モチベーションが残っている間に投稿しておきます。
――婚約者。
私の……
お父様の言葉が、まだ夢のように頭の中で反響しています。
カイル王子の頬がほんのりと朱に染まり、大きく見開かれた翠の瞳は、何が起きたのか全く理解できていない、と雄弁に物語っています。
なんということでしょう。
私の拳は、まだ微かに、しかし確かに痺れていました。
(?……おかしいですわね)
私はそっと、右手を胸の前に持ち上げ、ゆっくりと、グー、パー、グー、パー、と開閉を繰り返しました。
指先に走る、この奇妙な痺れ。それは、殴り慣れたいつもの感覚とは明らかに異質でした。
一週間前に殴り飛ばしたアレクシア家の子息。
あの時の感触は、もっと鈍く、柔らかいものでした。未熟な骨が軋む音と、脂肪に拳が沈み込む感触。彼は熟れた果実のように、いとも簡単に吹き飛んでいきましたわ。
けれど、今のは違います。
確かに、私の拳はこの方の頬を捉えました。
コツン、というよりは、ズン、という重く、密度の高い音。
手応えは、ありました。ありましたけれど、それはまるで、最高級の樫の木を拳で叩いたかのような……いえ、もっと、生きた何か。
分厚く、それでいてしなやかな革で覆われた鉄の塊を殴ったかのような、不思議な衝撃でした。拳が彼の肉に受け止められた瞬間、衝撃が吸収されるのではなく、逆に私の腕へと跳ね返ってきたのです。
そして何より、信じられないのは――。
(……一歩も、動いていない?)
そうですわ。この方は、微動だにしていない。
普通、不意に顔を殴られれば、たとえ軽くとも、首が振れ、足がよろめき、一歩か二歩は後ずさるものでしょう。
しかし、この方は?
私の拳を受けたその場所から、踵がミリ単位も動いていないのです。まるで、大地に深く根を張る大樹のように、彼はそこに在る。
頬の赤みと、呆然とした表情だけが、たった今、私が彼を殴ったという事実を証明していました。
違和感の正体が、脳内でゆっくりと形を結び始めます。
私の視線は、彼の呆けた顔から、その首筋へ、肩へ、そして豪奢な衣装に隠された胴体へと滑り落ちていきました。
同年代の、まだ成熟しきっていない少年の身体のはず。
けれど、私の拳が、私の本能が、それを否定していました。
あれは、甘やかされて育った、締まりのない柔らかな肉体ではない。
私の脳裏に、一つのイメージが浮かび上がります。それは、高級料理店の厨房に吊るされた、極上の熟成肉の塊でした。
これまで私が殴ってきた者たちは、言うなれば仔牛の肉。
柔らかく、簡単にナイフが通り、すぐに火が通る。手応えがない、しかし空腹を満たすのには最適なお肉。
けれど、この方は違う。
これは、野生の、それも極寒の地を何年も生き抜いてきた巨大な猛牛の肉。
無駄な脂肪は一切なく、全てが赤身。それも、ただの赤身ではない。
幾千幾万もの運動によって、極限まで緻密に、そして強靭に編み上げられた筋肉の線維の集合体。
先程の軽い一撃は、いわば、その肉の塊にフォークを突き立ててみたようなもの。
表面を少し凹ませただけで、その真の硬さ、その奥にある圧倒的な質量には、全く届いていない。
(噛んでも、噛んでも、噛み切れない…)
そうですわ。
これは、生半可な覚悟で挑んではいけないお肉。
私の持てる全ての力、全ての技術を注ぎ込み、全力で「食さ」なければ、その真髄を味わうことなど到底できない、最上の食材。
そして、その事実に気づいた瞬間。
ゾクゾクゾクッ…!
背筋を、今まで感じたことのない種類の悪寒が駆け上りました。
歓喜。純粋な、一点の曇りもない、歓喜の戦慄です。
私は、見つけてしまった。
この退屈な世界で、私が生涯をかけて向き合うべき、至高の玩具を。
この、見た目はひ弱で、腹立たしい顔面をした王子様の皮を被った「お肉」を、これから時間をかけて、じっくりと、私の好きなように調理できるのです。
何度も、何度も叩いて、その強靭な線維を少しずつ解きほぐしていく。
最初は硬く抵抗するでしょう。けれど、私の拳を受け続けるうちに、徐々に、徐々に柔らかくなっていく。
その過程を、想像しただけで、口の中に甘い唾が広がりました。
それは、ただ殴る悦びとはまた違う、創作にも似た喜び。
私だけの手で、この極上の素材を、最高の状態に「仕上げていく」という、途方もない楽しみ。
私の視線は、再びカイル王子の顔に戻りました。
頬を染め、戸惑いと、ほんの少しの恐怖と、そして理解不能なものを見る目で、私を見つめ返してくる婚約者様。
(……)
その表情を見ていると、私の内に新たな衝動が芽生えるのをはっきりと感じました。
もし、今、ここで。
何の脈絡もなく、もう一度。
今度は、もう少しだけ力を込めて、彼の反対側の頬を殴りつけたら、どうなるのでしょう?
この方は、どのような顔を見せてくれるのでしょう?
驚き? 怒り? それとも、彼の言う「マゾヒスト」として、悦びの表情を浮かべるのでしょうか?
そして、この素晴らしいお肉は、次はどのような反響を私の拳に返してくれるのでしょう?
試したい。
今すぐ、確かめたい。
私の右の拳が、再びギリ、と音を立てて握りしめられます。
高揚感で、呼吸が少しだけ速くなる。お父様の目も、周囲の貴族たちの目も、もはやどうでもいい。
身体を巡る血が沸騰し燃え上がる。私の世界には、今、この目の前の「サンドバッグ」と、それを殴りたくてたまらない私しか存在していませんでした。
あと数センチ。
腕を振り上げさえすれば、私の欲望は満たされる。
その、刹那。
カイル王子が、びくりと肩を震わせ、後ずさりそうになるのを、私は見逃しませんでした。
(……ふふっ)
思わず、笑みがこぼれそうになるのを、必死で堪えました。
いけませんわ、スカーレット。逸ってはいけません。
最高のディナーは、お腹を空かせ、万全の準備を整えてから頂くもの。
これから、長い長いお付き合いになるのですから。
楽しみは、少しずつ、ゆっくりと味わうに限りますわね。
私は、ゆっくりと握りしめた拳の力を抜くと、何事もなかったかのように、完璧な淑女の微笑みを顔に貼り付けました。
けれど、その瞳の奥では、獰猛な獣が、生涯の獲物を見つけた喜びに、爛々と輝いていたことでしょう。
常々、思っていたことがあります。
この世界は、どうしてこうも理不尽に出来ているのでしょう、と。
善良な農夫は、日照りや長雨に嘆き、貴族が気まぐれに決めた重税に喘ぎ、そのけして豊かではない人生をさらに削り取られていく。
誠実な商人は、狡猾な同業者に騙され、後ろ盾のない正直者から市場を追われていく。
心優しい者ほど、その優しさに付け込まれ、涙を飲むことになる。
一方で、悪事を働く者たちはどうでしょう。彼らは己の欲望に忠実で、恥も外聞もなく他者を踏み台にし、法や倫理の網を巧みにすり抜けては、その腹をますます肥えさせていく。
民から搾り取った金で買った美酒に酔いしれ、着飾り、醜い腹を揺すって高笑いをする。彼らがその罪を真っ当な形で裁かれたという話を、私は寡聞にして聞いたことがありません。
蝶よ花よと育てられ、ヴァンディミオン公爵家という堅牢な箱庭の中で生きてきた、世間知らずな私。未だ幼く世の道理も朧気なこの身ですらわかるのです。
書物と、僅かな見聞と、そしてこの身に宿る本能で、一つだけ確かなことが。
それは…
――やはり殴るのなら。たっぷり肥え太った悪い貴族が、一番スカッとする、ということ。
グラハール先生と共に豚野郎共を殴り飛ばした記憶が思い出されます。
正義や法では届かぬのなら、私のこの拳で直接、物理的に、彼らの傲慢な顔面に制裁を下す。
その時こそが、この鬱屈した世界で、私の魂が唯一、歓びの声を上げる瞬間なのです。
その確信に、揺らぎは一切ありません。
弱者の膏血を啜り、肥え太った悪党の弛んだ骨を砕く瞬間。
傲慢に歪んだ唇から悲鳴を引きずり出す瞬間。それらを想像するだけで、何物にも代えがたい「清々しさ」を私に与えてくれます。
しかし、と私の本能が囁きます。
このカイル様を本気でボコボコになるまで殴ることは、それとは全く質の違う、別種の爽快感をもたらすだろう、と。
悪党を殴るのは、溜まったゴミを掃除するような心地よさをきっと与えてくれます。
ただ殴りたいと思った相手に拳を突き出し、ボコボコにすることにも得難い爽快感を感じます。
ですが、この方に対しては、未踏の霊峰に挑む登山家のような、あるいは未知の食材を前にした料理人のような気分にさせてくれる予感があるのです。
私の拳という問いかけに、あの鋼の肉体はどのような答えを返してくださるのか。
私の暴力という名のノミで、この極上の原石をどのように削り出し、磨き上げていけるのか。
その予感が、私の全身を甘美な期待で満たしていくのです。
「これから、よろしくお願いいたしますね、カイル様。…末永く」
カイル「わ、ワ……ひ、ひえぇ…」
スカーレット「全ては世のため人のため、ですわ」