次回辺りでスカーレットが出てくる予定です。少し日が開くかもしれません。
書斎に響くのは、暖炉で爆ぜる薪の音と、私がグラスの中の琥珀を揺らす微かな音だけだった。静寂とは裏腹に、私の内心は煮え滾るような不快感で満ちていた。
「腐肉喰らいの山羊」、か。
忌々しい名だ。どこぞの馬の骨とも知れぬこそ泥が、私の庭を好き放題に荒らし回っている。
先日の奴隷オークション会場の襲撃は、単なる損失以上の「侮辱」であった。
私の権威、私の管理体制そのものに泥を塗られたのだ。
「…宰相閣下」
隠し扉から現れた侯爵の顔は、未だに恐怖と混乱の色が抜けきっていなかった。
「捕らえられた者たちの口は固く、我々に累が及ぶことはありますまい。しかし、派閥内の動揺は隠せませぬ。『山羊』は次に誰を狙うのかと、皆が疑心暗鬼に…」
「案ずるな、侯爵」
私は、苛立ちを顔に出すことなく、静かに応じた。動揺? 疑心暗鬼? 結構なことではないか。
恐怖は、支配をより強固にするための最良のスパイスだ。
私は机に広げられた一枚の羊皮紙に目を落とす。そこには、今回の騒動で派閥から「欠落」した者たちの名が記されていた。
いずれも、影響力の小さい男爵や子爵ばかり。
派閥の枝葉ではあるが、塵も積もれば山となる。彼らが握っていた権益の損失は、決して無視できるものではない。
だが、私はこのリストを見て、損失ではなく「可能性」を見出していた。
「侯爵。ここに名のある者たちが持っていた権益を、全て洗い出し、一つの目録にまとめさせろ。港での密輸の分け前、特定の街道の通行税の裏帳簿、ギルドへの口利きの権利…どんな些細なものでも構わん。全てだ」
「は、はあ…それは、一体何のために…?」
「より基盤を小さく固め、強大にするためだ」
私は、初めて口の端に笑みを浮かべた。
「我々の派閥は、少しばかり図体が大きくなりすぎた。小物が増えれば、それだけ秘密は漏れやすくなり、統制も取りにくくなる。今回の山羊の襲撃は、図らずも我々に、その贅肉を削ぎ落とす好機を与えてくれたのだ」
そうだ。これは災厄ではない。好機なのだ。
数日後、私の元には分厚い目録が届けられた。小物たちがそれぞれ持っていた、細かく、そしてバラバラだった利権の数々。一つ一つは取るに足らないが、これらを全て束ねれば、どうだ?
「…見事な『玉座』が出来上がったではないか」
私は満足げに頷いた。複数の小さな村から上がる裏税収、複数の商人から受け取る賄賂、複数の密輸ルートの分け前。それら全てを統合し、一つの巨大な権益へと作り変えたのだ。もはや、それは辺境の伯爵領一つに匹敵するほどの「うまみ」を持つ、新たな利権の塊となっていた。
これだけの餌を目の前にぶら下げれば、あの老獪な狐たちも、巣穴から出てこざるを得まい。
私の脳裏に浮かんでいたのは、マルケス侯爵の顔だった。彼は中立を気取り、どの派閥にも与しないことで、巧みに立ち回ってきた男だ。
その裏で、相当な私腹を肥やしていることも知っている。彼のような大物を引き込めれば、我が派閥の力は飛躍的に増大する。
夜会を装った密談の席で、マルケス侯爵は私の申し出に、案の定、用心深い表情を崩さなかった。
「宰相閣下のお誘いは光栄です。ですが、近頃は例の『山羊』の噂もございます。下手に動いて、災いを招くのは御免被りたい」
「ほう。では侯爵、あなたは『山羊』に怯え、これまで通り息を潜めてお暮らしになるか」
私は、用意していた目録をテーブルの上に滑らせた。
「ここに、新たな『椅子』がある。先の騒動で空席となった、いくつかの権利を統合し、より強固なものとして作り変えたものだ。この椅子に座る者は、我が派閥の庇護の下、これだけの富を手にすることができる」
マルケス侯爵の目が、目録に記された数字の羅列に釘付けになる。彼の喉が、ごくりと鳴るのが見えた。
「…しかし、カイル王子はまだまだ未熟。ジュリアス王子の方が、次期王としては有力なのでは?」
「だからこそ、好都合なのです」と、私は囁いた。
「ジュリアス王子は清廉潔白を気取る、頭の固い理想家だ。彼が王になれば、我々の『事業』はどうなるか。お分かりでしょう? その点、カイル王子は素直で、我々臣下の言葉によく耳を傾けてくださる。我々が『支えて』差し上げれば、いかようにもお導きできる」
そして、私は最後の楔を打ち込んだ。
「『山羊』の襲撃は、確かに脅威だ。だが、見方を変えれば、あれは我々の結束を試す試練でもある。この嵐の中で、我らがカイル王子という大樹の陰に集う者だけが、生き残ることができる。侯爵、あなたは嵐に吹き飛ばされる枯れ葉になるか? それとも、我々と共に、より強固な森を築く一員となるか?中立派、結構なことですな、だが中立だからと狙われないという理由などどこにもないということは、よくおわかりであろう」
マルケス侯爵は、しばらく黙考した後、深く、そして恭しく頭を下げた。
「…宰相閣下の深謀遠慮、恐れ入りました。このマルケス、微力ながら、カイル王子様にお仕えさせていただきます」
私は内心で勝利を確信した。
失ったのは、いつでも切り捨てられる小物数名。得たのは、王国の重鎮である大物侯爵一人とその影響力。なんと割の良い取引だろうか。
「腐肉喰らいの山羊」よ。お前が何者かは知らんが、おかげで私の派閥は、より強く、より純度の高いものとなった。これからもせいぜい闇の中で踊り、私の計画のための舞台装置としての役割を果たすがいい。
全ては、この私の掌の上で転がっているのだ。あの愚かな傀儡王子、カイルと共にな。