学院の裏手、新寮のロビーにて。
少し時間が余ったので、おれはテーブルに寮の設備の整備マニュアルを広げて、これの清書を行っていた。
別に、誰かが見て困るものではない。
それはそれとして、ヌシと呼ばれたあの教授の字は汚すぎたのである。
加えて、おれが気づいたいくつかの点についても記入していく。
あの教授、他人に読ませる気がなかったのか、普通に機工学の専門用語とか使いまくっていた。
仕方がないから、そのあたりも平易な言葉に直していく。
下手したら、今後おれたちの代が卒業した後も使うことになるものだ。
まあそのときには誰かが改訂しているだろうけど……。
それはそれとして、いまのうちに丁寧に書いておくにこしたことはない。
職場にろくなマニュアルがなくて、職人たちのカンだけでセッティングをしているとか、新人にとって悪夢だからね……。
そういう職場に限って、自分たちのやり方がすべてと考えていたりするのだ。
そこに凝り固まって他所のやり方は絶対に受け入れない、頭の固い奴らが団結していたりね。
うちの工場は、そのへんに関してだいぶ楽だった。
なにせ社長の息子であるおれが幼い頃から出入りしていたおかげで、顔なじみだった職人さんたちが、おれの意見はある程度取り入れてくれたのだ。
それでも、これがまったくの他人だったら、はたしてどうだったか……という感じの場面を一度ならず見てきた。
そんなわけで。
マニュアルというのは重要なのだ。
嘘マニュアルとか裏マニュアルみたいなものがはびこる状況は、健全とは言えないのだ。
そんな思いでもって、寮に用意されていた新品の上質紙――羊皮紙ではなく、王宮の書類に使われるような、綺麗な紙――に羽根ペンで文字を記していく。
なるべく誰にでもわかるように考慮しながら。
ふと。
そんなおれの目の前を、黄色い蝶がよぎった。
顔をあげる。
いつの間にか、テーブルを挟んで反対側に、ひとりの少女が立っていた。
少女と目が合う。
少し背が伸びたようだ。
あのときと違い学院の制服を身にまとった少女は、両手を後ろにまわして、はにかんだ笑みを浮かべた。
「久しぶりですね」
「ああ、一年ぶり」
「なにをしているのですか」
「寮の設備のマニュアルを清書している。さっきいきなり、責任者にさせられてね」
「あら、たいへんですね」
「女子寮の方はきみに任せる」
「ちょっと待ちなさい!」
おっと、口調が変わったな。
慌てた様子で、ツカツカ歩み寄って来る少女に、おれはにっこりと笑いかけてやる。
「おれが責任者になるのは、生徒会長さまのご命令だ。さっきも言った通り、おれもさっき知った」
「殿下の……。それは、仕方がない、ですわね。でもなぜ、わたくしまで……」
厳密には、生徒会長さまは彼女のことまで言ってはいないわけだが。
あのヌシとかいう教授の話から察するに、彼女が巻き込まれることは最初から決まっていたに違いない。
「諦めよう。おれはもう諦めた。それに、実地でいろいろ学ぶチャンスでもある」
「技術系のあなたと違って、わたくしの専門は魔法学理論系なのですが……」
「若いころは専門を決める前に広く浅く学んだ方がいい。おれは意識して、他の分野にも手を出している」
「あなた、年寄りみたいなことをおっしゃるのね」
「なんでも学びと思っておけば、理不尽にも腹が立たない――いややっぱり少し腹が立つな、あのハゲの教授め」
「誰のこと――ああ、いえ、なんとなくわかりました。ですが、殿方の頭髪についてはデリケートな話題だと伺いましたわ」
ああ、ヌシのこと知ってるんだ。
聞けば彼女は、おれと違ってすでに何度か研究棟に出入りしていたらしい。
使い魔の魂についての研究は、いろいろと倫理的な制約があるため、国が認めた一部の場所でしか実験ができないらしい。
その数少ない場所のひとつが、この学院の研究棟なのである。
「少なくとも、研究に関しては素晴らしい方です。陰口は感心いたしませんわ」
「それは、たしかにそうだ。今度から正面きって罵倒することにするね」
「それもどうなのでしょう……。いえ、殿方同士の距離感は、わたくしたち女性同士のそれとはまた違うと聞きます。これ以上は野暮なのでしょうか」
「そこまで真面目に捉えないで欲しいかな。わりと適当なことを思うまま口に出しているだけだから」
「そうなのですね。わたくしのまわりの方々は、よく考えて発言する方ばかりで、つい言葉の裏まで読みとる癖が……」
いま、おれのこと裏表ない馬鹿だって言った?
事実だから仕方がないね。
「ポジティブに考えよう。おれと話すときは、もっと肩のちからを抜いていい、と」
「そういたしますわ。あなたと話したいことは、たくさんあるのです」
「おれもだ。一年間、いろいろ考えてきた。これから入学式を放っておいて、どこかで語り合うか?」
「魅力的な提案ですが、さすがにこっぴどく叱られますわ……」
まあ、そうだな。
おれも兄上に叱られる。
いや、あるいは悲しい顔になって、「おまえは本当に自由だね」とか言い出すだろうか。
そっちの方が心にくるな……うん、初日からフケるのはやめようやめよう。
「これから時間はたくさんありますわ」
「そうだな、たぶんおれは普通に学院に通って卒業するルートには入らないが……」
「わたくしもです。そのあたりも、後ほど話し合いましょう」
優秀な学院生であればスキップするルートが複数ある、と聞いていた。
そもそも、おれはすでに、研究棟のヌシであるあの教授から基礎学力の単位をすべて免除すると約束されている。
たぶん、目の前の少女も同じだろう。
そのぶん、余った時間で研究棟に来い、というわけだ。
この研究棟での研究も、しかるべきレポートや論文の提出で単位に変換されるらしい。
そういうわけで、入学する前の段階で、おれはもうだいたい卒業までの条件が整ってしまっていたりする。
あとは一部の実技とか、歴史学や礼儀作法といった貴族の基礎知識か。
その中でも必修はごく一部なので、いろいろ手を尽くせば一年で卒業することだって、できなくはない。
だが、そうはしない。
学院生である間は、横や上下――つまり王族や平民、対立する派閥の人々――との交流がある程度、自由に許可されるという伝統があるからだ。
おれと目の前の少女の関係も、そのひとつである。
別の魔爵家の者と気軽に交流できる、またとない機会を逃す手はなかった。
「改めて、よろしくお願いいたしますわ」
「ああ、よろしく頼む」
だからおれたちは、どちらからともなく手を伸ばして握手する。
互いの掌の、いまだけのぬくもりを享受する。
これが、ひとときの逢瀬と理解していた。
学院を出るまでの間だけの、大切な大切な時間であると。
あの一年前のときから、ずっと待っていたのだ。
それはたぶん、彼女も同じ気持ちで――。
「ちょっ、あなたっ! 手がインクで真っ黒でしてよ!」
「あ、ごめん……さっきから羽根ペンを使っていたから」
「ああもうっ、これから入学式ですのに! 水場はどこです!」
「案内するよ。魔力を流すと水が出るタイプの水道なんだ」
「まあ、そのあたりも最新式ですのね」
「そもそも、この学院内では魔法が使えない者の使用は前提にされていないからね」
連れ立って、ロビー脇の通路へ向かう。
まだ少し怒った様子で、彼女はおれについてくる。
それから、しばしの後。
結局、完全にインクを落とす前に入学式の時間が来て、おれたちふたりは手にインクがついたまま入学式に出ることとなる。
会場に、ふたりで少し慌てて入ってきたおれたちふたりを見て――生徒会長や兄上を始めとした数名が、なにやら微笑ましいものを見るような目つきになっていたが……。
なにか誤解をしているなら、それはあとで解かねばならないだろう。
この関係は、色恋とは少し違うのだ。
たぶん、それを正確に言い表すなら――。
共犯関係、だろうか。
そんなおれたちの学院生としての生活が、いま始まる。
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