朝の光が差し込む第二王子の私室は、張り詰めた空気で満ちていた。
「何度言ったら分かるんだ!この結び目が僅かに歪んでいるだろうが!」
カイルの甲高い声が、若い侍従の肩を震わせる。指さされたのは、完璧に整えられたように見えるカイルの首元のクラバットだった。
しかし、王子の目には、それが許しがたい欠陥に映るらしい。
(申し訳ない。何一つ文句の付けようもない完璧だ。ただ完璧すぎて何も言わない馬鹿王子では駄目なんだ。故、難癖をつけさせてもらう)
「も、申し訳ございません!すぐに結び直します!」
侍従が慌てて手を伸ばすが、カイルはそれを荒々しく振り払った。
「もういい!下がれ!役立たずめ!」
(指先で金貨を弾いてポケットにシュート。すまない。本気ですまない、これでどうかお許しください。私も怒るとか慣れないことよりも、理不尽に怒られたいんだ。我慢しているんだ)
その日の朝食で、カイルの機嫌は最悪だった。
運ばれてきたスープが少しぬるいと皿を押し返し、パンの焼き色が気に入らないと給仕のメイドを睨みつける。
(本当は皿を引っくり返したり、ぶっかけたりすべきだろうが…さ、流石にできん。こればかりは、私には無理だ。…山での生活が長すぎて、未だに女慣れなんてしていないんだ。下手に絡んだら、言葉も交わせずオドオドしてそのまま終わりそうだ。理由の無い難癖とか暴力は万年マゾ野郎の私にはハードルが高すぎる…)
彼の周りだけ、常にピリピリとした空気が漂い、使用人たちは息を殺してその場をやり過ごすことしかできない。
彼らがカイルを恐れているのは事実だ。
しかしその恐怖は、畏敬の念とは程遠い。
それは、いつ癇癪を起こすか分からない幼子をあやすような、厄介なものを扱うのに似た感情だった。
誰もカイルに心からは仕えようとしない。
ただ、罰せられないように、その場をやり過ごすことだけを考えていた。
一方、同じ城の、第一王子ジュリアスの私室は、静寂に包まれていた。
ジュリアスは黙って椅子に座り、侍従が手際よく身支度を整えていくのをただ受け入れている。
彼は文句一つ言わない。だが、だからといって気が楽なわけではなかった。
ある日、若い執事がジュリアスのために紅茶を淹れた。
完璧な作法で、最高級の茶葉を使い、温度も蒸らし時間も完璧なはずだった。
しかし、カップを差し出した執事の手が、緊張で微かに震えている。
ジュリアスはカップに口をつける前に、ふと動きを止めた。
「…茶葉を変えたな」
「はっ!はい、先日商人から献上された、より香りの良いものかと…」
「許可なく王子の出すものを変えるな。それに、この香りは今日の菓子には合わない。やり直せ」
声は静かだった。怒鳴るでもなく、責めるでもない。ただ、事実を淡々と告げただけ。
しかし、その静かな指摘は、カイルの怒声よりもずっと執事の心を凍りつかせた。
ジュリアスの前では、些細な気の緩みも、浅はかな判断も、すべて見透かされる。
彼は使用人に完璧を求める。そして、その要求に応えられぬ者を、二度と使うことはない。
廊下の片隅で、メイドたちがひそひそと声を潜めて噂をしていた。
「聞いた?またカイル様が、朝からお怒りだったそうよ。本当に、あの方にお仕えするのは骨が折れるわ…」
「子供の癇癪と変わらないものね。面倒だけれど、ご機嫌を取っていればいいのだから、ある意味では楽よ」
「それに比べて、ジュリアス様は…」
一人のメイドが、声をさらに潜めた。
「あの方は、何もおっしゃらない。けれど、すべてを見抜いていらっしゃる。一度でも失敗すれば、もう側には置かれない。…恐ろしいお方よ。けれど、だからこそ、あの方に認められたいと思ってしまう」
静かで、冷徹で、完璧な第一王子。
感情的で、未熟で、手の掛かる第二王子。
使用人たちの天秤は、明らかだった。
彼らはカイルを侮り、ジュリアスを畏れている。
偶然その会話を耳にしてしまったカイルは、拳を強く握りしめた。
「どうしてだ。王子である俺が、使用人たちにまで馬鹿にされなければならない。兄上は、ただ黙って座っているだけだというのに…ッ」
カイルはわざとらしく、恨めしそうに呟き使用人たちに背を向け歩き出す。
振り向いた先の通路には、ジュリアスがおり、顎をさすりながらカイルの方をジっと見ていた。
(こわ…。やっぱり定期的に恨み節の独り言言っといた方がいいな)
カイルは心底嫌そうに顔を歪めジュリアスの視線から早足で逃げ去っていく。
くしくもこの時だけは演技ではなく、本心から顔歪めていた。
嫌悪ではない、あの観察するような視線はカイルにとってはとにかく居心地が悪く、頬を引きつらせてしまう。
後、振り向いた瞬間、物陰からガン見されているのは単純にホラーである。
◇◇◇
珍獣観察録Ⅳ
観察対象: カイル・フォン・パリスタン(珍獣ランクから除外)
観察者: ジュリアス・フォン・パリスタン
支配には二種類ある。
一つは、恐怖によって相手の行動を縛る、表層的な支配。
もう一つは、畏敬によって相手の心を縛る、絶対的な支配。
我が弟は、哀れなことに前者こそが力だと信じ込んでいるようだ。
今朝のカイルの振る舞いは、観察するに値しないほど陳腐だった。
クラバットの結び目に始まり、スープの温度、パンの焼き色。些細な事柄にいちいち噛みつき、怒声を上げる。
侍従やメイドたちの反応も陳腐でつまらない。
彼らは確かにカイルを「恐れて」いる。だが、その恐怖の質は、嵐や雷といった、過ぎ去るのを待つだけの自然現象に対するものに近い。
誰も彼の機嫌を損ねまいと汲々とはしているが、その瞳の奥には隠しきれない侮蔑と憐憫の色が浮かんでいる。
「また始まった」という諦念。
あれは、主に仕える者の目ではない。手に負えない幼子をあやす者の目だ。
結果、弟の周囲には誰も心を寄せない。
命令は遂行されるが、それは罰を回避するための最低限の義務でしかない。
これでは国はおろか、一つの家すらまとめることはできまい。
廊下で耳にしたメイドたちの会話は、私の推察を裏付けるものだった。
カイルは「面倒」な存在であり、「ある意味では楽」な相手。
対して私は「恐ろしい」が、「認められたい」対象。
その会話を聞いた後のカイルの反応。
握りしめられた拳、屈辱に歪む表情。
以前の私であれば、あれすらも計算された演技かと疑っただろう。
だが、今の私には、ただ己の無力さに打ちひしがれる、哀れな子供の姿にしか見えなかった。
私の姿に気づき、逃げるように去っていったあの背中。
そこには、策略家の焦りも、仮面を見られた役者の狼狽もなかった。
あったのは、ただ、圧倒的な上位者の前で、惨めな自分を晒してしまったことへの、純粋な羞恥心だけだ。
私は、勘違いをしていたのかもしれない。
カイルの単純さの裏に、何か深遠な計略があるのではないかと。
彼が演じる「馬鹿王子」は、分厚い仮面なのではないかと。
だが、ここ数日の観察を経て、より単純で、そして遥かに退屈な結論に達しつつある。
――仮面など、存在しない。
あれが我が弟、カイル・フォン・パリスタンの素顔そのものなのだ。
劣等感に苛まれ、感情の制御もできず、短絡的な暴力でしか自己を表現できない、未熟な子供。
謁見の間での暴言も、乗馬での不可解な現象も、全ては偶然の産物。私が意味を求めすぎただけの、意味のない事象。
そう考えると、全ての辻褄が合う。
鍛錬を怠るから弱く、学問を疎かにするから愚か。
実に、シンプルだ。
面白い玩具だと思っていたが、どうやらすぐに飽きてしまいそうだ。
これ以上、弟の癇癪に付き合うのは時間の無駄だろう。
観察対象としての価値は、著しく低下した。
私はもう、弟を見るのをやめることにする。
視界の端で騒ぐだけの、取るに足らない存在として。
珍獣ハンタージュリアス「弟が…シャバい」カリカリ…ピタッ
カイル「お…いいぞいいぞ」パァッ