評価、感想、五字報告してくれた人達に感謝。
王都の地下深く、健全な市民が決して足を踏み入れることのない一角。そこには、人間の欲望が最も醜悪な形で煮詰められたような空間が存在した。
煉瓦造りの壁に染み付いた黴と、高価な香油、そして絶望の匂いが混じり合う大広間。秘密裏に開催される奴隷オークションの会場である。
今宵の主役は、国の重鎮であるゴドウィン宰相その人だった。
彼は玉座のような椅子に深く腰掛け、満足げに会場を見渡している。
彼の周りには、きらびやかな絹の服を纏いながらも、その瞳に獣と同じ昏い光を宿した貴族たちがひしめいていた。
彼らはワイングラスを片手に、これから始まる倒錯的な見世物を待ちわび、下卑た笑い声を交わしている。
「今宵の『品』は格別だと聞いておりますぞ、宰相閣下」
「うむ。北方のエルフの生き残りだとか。耳の尖った小娘など、好事家の間では金貨百枚でも安い買い物よ」
やがて、会場の照明が中央の舞台に集中する。重々しい鉄の扉が開き、引きずり出されてきたのは、震える小さな影だった。
錆びついた鉄の檻に入れられた、まだ十歳にも満たないであろう少女。
銀色の髪、長く尖った耳、そして恐怖に濡れた翡翠の瞳が、彼女が噂の『品』であることを示していた。
「さあ皆様、今宵の目玉商品!清らかなる森の至宝、エルフの幼体でございます!この穢れなき美しさ、この希少価値!開始価格は金貨五十枚から!」
競売人の甲高い声が響くと同時に、貴族たちの目の色が変わる。欲望が剥き出しになり、次々と値札を釣り上げる声が飛び交った。
少女の運命が、ただの数字としてやり取りされていく。その狂騒は、もはや人の営みとは呼べない、何かの儀式のようだった。
誰もが、この悪夢が永遠に続くと信じて疑わなかった。
その瞬間までは。
突如、天が裂けるような轟音が鳴り響いた。
それは雷鳴でも地震でもない。
もっと直接的で、暴力的な破壊の音。全員が驚愕に見開いた目の先、会場の堅牢な石造りの天井が、蜘蛛の巣のように砕け散った。
「な、何事だッ!?」
「天井が…!」
悲鳴と怒号が交錯する中、天井の中央が巨大な質量によって陥没し、凄まじい量の粉塵と瓦礫を撒き散らしながら崩落した。
落下した瓦礫の塊は、舞台のすぐ脇にクレーターのような穴を穿ち、その衝撃波が燭台の炎を揺らめかせる。
粉塵が舞い、視界が白く染まる。咳き込む者、逃げ惑う者で、会場は一瞬にして阿鼻叫喚の地獄と化した。
やがて、ゆっくりと塵が晴れていく。そして、そこにいた誰もが息を呑んだ。
瓦礫と粉塵が作り出したクレーターの中心。そこに、片膝をつき、片手で地面を支える姿勢で、一つの人陰が着地していた。
まるで天から降ってきたかのような、ありえない登場の仕方だった。
人陰は全身を夜よりも深い黒衣で包み、その顔には、見る者に生理的な嫌悪感を抱かせる、不気味な山羊の仮面が被せられていた。
角は捻じくれ、目は虚ろな穴が開いているだけ。その仮面の下にあるはずの表情は、一切窺い知れない。
静寂。
先程までの狂騒が嘘のように、会場は水を打ったように静まり返った。落下物の衝撃音よりも、その存在が放つ異様な存在感の方が、人々の恐怖を強く掻き立てていた。
「あの羊頭はッ、ただのこそ泥が、何故このような場所に!?」
「な、何者だ貴様は!」
最初に我に返ったのは、会場の警備を任されていた屈強な傭兵の一人だった。
彼は恐怖を振り払うように叫び、鞘から長剣を抜き放つ。それに呼応するように、十数名の護衛たちが一斉に武器を構え、山羊を取り囲んだ。
彼らは皆、血の匂いが染み付いた歴戦の強者。ただの盗賊や暗殺者とは格が違う。
だが、山羊は、ゆっくりと立ち上がると、傭兵たちの殺気など意にも介さない様子で、首を軽くこきりと鳴らしただけだった。
その仕草には、何の感情も読み取れない。ただ、これから行う作業の前の、準備運動のように見えた。
「殺せッ!そいつを八つ裂きにしろ!」
「儂の帳簿を盗んだのもそやつだ!早うひっ捕らえよ!!」
どこかの貴族が金切り声を上げたのを合図に、包囲していた傭兵たちが雄叫びと共に殺到した。四方八方から、研ぎ澄まされた刃が、山羊の命を刈り取らんと迫る。
最初に斬りかかったのは、大斧を携えた巨漢だった。彼の振り下ろす一撃は、オークの首すら一刀両断にする威力を持つ。しかし、山羊はそれを紙一重で身を捻って回避した。空を切った斧が、石の床に深々と突き刺さる。
「不気味なホビットが!女か男か知らんが死んじまいな!!」
隙が生まれた。その瞬間を見逃さず、背後から別の傭兵が突きを繰り出す。
だが、山羊は振り返りもせず、ただ左腕を後ろに振るった。ゴッ、と鈍い音が響く。
傭兵の鎧に守られた胸の中心に肘がめり込み、彼の巨体はありえない勢いで吹き飛ばされた。壁に叩きつけられた傭兵は、一度も呻き声を上げることなく、崩れ落ちる。
「馬鹿な…!」
仲間の一人が一撃で沈黙させられたのを見て、傭兵たちの顔に初めて動揺の色が浮かぶ。彼らの連携は完璧なはずだった。だが、この男の動きは、彼らの常識を遥かに超えていた。
一人の剣士が、流麗な剣技で男の首筋を狙う。
しかし、その刃が届く寸前、山羊の姿がブレた。剣士が感じたのは、側頭部への強烈な衝撃。回し蹴りだった。視界が明滅し、自分が何をされたのか理解する前に、彼の意識は闇に落ちた。
魔法使いが距離を取り、詠唱を始める。
「赤き煉獄の息吹よ、我が敵を焼き尽くせ――ファイアボール!」
灼熱の火球が、仮面の男目掛けて放たれる。しかし、男はそれを避ける素振りも見せず、ただ右腕を前に突き出した。
掌で火球を受け止める、などという芸当ではない。火球が衝突する直前、パンッ、と空気が破裂するような乾いた音が響いた。不可視の衝撃波が火球を打ち砕き、爆炎が四方へと霧散する。
「なっ…!?」
魔法をかき消された詠唱者が驚愕に目を見開く。その一瞬の隙が、命取りだった。山羊は床を蹴り、亜音速の踏み込みで一気に距離を詰める。
魔法使いの目には、黒い影が瞬間移動したようにしか見えなかった。喉元に突きつけられた無慈悲な掌底。声なき絶叫と共に、魔法使いの体は宙を舞った。
一人、また一人と、手練れの護衛たちがまるで赤子のように無力化されていく。
山羊は一切の声を発しない。武器も使わない。ただ、己の肉体のみを使い、効率的に、そして冷徹に、立ち塞がる者すべてを沈黙させていく。
その動きは、鍛え上げられた武術家のそれでありながら、どこか人間離れした、機械的な精密さを感じさせた。一撃が重く、一歩が速い。ある意味ではそれだけとも言える、他の特別な何かが一切存在していなかった。
貴族たちは、目の前で繰り広げられる光景が信じられず、ただ震えていた。あれは人間ではない。自分たちの罪を裁くために現れた、地獄の番人か何かではないのか。
護衛たちが全滅するのに、五分とかからなかった。
広間には、倒れ伏して呻く傭兵たちと、恐怖に腰を抜かした貴族たちだけが残される。
「ひ、ひぃぃ…!」
ゴドウィン宰相は、玉座から転げ落ちるようにして、後ずさる。
彼の額には脂汗が浮かび、その顔は恐怖で蒼白になっていた。彼は最後の切り札に望みを託した。
「や、やれ!『鬼獣』!そいつを殺せ!殺せば自由にしてやる!」
宰相の言葉に、舞台の影から巨大な人影がぬらりと姿を現した。
身長は二メートルを優に超え、その全身は鋼のような筋肉で覆われている。首には呪印の刻まれた首輪。
彼は闘技場で百人斬りを達成し、宰相が買い取った最強の闘技奴隷、『鬼獣』だった。その両腕には、巨大な鉄塊が嵌められている。
鬼獣は感情のない瞳で、山羊を見据えた。
彼はこれまで数え切れないほどの命を奪ってきた。恐怖という感情は、とうの昔に失くしている。だが、目の前の存在からは、これまで対峙してきたどの生物とも違う、異質な圧力を感じていた。
ゴアッ、と獣のような咆哮を上げ、鬼獣が突進する。その一歩一歩が地を揺らし、さながら暴走する城壁のようだ。
振りかぶられた鉄塊の腕が、凄まじい風切り音と共に山羊に叩きつけられる。
しかし、それを正面から受け止めようとはしなかった。
鬼獣の剛腕が振り下ろされる瞬間、その懐に滑るように潜り込む。そして、がら空きになった脇腹に、短く、鋭い拳を叩き込んだ。
ズン、と地響きのような衝撃が鬼獣の巨体を貫き浮き上げる。だが、彼は怯まない。常人ならば内臓が破裂しているであろう一撃を、その異常な肉体で耐えきったのだ。
彼は獰猛な笑みを浮かべ、カウンターの裏拳を放つ。
山羊はそれを腕でガードする。ガキィッ!と、骨…というより金属が軋むような嫌な音が響いた。初めて、男の動きが止まる。
「効いたか!」
好機と見た貴族の一人が叫ぶ。しかし、それは甘い見通しだった。
山羊の男は、ガードした腕をだらりと下げながらも、全く動じる様子がない。
むしろ、その仮面の奥の瞳が、獲物を観察するように細められた気がした。
男は、わざと攻撃を受け、相手の力量を測っていたのだ。
ここからが、本番だった。
山羊の構えが変わる。それまでの静かな立ち姿から一転、全身がバネのようにしなり、いつ爆発してもおかしくないほどのエネルギーを内包しているのが見て取れた。
鬼獣が再び突進する。だが、今度は先程のように簡単にはいかない。山羊の姿が残像を残して揺らめき、鬼獣の剛腕はことごとく空を切った。
山羊は鬼獣の猛攻を捌きながら、的確に急所へと打撃を叩き込んでいく。
膝、肘、鳩尾、首筋。一撃は軽いが、確実に鬼獣の体力を削り、動きを鈍らせていく。
「グ、オオオオオッ!」
苛立ちと焦りから、鬼獣が最後の力を振り絞り、両腕の鉄塊を正面で打ち合わせる大技を繰り出す。
衝撃波で周囲の者すべてを吹き飛ばす、彼の奥の手だった。
その瞬間、山羊の動きが完全に止まった。
彼は、回避不能の衝撃波を前に、ただ静かに右の拳を握りしめ、腰を深く落とした。
そして、鬼獣の鉄塊が衝突する、まさにその刹那。
――突き。
あまりにもシンプルで、あまりにも速い、ただの正拳突き。
しかし、その拳が突き出された瞬間、周囲の空気が歪んだ。音が、消えた。
鬼獣の視界の中で、山羊の仮面を被った男の拳が、スローモーションのように迫ってくる。そして、自分の鉄塊がぶつかり合うよりも先に、その拳が自分の胸の中心に到達した。
衝撃は、なかった。
ただ、何かが体内を通り抜けていったような、奇妙な感覚。
次の瞬間、鬼獣の背中側の壁が、円形に、綺麗に、大爆発を起こした。
彼の巨体を突き抜けた不可視の衝撃波が、分厚い石壁を粉々に砕いた。
鬼獣は、信じられないものを見るように、自身の胸に視線を落とした。
そこには、拳の形をした痣が一つあるだけ。だが、彼の内側は、既に戻しようのないほどに破壊され尽くしていた。
がくり、と膝が折れ、鋼の巨体は糸が切れた人形のように、ゆっくりと前方に倒れ伏した。最後まで、彼は自分が何によって敗れたのか、理解できなかっただろう。
最強の切り札が沈黙し、会場は再び死のような静寂に包まれた。
山羊は、倒れた鬼獣に一瞥もくれず、ゆっくりと舞台上の檻へと歩みを進める。
「く、来るな!化け物め!」
貴族たちが蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。男は彼らを追わない。まるで、道端の石ころほどにも興味がないかのように。
彼は檻の前に立つと、頑丈な鉄の錠前に手をかけた。そして、何の苦もなく、それをぐにゃりと捻り、引きちぎった。
ギィ、と重い音を立てて檻の扉が開かれる。中にいたエルフの少女は、恐怖のあまり声も出せず、ただ震えていた。
山羊は、少女には一切触れようとしない。ただ、放心状態のゴドウィン宰相の懐に無造作に手を突っ込むと、そこから羊皮紙の束――奴隷売買の顧客名簿と裏帳簿を抜き取った。
それを広げて眺めた後、懐に入れる。
山羊は黒衣を翻し、自分がやってきた天井の大穴へと向かう。そして、何のためらいもなく跳躍した。
信じられないほどの跳躍力で瓦礫の山を飛び越え、あっという間に夜の闇の中へと消えていった。
残されたのは、破壊し尽くされた会場、無様に倒れる護衛と余波でダウンした数名の貴族たち、そして、解放されたものの、何が起きたのか理解できずに呆然と立ち尽くす奴隷たちだけだった。
その後、騎士団が駆けつけた時、現場には犯人の手掛かり一つ残されていなかったという。
解放されたエルフの少女が、ただ一言「山羊」…と証言した。
◇◇◇
カイル視点。
困ったことになった。実に困った。
私のの地道な夜なべ活動、盗人の成果が、どうやら思った以上に出てしまっているらしい。
本来のシナリオでは、この国の貴族社会は腐敗の限りを尽くし、その膿が派手に噴出したところで断罪イベント、からの私の留置所、からの流刑コンボ。
そして落ち着いたスローライフ開拓生活が待っているはずだった。
だというのに、どうだ。
最近では、私をワッショイしてくれている神輿仲間たちが妙に大人しい。
いや、大人しくして貰うためだったから、それはいいんだが……ちょっと大人し過ぎ。
酒の席で交わされる悪事の自慢話はめっきり減って、代わりに「最近、物騒になった」「戸締りを厳重にしないと」などと、まるで善良な市民みたいな会話する始末。
原因は分かっている。まぁ…うん、私しかいない…。
不正の証拠をピンポイントで盗み出している以外に理由がない。
貴族たちは恐怖し、次は我が身かと、こぞって証拠隠滅に走り始めている。帳簿を燃やしたり、ご禁制な品をどこかへ移したり。
これは非常に、非常に…まずい。
流刑にまで至るための決定的な証拠がなくなってしまう。
回収済みの証拠はあるが、もしもの可能性もある。
私はあくまで「腐敗貴族に担がれた愚かな第二王子」として裁かれなければならないのだ。
「若気の至り」「奸臣に騙された可哀想な王子」みたいな同票が集まって、減刑、なんてことになったら目も当てられない。
私が欲しいのは、同情でも減刑でもない。確実な有罪判決と、辺境への流刑チケットなのだ。
保険が必要だ。私が、あの腐敗の輪に確実に加わっていたという、誰にも覆すことのできない証拠。それも、隠滅する前に、私自身の手で確保しなければ。
よくない、よくないよぉ…。
勉強している内に知ったが、この世界には魔大陸やら始祖竜とか、一目でヤバいとわかる言葉がチラホラ出てくる。
無理ですわぁ、流れ変えるとか怖くて絶対できん。
加護もない一般戦闘しかできない民間人は開拓地にでも引き込もっているべきだ、絶対インフレするじゃん、無理だって。
そんな折、最高の情報が舞い込んできた。
ゴドウィン宰相主催、極秘の奴隷オークション。
しかも今回の目玉は希少種のエルフだという。これだ。これ以上の悪事の祭典はない。
ここには、貴族たちの欲望と金の流れを示す最重要証拠――顧客名簿と裏帳簿が必ず存在する。
その上、テコンダー◯風演説で旗を上げた第二王子派の貴族はほとんど参加している。
これを手に入れ、そこに私自身の名前を名簿に書き加えれば、完璧な保険が出来上がる。
ついでに、もう一つ。最近の悩みも解決できるかもしれない。
部屋での鍛錬は欠かさずやっているが…対人戦闘の経験がほとんどないという問題。
いや、前世で飽きるくらいやってるけど、今世ではほぼ引き篭もり同然だから、流石に危機感を覚える。
未だに魔物に殺されかかるし。多種多様な種族や魔法で連携してくる人間との戦い方は、実践でしか学べない。
奴隷オークションの会場には、ゴドウィンが雇った腕利きの傭兵たちがうじゃうじゃしてて対人戦の相手としては理想的でもあった。
そしてもう一つ、重要な目的。
空気摩擦から文明人としてのプライドと尊厳を守るための訓練が絶対に必要であった。
三半規管がイカれる音速機動が出来るまで鍛えたはいいが…その……燃えるんですよね、服が。
一度逃走する時に全力疾走したんだが…その時に全身の服が空気摩擦にやられて全焼、おかげで夜の街を全裸で走って自室まで帰る羽目になったという…。
私はマゾだが、露出系マゾじゃない。いい歳した男が戦闘中に全裸とか羞恥で死ぬわ。
亜音速と音速の間、瞬間最高速度は上限マッハ2。体感で理解出来た、恐らくこれが私が文明人としての誇りを守るためのライン。
今回はその確認テストも兼ねていた訳だが……結果として上手くいった。
そんなこんなで、色々と理由があって会場にダイナミックエントリーして暴れた訳だが……周りを見渡すと死屍累々、くッ。いや…こんなはずでは…。
一部の貴族が流れ弾で完全に伸びている。飛び込む前に騎士団に通報しておいたから後少しで突入してくというのに……宰相を含めた他は全員猛スピードで逃げていったから捕まらないだろうが、倒れ込んでいる貴族は無理そうだ。
シナリオ通りにしようとしているだけなのに…どんどんズレていっているような。
我ら第二王子派の貴族がなんか凄い勢いで減ってる気がしてならない…。
だ、大丈夫だ…きっとアレがある。
原作の流れに引き戻す究極の運命パワーがあるはずだ。あの数々の転生憑依系悪役令嬢を苦しめた世界の修正力がある、きっとある。
なんか、最近なんとかの山羊とか異名がついたみたいだけど、大丈夫……っすよね?大丈夫っすよね、世界さん?
◇◇◇
ジュリアス視点。
ジュリアス・フォン・パリスタンは、執務室の椅子に深く身を沈め、目の前に積まれた報告書の山を無表情で見つめていた。
内容は一つ――先日、王都の地下で起こった大規模な騒乱事件について。公式には「非合法な集会に対する騎士団の急襲」とされているが、その実態は全く異なる。
『腐肉喰らいの山羊』。
また、あの謎の存在の仕業だった。報告によれば、現場はまるで小規模な戦争でもあったかのように破壊し尽くされ、捕らえられたのは、気を失っていた末端貴族のみ。
彼らは口を揃えて「何も知らない」「何が起きたか分からない」と繰り返すばかりで、主催者はおろか、他の参加者についての有力な情報は一切得られていない。
この大規模な奴隷オークションを取り仕切ったであろう黒幕の名など、欠片も出てこなかった。
ジュリアスは指先でこめかみを軽く押さえた。
苛立ちではない。自身の思考が、弟という存在によって根底から揺さぶられていることへの、静かな眩暈だ。
『山羊』の正体がカイルであることに、もはや疑いの余地はなかった。
根拠と呼べるものは薄く、城の者に山羊が弟だと信じさせることも出来ない、証拠もない、だが私の弟であることは直感で理解出来ていた。
問題は、その行動原理だ。なぜカイルは、自らが旗頭となっているはずの第二王子派の貴族たちが集う場所を、自ら潰すような真似をしたのか。
これまでの行動からカイルが王国の腐敗を集める釣り餌として自身を餌にしていると結論づけた。
だが、そうなると何故今この瞬間に、大々的に動いたのかが理解できない。
匿名で届けられる不正の証拠、それらを元に悪政を正し、私の地位と権力は以前より遥かに盤石なものとなり初めている。
今、これほど目立つ動きをする理由はない、はずだ。
脳裏に、思考が巡り始める。
今回の件、単なる見せしめや内部粛清にしては、手が込みすぎている。
何故会場にまでわざわざ乗り込んだ。潰すだけなら、何故これまでと同じように証拠を送ってこない?
無意味な行動に見えて、その実、極めて合理的な目的が隠されているはずだ。弟は、そういう珍獣だ。
「恐らく会場の中には、この国の腐敗の中枢を担う者達も相当数いたはずだ、それを何故敢えて逃がしたのか…。不足の自体による失敗、それとも……――ッ。成る程。そういうことか」
(失敗ではない。むしろ、計画通り…か)
私は、捕らえられた貴族たちのリストをもう一度見返す。
全員が、弟カイルを担ぐ派閥に名を連ねてはいるが、その中でも特に影響力がなく、利権の規模も小さい者ばかり。使い捨てにするには、まさに最適な駒だ。
一つの答えが、パズルのピースが嵌まるように浮かび上がった。
今回も私の息の掛かった騎士の元に匿名で不正の証拠を送りつけ、派閥内の貴族を潰させていたのは私の派閥を盤石にし、腐敗を抑制する類のものと考えていたが――今回のこれは全く別種の計略だ。
カイルが盗みに入る貴族は、王家といえど侮れない権威を持つ家紋であり、不正行為を率先して主導する腐敗の中間層。届けられる証拠には腐敗を根本まで断ち切られるよう全ての情報が揃えられていた。
仲介人から売人の末端まで、余さず根絶された、そう、余さずだ。…つまり何も残ってはいない。
そして今回多く捕縛された貴族達は、奴隷オークションに参加してたという罪状、そして小さいなりに溜まった余罪で捉えられている。言ってしまえばそれだけだ。度し難い悪事に対する関与、黒幕との繋がりは全く見つけられなかった。
本格的に調べてはいるが、恐らくは既に黒幕に痕跡もろとも消された後だろう。
つまり…今尚不正のパイプと取引のラインは生き続けている。
(これは…『権利』の再分配だ)
小物を排除すれば、彼らが独占していた旨味――特定の密輸ルート、裏帳簿の管理、非合法な取引の仲介役といった椅子が空く。
カイルは、その空いた席を、より価値のある駒で埋めようとしているのだ。
誰で埋めるのか?派閥内の他の者か?いや、それでは内輪の勢力図が変わるだけで、全体の力は増強されない。弟が狙うのは、もっと大きな獲物だ。
(…中立派閥の、大物か)
この国には、私の派閥にも、そしてカイルの派閥にも属さず、老獪に立ち回ることで自らの地位と富を築いてきた、警戒心の強い腐敗貴族たちが存在する。
彼らは用心深く、既存の派閥争いに巻き込まれるのを嫌う。彼らを動かすには、よほど美味な餌を目の前にぶら下げる必要がある。
カイルがやっているのは、まさにそれだ。
自派閥の小物を「山羊」に襲わせ、その権益を奪い取る。そして、その空いた椅子を新たな「手土産」として、これまで手をこまねいていた中立派の大物たちに差し出す。「我が派閥に加われば、これだけの見返りがあるぞ」と。
カイルは切り捨てても問題ない有象無象を処理しつつ、回収した権利を纏め上げ中立派の貴族が喉を鳴らす程の旨味のある餌へと変えるつもりのようだ。
いかに警戒心が強かろうと、その本質は腐敗した貴族達とそう違いはない。喉を鳴らさずにはいられない富の源を無視出来るとは思えない。
なぜ、腐敗の中枢にいる大物は見逃されるのか?「山羊」の圧倒的な力をもってすれば、彼らの首を取ることなど造作もないはずだ。
(…彼らが『腐敗の中枢』だからか)
ジュリアスは、弟の計画の真の恐ろしさに気づき、思わず息を呑んだ。
カイルの裏にいる黒幕とその者に重宝される者達は、単なる利権と権利群がるハイエナではない。彼らこそが、この国の腐敗という宗教における「中枢」そのものなのだ。
彼らという巨大で邪悪な偶像が存在するからこそ、他の小物たちが利益を求めて集まってくる。
カイルの目的は、個々の腐敗貴族を叩き潰すことではない。この国に巣食う全ての毒虫を、一つの巣に集めること。
そのためには、最も巨大で、最も引力の強い「中枢」を、あえて無傷で残しておく必要があった。その者たちを中心に据えなければ、散らばった悪党どもを一箇所に集約させることはできない。
そして、この壮大な計画には、途方もない時間がかかる。一人、また一人と、警戒心の強い大物を引き込み、派閥を再編し、腐敗の純度を高めていく。
その長い集約作業の中で、中心核である者たちを失うわけにはいかないのだ。
(…自らの派閥を、巨大な濾過装置として機能させるつもりなのか。不純物(小物)を取り除き、より濃縮された悪意(大物)だけを選りすぐり、一つの器に注ぎ込んでいる…)
全てを理解した瞬間、ジュリアスの口元に、知らず笑みが浮かんでいた。
(…私は弟を、まだまだ見誤っていたようだ)
あの愚かな仮面の下に、これほどまでの知性が隠されていたとは。背筋を、冷や汗が一筋伝っていく。
だがそれは恐怖ではない。チェスの盤上で、自らの予想を遥かに超える一手に出会した時のような、純粋な戦慄と歓喜だった。
「カイル…いつからだ?いつから、こんな面白いことを考えていた。まったく、こんな面白い計画を練っておきながら兄に話さぬとは、薄情な弟だな。敢えて黒幕を伝えないのは、私への信頼故か、それとも挑戦か?」
窓の外の闇を見つめながら、ジュリアスは静かに問いかける。どちらの結末であろうと構わない。もはや、弟の行動をただ傍観するつもりはなかった。
「実に面白い弟を持ったものだ」
お前がその壮大な盤面を用意したというのなら、兄として、そしてこの国の第一王子として、私も私の一手を指させてもらおうか。
思考を切り替え、別の疑問へと意識を移す。一体、カイルはどうやって、この鉄壁の王城から誰にも気づかれずに抜け出しているのか。
王族の私室といえども、完全に自由というわけではない。特にカイルの部屋の周辺には、不正な魔法の使用を探知する結界が幾重にも張られている。
大規模な転移や、高度な隠密魔法を行使すれば、必ず記録に残るはずだ。
だが、「山羊」が活動したとされる夜、カイルの部屋から魔力が動いた形跡は一切ない。
その事実が導き出す答えは、一つしかなかった。
(…魔法を、使っていないのか?)
ジュリアスは、呆れに近い笑いが出た。
使っていないのではない。使う必要がないのだ。衛兵の巡回ルート、そして、数十メートルの城壁。それらすべてを、魔力に頼らず、純粋な身体能力だけで突破している。
(正気の沙汰ではない…。私の弟はやはり、とんでもない珍獣だ)
ジュリアスは自身の部屋で夜空を眺めながら薄く笑みをこぼす。
常にガラス玉のように無機質だった瞳が、今は星空を映し出しキラキラと輝いていた。
カイル「私はアメイジングな開拓者ライフを送るぞ兄上ーーー!!他は何も考えていない!!世界がやばくなっても兄上とヒロインで多分なんとかなる!多分そういう感じの物語だと思うから!!」(根拠無し
ジュリアス「FOOOO↑↑」(大興奮。瞳キラッ☆キラ☆