乾いた土を蹴り上げる蹄の音が、高く澄み渡った空に響く。
愛馬の鬣が風に流れ、カイルは口の端に笑みを浮かべた。
乗馬の訓練は、数ある王子としての教育の中でも、彼が最も得意とすることの一つだった。特に、スピードを競うことにかけては誰にも負ける気がしなかった。
「カイル、少し休んだらどうだ。馬も疲れている」
(……不味い。体重が異常に重くなってるの忘れていた…)
先に馬を降りたジュリアスが、涼やかな顔でこちらを見ている。
いつもの光景だ。ジュリアスは、何をやっても涼しい顔を崩さない。まるで、全ての物事が退屈で仕方がないとでも言うように。
「まだ平気だ。…兄上こそ、もう終わりか?俺に負けるのが怖いとか」
「ほう、面白いことを言う」
挑発的なカイルの言葉に、ジュリアスは初めて興味深そうに眉を上げた。その反応に、カイルは自尊心の高まりを感じさせる笑みを見せる。
「では、競争といこうか。あそこの樫の木まで、先に着いた方が勝ちだ」
ジュリアスが指差したのは、訓練場の端に立つ一本の大きな木だった。
望むところだと、カイルは手綱を握り直す。負けるはずがない。この俺が、兄なんかに、周囲に聞こえる程度に、そう呟く。
飼い主に似たのか、カイルの愛馬も好戦的に唸る。
(すまん、やる気を出しても無駄だ。これは負け確。正確な体重なんて調べてないが私の重量は200キロは確実に超えてるんだぞ…)
合図と共に、二頭の馬が同時に駆け出した。
カイルは必死の形相で手綱を握り、上体を傾ける。
風を切り、視界の端で兄の姿を捉えながら、ただがむしゃらに馬を駆る。
ふとカイルが隣を見ると、ジュリアスはまるで馬と一体になったかのように、滑らかな走りで速度を上げていた。
その姿は、必死なカイルとは対照的に、あまりにも優雅だった。
あっ、と思った時にはもう遅い。ジュリアスは軽々とカイルを追い抜き、樫の木の下で静かに馬を止めていた。
ぜえ、と荒い息をつきながら、カイルは遅れてゴールする。
馬から降りたジュリアスは、汗ひとつかいていない。周りの騎士や教官たちが、感嘆の声を上げるのが聞こえた。
「さすがはジュリアス王子」
「素晴らしい手綱さばきでした」
賞賛の言葉は、すべてジュリアスに向けられていた。カイルの存在など、まるで最初からなかったかのように。カイルは唇を噛み締める。完全な「敗北」を味わい屈辱に濡れる者の顔だった。
(兄上は今日もキラついてるな…少女漫画か?いや、恋愛小説の王子様だった。うぅん、カイルとして何していいかもわからない、何も計画もないし…こんな調子で、とりあえず流れ通りの態度と生活を続けていこうか。どうせ王になるつもりもないなら、期待されないこの立ち位置ってすごく楽だし)
その日の午後、カイルは誰とも口を利かなかった。
夕食の席で顔を合わせても、ジュリアスに視線を合わせることなく、黙々と食事を終えた。そんなカイルの様子を、ジュリアスが静かに観察していることに気づいたものは誰もいなかった。
夜。侍従が退出した後の静かな部屋で、カイルがベッドに潜り込もうとした時、ドアが小さくノックされた。入ってきた侍女が差し出したのは、一枚の羊皮紙だった。
『夜の第三書庫で待つ』
兄の美しい筆跡だった。
月明かりだけが差し込む、静まり返った書庫。巨大な本棚の影が、床に長く伸びている。その中心に、ジュリアスは立っていた。
「来たか」
「…何の用だ兄上。負かした俺を、笑うために呼びつけたのか?」
吐き捨てるようなカイルの言葉に、ジュリアスは表情を変えずに首を振った。
「カイル。なぜ負けたのが、それほどまでに悔しい?」
(う゛ッ……騙しているようで心苦しい。何も悔しくはないんだが…。どう答えるべきだ。理由なんて言えんし、私は異世界転生者なんだ、だから、とりあえず原作通りにしてるって?いやいや、速攻で悪魔憑き認定されるわ。男なのに修道院ブチ込まれる)
「当たり前だ!俺は、王子だぞ!誰にも負けてはならないんだ!」
カイルの叫びが、静寂に満ちた書庫に吸い込まれていく。ジュリアスはしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ほう。では聞くが、カイル。王に必要なのは、速く馬を走らせる技術だけか?」
「剣術か?学問か?それとも、家臣を従わせる威厳か?」
「そ、れは…全部だ」
「そうだな。だが、それらすべてで一番である必要はない」
ジュリアスは、窓辺に歩み寄り、夜空を見上げた。
「王とは、一番の者ではない。一番の者たちを、正しく使いこなす者のことだ。時には、自ら負けを認めることで、相手の力を引き出すことも必要になる」
ジュリアスの横顔は、とても子供とは思えないほど大人びて見えた。
カイルは言っていることの半分も理解できない。そんな顔をする。
「…俺には、分からない」
「今は、それでいい」
ジュリアスは振り返り、初めて弟の目線をまっすぐに捉えた。
「だが、覚えておけ。お前がただ一番を目指すだけの男なら、この国は継げない。…そして、私を超えることも、な」
それだけ言い残し、ジュリアスは静かに退室していった。
扉が閉められると同時にカイルの表情が能面のようになる、皮肉げに上がった広角は下がり、口は横一文字で、目元も胡乱げだ。
「あれ?……私より精神年齢高くないか?すまない兄上、折角アドバイスしてくれたが私本人の意思としては王になりたいなどと欠片も考えてないんだ。かといって…ここまで親身になって貰って、失望させたくもないしな…。妹曰く腹黒設定だったはず。なら、そのうち険悪になるのか…?私に、何か出来ることがあれば、ここにいる間に、最低限はしておくからどうか許してくれ兄上」
カイルは兄であるジュリアスが出ていった扉を眺め、顎を擦りながらウンウン唸り続ける。
そこには先程まで見せていた負けず嫌いな子供特有の直情的な怒りと、屈辱に塗れた劣等感など欠片も無かった。
◇◇◇
珍獣観察録Ⅰ
観察対象: カイル・フォン・パリスタン(珍獣ランクR)
観察者: ジュリアス・フォン・パリスタン
貴族社会において、本音と建前は衣服のようなものだ。
纏わぬ者はいないし、その質を見れば相手の格が知れる。
私にとって人間観察は趣味であり、王族としての必須技能でもある。
家臣の媚びへつらう笑顔の下にある野心、令嬢の可憐な恥じらいの裏にある計算。それらを透かして見ることは、息をするのと同義だ。
だが、私の弟――カイルという存在は、どうにも分類に困る「ノイズ」を含んでいる。
本日の乗馬訓練。
弟は確かに負けた。悔しがり、私に突っかかり、典型的な「優秀な兄にコンプレックスを抱く弟」を演じていた。
……そう、「演じて」いた。
カイルの愛馬は、王家の牧場でも特に体力のある個体だ。
今日の競争、距離にしてわずか数百メートル。全速力とはいえ、ゴール後のあの馬の荒い息遣いは異常だった。
まるで、大人を……それも、重装備の騎士を二人乗せて走ったかのような消耗ぶり。
対して、鞍上のカイルは痩身の子供だ。
物理的な計算が合わない。鉛の服でも着込んでいない限り、あのような負荷はかからないはずだ。
それに、弟自身の息遣い。
「ぜぇ、ぜぇ」と肩を上下させていたが、あれは胸の動きと連動していない。
顔は赤くなかったし、額の汗も運動による発汗というより、冷や汗に近い質に見えた。
弟は「疲れたふり」をしていた。なぜ? 兄への手前、全力を出したというポーズか?
夜、書庫に呼び出した際の反応を記す。
「俺は王子だぞ! 誰にも負けてはならないんだ!」
その叫びは、あまりにも「正解」すぎた。
我々のような王族が、幼少期に抱きがちな未熟な自尊心。それを教科書通りになぞったような台詞。
だが、目が笑っていないどころか、怒ってすらいなかった。
激情に駆られているはずのその瞳は、凪いだ湖面のように静かで、どこか遠くを見ていた。
口元は歪んでいるが、目元の筋肉は弛緩している。
貴族が見せる「仮面」とは、もっと巧妙で、かつ欲望に根ざしたものだ。
しかしカイルのそれは、まるで質の悪い道化師が、舞台の脚本通りに台詞を吐き出しているような……「虚無」を感じさせる。
私が「王の資質」について説いた時、弟は一瞬、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
あれは演技ではない、素の反応だろう。
その後、すぐに「俺には分からない」とふてくされたが、その切り替えの早さ。
理解できないのではない。理解した上で、「理解できない愚かな弟」という配役に徹しようとしたように見えた。
カイル・フォン・パリスタンという人間から感じるのは、強烈な「乖離」だ。
弟は、周囲が彼に求める「愚かで、短気で、少し生意気な第二王子」という像を、忠実に再現しようとしている。
だが、その再現度が高すぎるがゆえに、逆に人間味を欠いている。
例えば、出来の悪い贋作の絵画は、一見して偽物とわかる。
しかし、あまりにも精密に模写されすぎた贋作は、筆致の勢いや画家の情念が抜け落ちていて、逆に不気味さを醸し出すものだ。今のカイルはそれに近い。
もしや、彼は私よりも遥かに……「視て」いるのではないか?
王位継承権争いという泥沼を避けるため、意図して「無能」を演じているとしたら?
あの年齢で、そこまでの計算を?
いや、考えすぎか。
去り際、私の背中に向けられた視線には、殺意も嫉妬もなかった。
……カイル。お前のその皮の下には、一体何が詰まっている?
面白い。
実に興味深い
当面は、このまま泳がせておくとしよう。
その仮面が剥がれ落ちる瞬間、中から出てくるのが怪物か、それともただの道化か。
それを特等席で拝見するのも、兄の特権だろうから。
珍獣ランクは現状Rとしておこう。
カイル「よし、今日も気持ちよくカイル出来たな」
珍獣ハンタージュリアス「弟観察しよ」観察記録カキカキ
カイル「??????????なにを…言うとんの?」