NPCたちが、動き出した――その瞬間。
静寂が裂けた。
空気の重みが、さっきまでと別物になった。
本来なら、ここで「ブツッ」と世界がちぎれるはずだ。
ユグドラシルのサーバー落ち特有の、あの断絶。
画面が黒に溶けて、暗転して、現実の視界が勝手に差し込んでくるはずだった。
けれど今――私は、まだここにいた。
頭上の光輪が、キィン、と金属を爪で弾いたような音を立てる。
羽の根元を撫でる熱風。硫黄の匂い。肌を刺すような乾いた熱。
五感が、数値やエフェクトじゃなく、生として、容赦なく流れ込んでくる。
私は、呼吸をしていた。
肺が、勝手に空気を求めて収縮する。
胸が上下して、喉を風が抜けていく。
……馬鹿みたいに当たり前の動作を、ようやく取り戻した気分だった。
最初に動いたのは、目の前の悪魔だった。
「……何に対する謝罪でしょうか? 白夜嬢様」
デミウルゴスの声が、データ音声ではなく声として響いた。
鼓膜が震え、頭蓋の内側で反響する。
宝石のようなその瞳が、見えない誰かを探すように揺れる。
創造主の亡霊を、どこかに探しているような視線。
一瞬、その瞳が、ウルベルトが死ぬ前に私に向けてきた、あの眼差しと重なった、気がした。
息が詰まった。
喉が固まって、音が出ない。
胸の奥で、何か焼けた針みたいな感覚がズキッと疼いた。
私は、目をそらすように後ろを振り返った。
「主? どうしたんだ?」
控えていた田中が、困ったように眉をひそめる。表情筋の動きが、今までより生々しいのが少し腹立たしい。
ストールの端から、ハムちゃんずが顔をのぞかせていた。
サンディーが鼻をひくひくと動かし、チャンピーが毛玉みたいにふくらんでいる。
そのあまりの雑な可愛さに、思わず口元が緩んだ。
「……動いてる」
漏れた自分の声が、ちゃんと響いた。
胸の震えとして、喉の振動として、空気の揺れとして。
私はようやく理解する。
これは、成功だ。
現実世界の実験がどうなったかは知らないが、
――私は、賭けに勝った。
ただのログの延長でも、ラグったサーバーでもない。
ここにいる私は、もう現実と仮想の境界を跨いでしまっている。
「……現実の私は、死んだかな」
何気ない雑談みたいな調子で口にした一言で、空気に細かなひびが入った。
「それは、どういうことですか!?」
「主に危険が迫っているのか? 何をすればいい?」
田中とデミウルゴスが、同時に一歩踏み出す。
焦り、困惑、そして「守るべき対象」に向けた、獣じみた過敏さ。
設定されていないはずの感情の動き。
NPCの揺らぎ。
驚きよりも先に、観察者としての興奮が喉の奥を熱くした。
私は笑って、軽く手を振る。
「いや、君たちは気にしなくていいよ。今のは忘れて」
羽を、ぱさりと大きく広げる。
八枚の白い羽が空気を切って、熱風が渦を巻いた。
生き物の骨格に沿って動く、天使の羽。
ああ、面白い。本当に気持ち悪いくらい、よく出来てる。
田中は、私の言葉に素直にうなずき、一歩下がった。
だがデミウルゴスの瞳は、むしろ細く鋭くなった。
理解不能を「分かろう」とする揺らぎ。
それが、ウルベルトにそっくりで、笑いそうになる。
その時だ。
脳の奥、境目あたりが、ざらりと逆撫でされるような感覚。
《……白夜嬢さん! モモンガです! 聞こえますか!?》
モモンガさんの声。
けれどそれは、ゲームのチャット音声じゃない。
頭の中に直接届く、魔法の《メッセージ》。
《GMとの連絡が取れなくて! というかこれどうなってるんですか? NPCが自我を持っていて!
……。
すみません、取り乱しました。というか、これもなんなんですか? 気分が高ぶると、自動的に沈静化されるというか――》
沈静化。
……アンデッド特有の感情抑制か。
死んだ人間が、今さら感情のコントロールで困ってるとか、皮肉がききすぎていて笑える。
「アンデッドの特性じゃない? 状態異常無効化とかあったよね」
《あぁ、なるほど。種族特性までリアルに再現されてるんですね。……これ、ゲームですよね?》
「さぁ? 確かめてみれば?」
《確かめるって言ったって……》
「今ならBANされないから、なんでもやりたい放題だよ」
《は!? 白夜嬢さん、それは――!》
私は、そこで一方的にメッセージを切った。
……楽しい。
不安と違和感と期待が、ぐちゃぐちゃに混ざった空気。
これこそ、観察し甲斐がある状況だ。
「種族……種族。……ふむ、なるほど。そういうことでしたか」
目の前で、デミウルゴスがぽつりと呟いて顔を上げた。
宝石の瞳がひらめきの光を宿し、口元あたりが面白そうに吊り上がる。
「今ので、何か分かったの?」
「ここにいる田中と私。そして、アンデッドであるモモンガ様との会話。
……あぁ、白夜嬢様も罪深い。わざとですね?」
ふふ、と喉で笑う。
知性と忠誠と、ほんの少しの好奇心を混ぜた笑み。
ああ、ウルベルトの息遣いが、ちゃんと残っている。
「どういうことだ?」
田中が、素朴に首を傾げた。
瞳の色は魔族のものなのに、表情は妙に人間臭い。
デミウルゴスは一瞬だけ私を見て、「説明してもよろしいですか?」と視線で問う。
私は、軽く顎を引いて許可を出した。
デミウルゴスは誇らしげに胸を張る。
「我らのこの在り方を、モモンガ様は歓喜しておられます。何かしら、我らの知略では想像もつかない大いなる実験を行っておられたのでしょう。
そして今――ナザリックは生きている。至高の御方の意思に呼応して」
ご機嫌な顔だと思った。
世界は楽しいことで満ちている。そう信じて疑わない瞳。
ウルベルト本人は、もう少しグロい現実を見ていたはずだけどね。
「まぁ、あながち的外れでもないかもね」
私は肩をすくめて返した。
デミウルゴスの動きが一瞬止まり、田中が素直にこちらを見る。
「そうなのか?」
田中の設定、こんなに素直だったっけ。
……いや、そもそも私は詳細な設定なんて読んでなかったな、と今さら思い出す。
私が考え事をしている横で、二人の会話は勝手に盛り上がっていく。
至高の御方、という単語が多すぎて、真面目な顔で聞いていると笑いそうになる。
まぁ、いいか。
私は、羽を一度強くはためかせた。
業火の風が巻き上がり、二人はこちらを向く。
「ついさっきまで、君たちは死んでたんだよ」
私は言う。
「今さっき、生まれた」
デミウルゴスは、その場で片膝をつき、深く頭を下げた。
「申し訳ありません。白夜嬢様の御前で、己の浅慮を晒してしまいました。
……死んでいたとは、どういう意味でしょうか?」
その目には、忠誠と敬意。
それと、薄くにじむ、恋慕の色。
ウルベルトの意思が、設定行の隙間からじわじわ染み出している。
私は答えずに、田中へと近寄る。
「……ハムちゃんず、おいで」
私は羽を広げ、そのうち二枚を階段のように折り曲げる。
羽の階段は、田中の肩口まで伸びた。
ストールの中から、四匹の破壊神がぞろぞろと姿を現す。
「チュッ! チュッチュッ!」
ちょこちょこと階段を駆け上がり、私の目の前でぴたっと整列する。
赤い地獄の炎の中、謎のモフモフ行進。
デミウルゴスの高尚な空気を、一瞬で崩壊させる尊さだ。
「白夜嬢様に忠義を尽くす、と申しております」
田中が誇らしげに通訳した。
ハムスターはそんな難しいこと考えてないと思うんだけど、雰囲気は良いから黙っておく。
「ありがと、ハムちゃんず」
私は小さな両手で、毛玉たちを順番になでていく。
もふ、もふ。
指の間を抜ける柔らかさ。小さな体温。
……世界とか現実とか、どうでもよくなる。
ハムスターは正義。
視界の端で、デミウルゴスがこめかみに指を当て、誰かと《メッセージ》で会話していた。
「僭越ながら、白夜嬢様」
やがてデミウルゴスがこちらを向き、恭しく一礼する。
「守護者統括アルベドより連絡がありました。階層守護者は、第6階層へ集合せよとのことです。
白夜嬢様も、ご一緒に向かわれますか?」
「……モモンガさんか。うん、行こうかな。他のみんながどうなってるかも興味あるし」
「主、どうぞ」
田中が、当たり前のように腕を差し出した。
スクリプトで決まっていた命令待ちのポーズじゃない。
自分の判断で、私を運ぶことを選んだ、そんな自然な動きだった。
そのわずかな違いが、妙に気に入った。
私は田中の腕に身を預ける。
身体がふわりと持ち上がり、胸元に抱えられる。
デミウルゴスが、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
宝石の瞳に、かすかな熱が宿る。
……ウルベルト。
そういえば、あんたも嫉妬した時、絶対に「嫉妬した」とは言わなかったよね。
口では何でもないふりをして、視線だけ妙に泳がせるあれ。分かりやすくて、ちょっと可愛かった。
だから何も言わなかった。壊したくなかったから。
「では、参りましょう」
デミウルゴスが、田中に抱えられた私を見ないまま、先導するかのように前へ出る。
炎の海に、赤いシルエットを落として歩き出す。
田中の肩で、ハムちゃんずがちょこちょこと動き回る。
私は彼の腕の中で、光輪を少し傾けた。
ナザリックは――ユグドラシルは、この世界は、
0から生み出され、
永遠を彷徨う夢となった。