「皆さん、忙しいんですかね……」
ため息まじりに、モモンガさんがぽつりとこぼした。
今日、何度目のため息だろう。
カウントする気もないけれど、耳に入るたび、こっちのHPがじわじわ削られていくのは確かだ。
「死んでるんじゃないですか?」
口が勝手に動いた。
実際、何人かはもうこの世にいないことを、私は知っている。
ナザリックのギルドメンバーが今どこで何をしているのか。どんな状況で、どんな顔で、生きているのか、あるいは死んでいるのか。
私は一度、ちゃんと調べたことがある。
教えるつもりはないけど。
「縁起でもないこと言わないでください!」
私の言葉に、モモンガさんがいつになく食い気味に被せてきた。
即座に否定したそのくせ、そこで言葉が途切れる。
チャットウィンドウの向こうで黙り込んでいるのが分かって、私は鼻で笑った。
「死んでたらさ、少なくともナザリックを捨てたってわけじゃないでしょ。
その方が、モモンガさん的には、まだマシなんじゃない?」
モモンガさんは、しばらく沈黙した。
骸骨のアバターは、当然だけど何も表情を返してこない。
それでも、向こう側で言葉を選んでいるのが分かる。
「……それでも、俺は皆が幸せに生きていて欲しいと思います」
「偽善者め」
「アインズ・ウール・ゴウンのギルドマスターですから」
「お人好しだね」
「こんな俺に付き合ってくれる白夜嬢さんも、十分お人好しですよ」
「そうだね。もっと崇めていいよ」
私は何もしていない。
実際にナザリックを維持するための金策も、素材集めも、クエスト回しも、ほとんど全部モモンガさんがやっている。
私は時々顔を出して、ハムスターを眺めていただけだ。
「はい。ありがとうございます」
そう言って、モモンガさんの頭上に、笑顔の簡素なアイコンがぽんっと表示された。
本気でそう思っているような、あの素直なエモート。
イラッとした。
私は何も言わず、そのままログアウトした。
逃げるみたいだな、と思う。
……まぁ、いいか。相手はモモンガさんだし。
◇ ◇ ◇
ログアウト後、一瞬の暗転。
視界は、現実の自室の白い壁に切り替わる。
防音のきいた静かな部屋。空調の低い駆動音だけが、耳の奥でかすかに響いている。
アーコロジー内部。その中でも上層階の特有の静寂。
人が居ない静けさというより、人が要らない静けさ。
私は身体を起こして、デスクの端に置いてある小さなケージを覗き込んだ。
ケージの中では、ジャンガリアンハムスターのジャンピーが、もそもそと毛づくろいをしている。
あの世界で私が作ったハムスターのNPC、ハムちゃんずの一角。
こいつだけは、現実にも存在する。
ハムスターはいい。
裏切らないし、裏切られない。
反抗したって、手に小さな穴が空くくらい。
ああ、本当に可愛い。実に都合のいい生き物。
私はケージの蓋を開け、そっと手を差し入れる。
ジャンピーがくんくんと匂いを嗅いだあと、小さな前足でよじ登って掌の上に乗った。
柔らかな毛の感触と、小さな体温が指先をくすぐる。
片手でジャンピーを包んだまま、もう片方の手でモニターを点け、メールを開く。
送信者:モモンガ。
件名:【ユグドラシル最終日について】
ユグドラシルのサービス終了が正式にアナウンスされた頃に届いたメールだ。
私は、少しだけためらってから本文を開く。
長い。……そして、呆れるほど丁寧。
ナザリックでの思い出。
皆で駆け抜けたレイド戦のこと。
形になるまで議論を繰り返した拠点設計のこと。
ログインできなくても、チャットに顔を出して笑い合った夜のこと。
それらを一つ一つ辿ってから、結びにこう書いてある。
――ユグドラシル最終日、よろしければ、ナザリックに集まりませんか。
私は、気になって少し裏の手を使った。
モモンガさんが、このメールを誰にどう送り、そして何が返ってきたのか。
モモンガさんは案の定、ギルドメンバー全員に、一通一通、しかも個人宛に内容を変えたメールを送っていた。
共通するのは、律儀さ。
不器用で、誠実で、じわっと重たい優しさ。
そして、それに反応したのは予想通りと言うべきか、ごく一部だけだった。
返信は数通。残りは無視。いくつかはエラーで返送。
あぁ、不憫だな、と私は笑う。
そして同時に、まぁ、そういうものだろう、とも思う。
楽しい時間は、確かにあった。
皆で同じ目的に熱中して、くだらないことを言い合って、全力でふざけて、全力で攻略した。
でもそれは、あくまで、過去だ。
同じようなゲームはいくらでもある。
もっと刺激の強い世界、もっと洗練されたUI、もっと自由度の高いコンテンツ。
人は飽きる。新しさに流れていく。
それだけの話だ。
モモンガさんと特に仲の良かった人の中には、モモンガさんを他のゲームへ誘う人もいた。
それに対するモモンガさんの返信を見て、私は苦笑する。
お誘いありがとうございます。
機会があればやってみますね。
行間から滲み出る、不信と拒絶。
――なんで捨てられるんだ? みんなで作ったナザリックじゃないか。あんなに大事にしてたのに。
そんなモモンガさんの声が、文字の隙間から聞こえる気がした。
――みんなには、他にも大事なものがあるんだよ。
心の中で、私は答える。
モモンガさんみたいに、ナザリックが“最初で最高で唯一”ってわけじゃない。
執着しているのは、モモンガさんだけ。
それだけのこと。
私?
私は――単純に、観察だよ。
壊れる瞬間が見れるかなって。
静かにひび割れて、そのまま元に戻らないのか。
ズレたまま走り続けて、いつか破綻するのか。
あっさり修復されて、何もなかったみたいに日常に回収されるのか。
手のひらで毛繕いをするジャンピーの背を、指でなぞる。
本物のハムスターを、現実で飼える人間は、もうほとんどいない。
この荒廃した世界で、生きたペットを持てるのは、アーコロジー上層の、そのまた上層。
本当の意味で選ばれた側の人間だけ。
そう。私みたいな。
私は、立ち上がって窓に近づいた。
自動調光のガラスが、灰色の外光を鈍く弾いている。
ロックを解除し、少しだけ窓を開ける。
手の中のジャンピーを、最後にそっと撫でた。
そして、ケージには戻さず、窓の外へと放す。
アーコロジーの内部なら、まだマシだ。
運が良ければ、誰かが拾うかもしれない。
運が悪ければ――まぁ、それはそれだ。
私は椅子に戻り、もう一度メールの文章を最初から読み直した。
ユグドラシルの最終日。
私は、何が起こるかを知っていた。
◇ ◇ ◇
ユグドラシルサービス終了当日。
私はナザリック地下大墳墓、第9階層にある庭園にいた。
自分で作ったNPCたちと一緒に。
ジャンガリアンハムスター ジャンピー
パールホワイトハムスター サンディー
ロボロフスキーハムスター マガジー
ゴールデンハムスター チャンピー
4匹揃って破壊神暗黒四天王、改め“ハムちゃんず”。
レベルは揃って20。
人の服の中に勝手に潜り込んで、襟元や袖から顔を出しては駆け回り、時々アイテムをかじる程度のイタズラをする。そんな設定。
なんて可愛い。なんて迷惑。最高。
……まぁ、全部設定なんだけど。
そして、彼らのお世話をするNPC――田中。レベル100。
悪魔族のくせに、スキル構成はブリーダーやテイマーなどのロールプレイ全振り。
実戦で使うには微妙どころか、ほぼゴミ構成。
ステータスはそれなりにあるのに、スキル構成のせいで台無し。カルマ値は、悪魔なのに善。
田中は、かつて一緒に遊んでいたギルメンの趣味が詰め込まれているNPCだ。
私は「ハムスターを作りたい」とだけ言った。
それだけの話だったはずなのに、彼は勝手に熱を上げて、細部にまでこだわったロールプレイ極振り悪魔を作り上げた。
完成した姿を見たとき、私は少しだけ悔しかった。
……だって、妙に気に入ってしまったから。
黒と灰のメッシュが入った髪。
肩から無造作にかけたストール。
その内側で、ハムちゃんずがもぞもぞと動いている。
「フハハッ! 恐れおののくがいい! これが破壊神暗黒四天王の力だ!」
そんなことをドヤ顔で叫びながら、ポケットや袖口からハムスターを取り出す。
そのモーションを、痛いと切り捨てるにはあまりにも完成度が高かった。
今、田中は庭園の片隅に腰を下ろし、ハムちゃんずに餌をやったり、毛づくろいの仕草をしたりしている。
プログラムされた動きのはずなのに、妙にリアルで、妙に微笑ましい。
……今日で終わりなんだけどな。
そんなことを思っていた時、視界の端でチャットウィンドウが点滅した。
『ヘロヘロさんが来ました。お話でもどうですか? 円卓の間にいます。モモンガ』
ヘロヘロさんね。
あの激務を掻い潜って、よくログインしたものだ。
あの人もだいぶお人好しだ。仕事も人間関係も、どっちも雑に捨てられない人間。
私は短く返す。
「適当に言っておいてください。私はハムスターを眺めるのに忙しいです。白夜嬢」
すぐに返信が来た。
『……そうですか。気が向いたら来てくださいね。モモンガ』
文字の行間に、肩を落としている骸骨の姿が透けて見える。
……こういうところが、本当に面倒くさい。
あれだけ丁寧なメールを送っておいて、当日ログインしてきたのはごく一部。
分かりきってた結果だ。
そして、現実に居場所がある人たちは、今日は来ない方がいい。
――ユグドラシルは、実験場に選ばれたのだから。
本来、私はここにいるべきじゃない。
実験台にされるべきなのは、何の価値もない貧困層の民であって、アーコロジー内の上層、しかも替えの効かない人材である私は、今日は近づくなと、正式に通達されていた。
DMMO-RPG。
ニューロン・ナノ・インターフェイスを用いた仮想現実。
その限界を広げるための、大掛かりな実験。
現実の使用者たちには知らされないまま、水面下で動いている計画。
私はそれを知っていた。
知ったうえで、ここに来ている。
◇ ◇ ◇
「田中。移動するから持ち上げて」
「御意。何処へ向かう?」
決められたセリフを、決められたトーンで。
田中は私の前に跪き、両腕を差し出す。
私の身体は、小さい。
天使族。身体はデフォルメされた胎児のような見た目。開発者の悪趣味が過ぎる。
白くツルッとした肌に、目は瞳孔まで全てが赤い。頭の上にある光輪と、首に嵌められた輪は金色に光っており、背中からは、四対、八枚の豪奢な白い羽が生えていた。
同種はゲーム内でほとんど見たことがない。
ナザリックの第8階層守護者の、ヴィクティムくらいだ。
ただ――田中に抱き上げられるこの移動方法は、案外嫌いじゃなかった。
「第7階層」
「承知した」
田中は私をそっと抱え上げる。
私の羽を傷つけることなく、しかし落ちないぎりぎりの力加減で。
いつの間にか、ハムちゃんずが田中の服の中に戻っていた。
袖口の隙間から顔を出し、胸ポケットに潜り込み、ストールの中で丸くなる。
視界の端でちらちら動くその姿が、どうしようもなく可愛い。
◇ ◇ ◇
第7階層。
業火に満ちた地獄の世界。
地面の割れ目からはマグマが滲み、空気は熱と煙でゆらゆらと歪んでいる。
そんな炎の世界の中央に、ストライプ柄の赤いスーツを着た悪魔が立っていた。
デミウルゴス。
ウルベルトが作ったNPC。
私は田中の腕からふわりと浮かび、デミウルゴスの正面に移動した。
宝石の瞳。知性と残酷さの混じった微笑。
その姿に、ふとウルベルトの影を見た気がして、胸の奥が少し痛む。
――デミウルゴスを完成させた、あの夜のことを思い出す。
地獄の景色を見下ろしながら、ウルベルトがぼそっと呟いた。
――現実もデミウルゴスみたいなやつが、全部ぶっ壊してくれればいいんだがな。
私は、それを横目で見ながら軽く言う。
――私がやってあげようか?
それは、からかい半分、本音半分。
もしもあの時、ウルベルトが本気で「頼む」と言っていたら、私は本当に、何かをやったかもしれない。
――……お前が言うと、冗談にならねぇんだよ。
ウルベルトは悔しそうに笑っていた。
思い詰めた目で、けれど、どこか楽しそうでもあった。
――まぁ、壊したらアーコロジーの中も外もまとめて、全滅して終わりかな。
私は、空気を軽くするように、そう言葉を濁した。
――……それじゃ意味ねぇんだよ。
――知ってる。
ゲーム内の地獄の風景が、現実の階層都市と重なって見えた夜。
あの空気だけは、やけに鮮明に覚えている。
ウルベルトは、もういない。
レジスタンスの蜂起。
私は、事前にそれを知っていた。
止めなかった。
彼が選んだ道を、ただ見届けた。
鎮圧側には、たっちみーがいた。
実際に刃を交えたのか、それとも遠くから見ていただけなのか。
その辺は報告書には載っていなかった。
知っているのは一つだけ。
――レジスタンスは、全滅したということ。
視界の端で、チャットウィンドウが点滅する。
「……ヘロヘロさん、お疲れのようで帰ってしまいました。
最後は玉座の間に行こうと思うんですが、白夜嬢さんも良かったら来ませんか? モモンガ」
ヘロヘロさん、寝落ちかな。
現実では、そのうち過労死しそうな人だから、ここに残ってくれたら面白かったのに。
そんなことをぼんやり考えながら、私は返信する。
「私は第7階層に、そのまま最後までいるよ。白夜嬢」
「……第7階層。……そうですか」
短い文が、間を空けて、いくつか届く。
「サーバー混雑して言えなくなるかもしれないので、先に言っておきますね」
「今までありがとうございました」
「俺、白夜嬢さんだけでも残っていただけて、良かったと思ってます。モモンガ」
最後くらい、気を使わずに「ギルマス権限」とか言って強制召喚でもすればいいのに。
まぁ、そういうことしないから、モモンガさんなんだけど。
私は苦笑しながら、指を動かす。
「また会うことがあったら、その時はよろしくね。白夜嬢」
さて、モモンガさんはどうなるかな。
私自身が無事で済むかどうかも、正直分からないけど。
――サーバーダウンまで、あと少し。
デミウルゴスの正面、炎と煙の中にふわりと漂いながら、私は心の中で呟く。
「……ゴメンね」
ナザリック。実験台にして、ごめん。
見殺しにして、ごめん、ウルベルト。
生きることから逃げて、ごめん。
君は、生きろって言ってたのに。
――サーバーダウン10秒前。
視界の片隅に、システムメッセージのカウントダウンが点滅する。
10
9
8
私は目を閉じない。
最後まで、見届けるために。
3
2
1
――サーバーダウン予定時刻が過ぎる。
しかし、暗転しない。
視界からUIが消える。
チャットウィンドウも、メニューも、ログアウトボタンも。
代わりに、五感が感じられる。
熱。
匂い。
音。
肌を刺すような乾いた風。
データとして処理していたものが、ぐにゃりと歪んで、自分のものとして、五感として直接流れ込んでくる。
異形のアバターの身体が、まるで、最初から自分の体だったかのように馴染んでいく。
同時に――
NPCたちが、動き出した。