開拓地でスローライフを送りたい。   作:ごすろじ

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第一三話。戦術的撤退【スカーレット視点】

 

 

「貴様は……――弱い!」

 

 

カイル様のその一言が、私の頭蓋の内側で雷鳴のように轟きました。

世界から、音が消えます。

夜会の喧騒も、父上の狼狽する声も、何もかもが遠ざかり、私の視界には、傲慢な笑みを浮かべ、天を指差す婚約者様の姿だけが焼き付いていました。

 

 

(……今、なん、と…?)

 

 

血が、沸騰する。

腹の底から、マグマのような熱い何かがせり上がってくるのを感じました。

 

『弱い』。

 

この、スカーレット・エル・ヴァンディミオンに向かって、今、この方はそうおっしゃりました。

 

 

アレクシア家の子息を殴った時とは比べ物にならない、純粋で、濃密な殺意にも似た暴力の衝動が、私の全身を駆け巡ります。

握りしめた拳が、ギチギチと悲鳴を上げる。

 

 

今すぐ、この生意気な口に、私の拳を叩き込んで黙らせてスカッとしなければ気が収まりません。

その顔面を原型がなくなるまで殴り続け、先程の言葉を撤回させてやりたい。

 

「私が…弱い?」

 

絞り出した声は、自分でも驚くほど冷たく、低く響きました。

けれど、カイル様は私の怒りなど意にも介さず、さらに言葉を続けます。

 

 

「くく、そうだ!殴るだけならば猫にでも出来るわ!貴様に俺の付き人など務まらん、そんな軟弱な拳はパンチとも呼べん!一度パンチの打ち方から教わってきたらどうだ?軟弱美少女淑女めッが。貴様のような普通の淑女は友達同士で仲良くお茶でもしておれ、裁縫がお似合いだ」

 

 

『軟弱な拳』。

『普通の淑女』。

 

 

一つ一つの単語が、私の理性のタガを、一本、また一本と引きちぎっていきます。

この方は、分かっていない。この私が、グラハール先生から教わった暴力が。この拳が、ただの飾りではないということを。

お父様も、レオお兄様も、誰もが私のこの力を疎み、隠させようとする中で、初めて真正面から私の力に言及したかと思えば、この侮辱。

 

 

ああ、もうダメですわ。

レオお兄様との約束など、知ったことではありません。

ここでこの方を殴らなければ、私の魂は腐ってしまう。

 

 

一歩、踏み出そうとした、その時でした。

ふと、先程の、彼の禁断の告白が脳裏をよぎったのです。

 

 

『実は俺は生粋のマゾヒスト!人に殴られ蹴飛ばされるのが大好きな超弩級のマゾヒストなんだ』

 

 

(……待ちましょう。

この方、殴られるのがお好きでしたわよね…?)

 

 

その事実に思い至った瞬間、沸騰していた血液が、すうっと冷えていくのを感じました。

そして、全く別の種類の熱が、私の思考を支配し始めたのです。

 

 

(つまり、この挑発は…)

 

 

『弱い』『軟弱な拳』。

それは、私を怒らせるための言葉。

そして、私を怒らせて、どうするのか?

 

 

――私に、殴らせるため。

 

 

そうですわ。そういうことだったのです。

この方は、ただ普通に「殴ってください」と頼むのが照れくさいから、わざと私を煽り、私が思わず手を出してしまうような状況を作り出している。

なんという、回りくどく、そしていじらしいおねだりの仕方なのでしょう。

 

 

「公爵家の娘として己の不斐なさと無力を味わいたくないのであれば、大人しく身の程を弁えろ。いいな?」

 

 

その言葉は、もはや私には「早く、俺を殴ってくれないのかい?君の力はそんなものじゃないだろう?」という、甘い誘惑の囁きにしか聞こえませんでした。

私の怒りは、一瞬にして霧散し、代わりに、目の前の不器用な婚約者様に対する、深い、深い愛おしさが湧き上がってきました。

 

 

ああ、なんて可愛らしい方なのでしょう。

素直になれない、照れ屋なサンドバッグ様。

 

 

「畏まりましたカイル様、では明日から婚約者としてよろしくお願いいたしますわ」

 

 

私の口から自然と紡がれたのは、承諾の言葉でした。

お父様が横で感動に打ち震えていますが、少し意味が違いますわ、お父様。

私が励むのは、淑女としてではなく、この方を満足させる『暴力』、です。

 

 

「付き人など俺は認めん、奴隷、貴様など奴隷扱いしてやるぞ!」

 

 

まだおっしゃっていますのね。

『奴隷』。つまり、どのような理不尽な命令にも従い、どのような暴力も甘んじて受け入れろ、と。

この方は照れ屋な天邪鬼、つまりは逆。どのような暴力も甘んじて受け入れます…という解釈間違いないでしょう。これはもう、プロポーズと同じではありませんか。

 

 

そして挑発も兼ねているのでしょう。

私を怒らせ、煽り、血を沸き立たせようとしている。

これはカイル様流の一種の求愛行動。

 

 

「カイル様の婚約者として相応しくなれるよう努力いたしますわ。最底辺から…登ってこい、そういうことですわね」

 

 

ええ、ええ、分かっております。

これから毎日、貴方様が満足なさるまで、この拳で存分に「お仕え」して差し上げますわ。

その鋼のお身体が、私の拳によってどのように変化していくのか。考えるだけで、武者震いが止まりません。

 

 

去り際に「うるさいぞ!どけ!」と叫びながら去っていく背中を見送ります。

 

 

「ふふっ…」

 

 

思わず、品のない笑い声が漏れてしまいました。

 

 

カイル様。私の愛しのサンドバッグ様。

明日から、どうぞよろしくお願いいたしますね。

貴方様が「もうやめてくれ」と泣いて許しを乞うまで、いえ、それでも決して、私はこの拳を止める気はございませんので。

 

 

 




スカーレット「お可愛いこと、ですわ」拳ギチィ…ッ

カイル「違う、違う、そうじゃ、そうじゃなぁ~~い♪」(白目
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