喉がひどく乾き、落ち着かない。
理由は一つ、少し離れたソファに座る我が愛娘、スカーレットの存在である。
銀糸のような髪を美しく結い上げ、完璧な淑女の笑みを浮かべてはいるが、私には分かる。
あの子の内に秘めた、いつ爆発するとも知れぬ衝動が、今はかろうじて理性の鎖で繋ぎ止められているだけだということを。
『狂犬姫』。
誰が付けたか、その不名誉な異名は、的確に娘の本質を捉えていた。
スカーレットは、心根は優しい娘だ。弱い者を決して見過ごせず、不正を許せない、強い正義感を持っている。
だが、その発露の仕方が、いささか…いや、あまりにも暴力的すぎるのだ。
親の贔屓目ではなく娘は優秀だ。
これまで雇い入れた五人以上の家庭教師を「もう教えることはない」と退職理由に書かせた程度には、とても頭がよく、才能に溢れていた。
そして最も才能に溢れていたのが…そう、私と息子が頭を抱える元となっている「暴力」だ。
娘は、こと相手を叩きのめすことに対し精神的にも肉体的にも恐ろしい才を持っている。
その拳だけでなく、あらゆる武器を手足のよう扱えるのだ。
一週間前の事件が、脳裏をよぎる。
アレクシア家の子息を、返り血で己の銀髪を濡らしながら、満面の笑みで殴り続けていたという娘の姿。
報告を聞いた時、私は天を仰いだ。
幸い、相手の素行の悪さと、平民の子供を助けたという大義名分があったため、大事には至らなかった。
しかし、我がヴァンディオン公爵家の、そしてスカーレット自身の将来を思えば、このままではいけない。
そして今宵、あの子は己の婚約者と初めて顔を合わせる。
パリスタン王国第二王子、カイル・フォン・パリスタン殿下。
正直なところ、良い噂は聞かない。傲慢で、短気で、兄君であるジュリアス王子への劣等感から、素行が荒れていると。
この政略結婚は、スカーレットが生まれる前から王家と交わされた、絶対の契約。
公爵家の当主として、覆すことはできない。
だが、一人の父親として、娘をそのような御仁に嫁がせることには、断腸の思いがあった。
あの子の気性を考えれば、衝突は避けられまい。
最悪の場合、王子相手に拳を振るい、ヴァンディミオン家そのものが取り潰しになる可能性すら…。
どうか、何事も起こりませんように。
私が神に祈りを捧げていた、その時だった。
件のカイル王子が、取り巻きを離れ、まっすぐにスカーレットの方へ向かっていくではないか。
私の心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
まずい。距離が少しあるが、傲慢な態度、見下すような視線はここからでも見て取れた。
スカーレットの表情が、淑女の仮面の下でこわばっていくのが遠目にも分かった。
何か言い返しているようだが、何を話しているのかまでは聞こえない。だが、雰囲気はよくない。
私は慌てて、周囲の貴族への挨拶もそこそこに、娘たちの元へと向かおうとした。
「おお、これは公爵閣下。今宵の夜会も、実に素晴らしいですな」
しかし、その行く手を阻んだのは、領地経営でも接点のある伯爵だった。
無視するわけにもいかない相手に足を止められ、私の内心は焦燥で満たされる。
「これは伯爵。ご機嫌麗しく…」
「いやはや、それより御令嬢のスカーレット様、ますますお美しくなられましたな。我が愚息も、遠くから見惚れておりましたぞ」
社交辞令と分かってはいるが、会話は無情にも続く。
私は当たり障りのない相槌を打ちながらも、隙さえあればスカーレットとカイル王子の方へと視線を寄せる。
何か言い争っているような雰囲気だが、幸い、まだ手は出ていないようだ。
早く、早くこの会話を切り上げねば…。
どうでもいい世間話が、これほど恨めしく感じたことはない。
にこやかに相槌を打ちながらも、私の意識は全て、視界の端で対峙する娘と王子に集中していた。
頼む、事を荒立てないでくれ。私の胃は、もう限界なのだ。
ようやく伯爵との会話を終え、私は早足で二人の元へと向かった。
そこには、何やら険悪な、しかし奇妙な空気が流れていた。
「どうしたスカーレット。一体なんの騒ぎだ。ハッ、まさかとは思うがあのお方に無礼な言動はしていないだろうね? 慎みなさい」
まずは娘を牽制する。
なにが起きていたのか検討もつかないが、娘は王子に謝罪した。
だが、次にスカーレットの口から出た言葉は、私の想像を遥かに超えるものだった。
「この拳で殴り、理解しましたわ」
――殴った?
「ええ。この拳で殴り、理解しましたわ。私の拳を真正面から受け止めてくださる、理想の…いえ、私の生涯の伴侶にふさわしいお方です」
「―――ッ!」
な、殴った…?
今、私の娘は、王子を殴ったと、そう言ったのか?
血の気が、引いた。
終わった。全てが終わった。
筆頭公爵家の娘が、王族の顔面を殴りつける。これ以上の不敬罪があろうか。
明日には、我が一族は揃って断頭台の露と消えるだろう。
私は蒼白になりながら、震える足で二人の間に割って入った。
「な、殴った!?ス、スカーレット!何を不敬な!あれほど暴力沙汰は避けるよう注意したというのに。カイル殿下、この娘は日頃から少々、その……武の道に心酔しすぎておりまして…!決して他意は…!」
私が絶望に打ちひしがれていると、王子と娘の間で、さらに信じがたい会話が交わされ始めた。
王子は、己を殴った相手に対し、烈火の如く怒るでもなく、『弱い』『軟弱な拳』と、まるで武術の師が弟子を叱咤するかのような言葉を投げかける。
『貴様のような普通の淑女は友達同士で仲良くお茶でもしておれ、裁縫がお似合いだ』
その言葉を聞いた瞬間、私は耳を疑った。
(…普通の、淑女?)
誰が、だ?
この、つい先ほど王子の顔面を殴りつけた、我が娘が?
返り血に濡れることを喜びとし、貴族の子息をタコ殴りにする、このスカーレットが?
ありえない。
この貴族社会の誰もが、スカーレットを『狂犬姫』と呼び、恐れ、あるいは蔑んでいる。
あの子自身も、その自覚があるからこそ、私達の願いに答えて淑女の仮面を被っているのだ。
だというのに、この王子は、こともなげに娘を『普通の淑女』と断じた。
それは、皮肉や嫌味には聞こえなかった。
まるで、心底そう思っているかのような、不思議な響きがあった。
そして、何より驚くべきは、王子のその後の対応だった。
殴られたこと自体を、まるで問題にしていない。
筆頭公爵家にあるまじき、この天を衝くような不祥事を、まるで気にした素振りすらないのだ。
普通ならば、即座に衛兵を呼び、不敬罪でスカーレットを捕縛させてもおかしくない。
だというのに、王子はただ、娘の『弱さ』を罵るだけで、その罪を問おうとはしなかった。
(…なんと、心の広いお方なのだろう)
噂とは、全く当てにならないものだ。
確かに口は悪い。問題発言もあり、態度は傲慢だ。だが、その芯の部分は、我々が思うよりもずっと、懐が深いのではないか。
私が呆然としている間に、話はさらに奇妙な方向へと転がっていく。
スカーレットが、満面の笑みで王子の『付き人』になることを了承し、奴隷に関する発言も私が動くより先に娘が手で制し窘めてくる始末。
そして、最終的に王子は、捨て台詞を残して夜会の会場から去っていった。
残されたのは、歓喜に打ち震え、恍惚とした表情で「ふふっ」と笑みを漏らす我が娘と、呆然と立ち尽くす私。
「スカーレット…お前…」
「お父様。私、決めましたわ。カイル様こそ、私の生涯の伴侶にふさわしいお方です」
その瞳は、獲物を見つけた肉食獣のように、爛々と輝いていた。
私には、娘が何を言っているのか、さっぱり理解ができなかった。
だが、一つだけ確かなことがある。
カイル王子は、我々が考えていたような、ただの『馬鹿王子』ではないのかもしれない。
少なくとも、この手に負えぬじゃじゃ馬娘…もとい、『狂犬姫』を、ある意味で受け入れ、その上で『普通の淑女』と評してくださった。
その一点において、私は、この婚約に一筋の光明を見出したような気がしていた。
どうか、この政略結婚が、スカーレットにとって、良きものとなりますように。
そう祈りながらも、これから先、息子と共に胃の痛む日々が続くだろうという予感だけは、はっきりと私の胸の内を支配していたのだった。
▼カイルのアホのような口説き文句で高感度が上がったのは誰か?それは娘の方ではなく父親の公爵だ!!
公爵「カイル王子…」(ジィ~ン
カイル「違う、違う、そうじゃ、そうじゃなぁ~~い♪」×2