かの影に変わった気がした。
すぐに、その思考を振り払った。記憶なんて、蓮子と出会ってからばかりなのだ。
お皿にクリームシチューを盛り付け、テーブルへと運んだ。テーブルには、すでにバゲットを用意してある。
「いただきます」
「……いただきます」
一口。おいしい、と思う。たぶん。
バゲットを指で裂く。端を指先でほぐしながら、目線だけが彼女の反応を探していた。
「うん、おいしいわ。さすがメリーね」
「そう?……ならよかった」
その言葉で肩の力が少し抜けた。味は、さっきよりも柔らかい気がした。
*
食べ終わると、蓮子が片付けを申し出たので彼女にまかせて、ぼーっと本を読むことにした。
めくるたび、画面のざらついた感覚が指を伝わる。1ページ進んで、また1ページ戻ってを繰り返してしまう。ページをめくる指先の向こうに、蓮子の白い手首がちらりと映る。
……お皿を洗う蓮子の姿は新鮮だ。もし彼女とシェアハウスでもすれば、こういう姿も見慣れるのかな。毎日交代交代で料理とかお皿洗いを当番にして……だめね。蓮子に料理を任せたら、きっと三日くらいカレーを食べ続ける羽目になる。
本に目を落とすと、10ページも進んでいた。
「終わったわよ。……ねえ、さっきからこっちみてどうかしたの?」
「……料理より片付けのほうが似合うなって」
「それ褒めてる? けなしてる?」
「さあ、どっちかしら」
蓮子は苦笑いを浮かべ、肩をすくめる。その姿に、私もくすっと笑いが出る。
「お茶を入れるわ。こんな時間だし……コーヒーじゃなくていいわよね?」
「うん、メリーがいつも飲んでるものがいいわ」
「蓮子の口に合うかわからないわよ」
「それでもいいの」
蓮子は、知識より体験を重視するところがある。直接、五感で感じるのが重要らしい。でも、その飢えが真っ直ぐすぎてときおり不安になる。
紅茶が蒸れるのを待つ。特に会話もなく、ただ静かに時間が落ちていく沈黙。嫌いじゃない。
そろそろと思い、紅茶をカップに注ぎ、口を開いた。
「それで、本題は何なの?」
「ああそうだったわね。このまま食後の休憩タイムに入るところだったわ」
その言い方には、まだ話す気があるのか、ないのか判別しづらい曖昧さがあった。
蓮子はまくった袖を戻し、頬杖をつきながら口を開く。
「昨晩ね、テストのことをすっかり忘れてて……夜遅くまで教科書とにらめっこしてたの」
「ちょうど丑三つ時のあたりね。そろそろ寝ないと明日のテストに起きられない、けれど後少し……って思ってたのよ」
蓮子は声を落とし、当時の空気をなぞるように話す。
「ほら、この前メリーにしたAI祈願の話、ほんとに叶った人もいるって言ったでしょ? 試しに書いてみたの。『時間が止まればいいのに!』って」
軽い調子で笑う。けれど、その笑いはどこか空々しい。
「送信してすぐ、なんだか頭が冴えちゃって。あほらしくなって寝たんだけどね。
朝、目覚ましが鳴らなくて、時計を見たら三時二十三分で止まってたのよ」
「つまり、蓮子が間抜けだって話?」
「違うの!」
少し身を乗り出し、バッグをごそごそと漁る。
「見て、これ」
テーブルに置かれた銀色の時計。照明の光が縁を跳ねた。
「ほら、投稿した時間と一致しているのよ。投稿した瞬間に寿命がきた? いいえ、この時計を買ってからまだ二年も経ってない。クォーツ振動子の平均寿命は十年以上、初期不良率だってせいぜい〇・〇数%。それが、たまたまその瞬間に壊れる確率なんて……無視できるくらい小さいわ」
蓮子の理知的な瞳が、真っすぐ私を貫く。
「だからメリーに見せたらなにかわかるかもって」
私は時計に目を落とす。秒針は止まったまま。照明の縁が歪み、光が鼓動する。
「嫌な感じね」
秒針は止まっている。なのに、規則正しい音が耳の奥で鳴っている気がした。
……胸の鼓動と重なり、やがて聞こえなくなった。ただ、この冷たい銀色の円盤が、私たち二人をどこかに引きずりこもうとしているように見えた。
「なにか視えた?」
「……ええ、たぶん残影みたいなものね」
「やっぱり!」
椅子を蹴るように立ち上がる蓮子。その瞳は子供のように輝いている。
「メリー、調べてみましょう。願いのAI――もしかしたら本当に“何か”がいるかもしれないわ!」
私はため息をつく。
本当に、彼女は止まることを知らない。それでも、せめて隣にいられるようにと、祈るしかなかった。