アベリオン丘陵の空気は、ナザリックのそれとはまるで別物だった。
湿り気を含んだ土の匂い。風に混じる、鉄さびみたいな血の臭い。ところどころで焼け焦げた皮膚の匂いが、鼻の奥を刺す。
一定の間隔で聞こえてくる悲鳴。
遠くのどこかでは誰かが泣き叫び、別の場所からは喉を潰したようなかすれたうめき声。
どう聞いても、健全なお散歩コースじゃない。
私は、白いワンピースの裾を指でつまんで、足元を見た。
白い肌。赤い瞳。金色の髪。
色の組み合わせは、元の白夜嬢のまま。
違うのは形だけだ。天使の胎児ではなく、人間の女の形。
指を絡めて、背筋をゆっくり反らす。
骨に肉がついて、皮膚が風に撫でられていく感覚。
血が流れているのが分かる。肺が膨らみ、空気が出入りしているのも分かる。
さっき田中に姿を見せた時、固まっていたのを思い出して、少し笑った。
――主は、どんな姿でも、主に変わりありません。
うん。そう、私は私だ。
視線を正面に向ける。
赤いストライプのスーツを着た悪魔が、丘陵の縁に立っていた。
デミウルゴス。
周囲に控える悪魔たちに、何やら命令を出している。声の抑揚からして、機嫌は良さそうだ。
私は、あえて足で地面を踏んだ。
飛ばない。浮かない。歩く。
土を踏む音を、聞かせるように。
「楽しそうだね?」
わざと軽い調子で声をかける。
デミウルゴスの肩が、ぴくりと跳ねた。
振り向いた彼は、一瞬だけ時間が止まったみたいに硬直して――
すぐに、眉をかすかに寄せた。
「……白夜嬢様?」
「そう。やっぱり分かるんだね」
私はその場でくるりと一回転してみせる。
白い布がふわっと傘みたいに広がり、足首あたりでひらりと落ちる。
「似合う?」
デミウルゴスは、ほんの一瞬、完全に悪魔の顔を忘れた。
「……っ」
視線が、顔から、首筋、肩、胸元、腰、足首へと、無意識に滑っていく。
そのことに本人が気づいた瞬間、慌てて視線を顔へ戻した。
女性として認識した。
番になり得る存在として、余計な条件が全部削ぎ落とされたのを自覚した顔。
そのすぐ近くで、彼の思考が急旋回しているのが分かる。
――異種族間の妊娠の研究。悪魔と人間の成功例。
――自分は悪の魔王として創造された存在。知略と残酷さの象徴。
――そこに誰でもない、自分としての視点が、割り込もうとしている。
私は、その混乱が手に取るように分かって、ちょっとだけ愉快になった。
口角が自然と上がる。
「デミウルゴス?」
わざと一歩、近づく。
人間の足音が、草を踏む音を連れて、彼の足元まで入り込む。
「この実験場の話、聞かせてくれる?」
彼は息を整えるみたいに一度目を伏せ、それから視線を丘陵全体へ滑らせた。
「……主目的は、スクロールの研究です」
声が、研究者モードに戻る。
「ユグドラシルでは、魔法の力を一度巻物に封じることで、MPの消費タイミングをずらしたり、非魔法職にも使用可能にすることが出来ました」
「ええ、知ってる」
「ですが、この世界のスクロールは質が悪く、低レベルの魔法しか込められません」
デミウルゴスは、離れた場所に隔離された人間たちを、手で示す。
拘束された人間。血まみれの布。皮膚が剥がれかけた手足。
「Lvが存在する生きた器から皮を剥ぎ、その素材を抽出してスクロールにする。
そうすることで、より高位の魔法を込められる媒体になるのでは、と」
淡々と、でも、楽しそうに。
「人間以外にも、魔力の強い亜種族、その混血。
それらを素材にすれば、さらに質の高いスクロールを作成できるかもしれません」
「後は?」
「……悪魔たちの娯楽も兼ねています」
ここで、少し口元が吊り上がった。
「人間の悲鳴を好物とする者も多いので」
さすが、カルマ値極悪のセリフ。
私は小さく肩を上げる。
「楽しそうだね」
「え?」
「デミウルゴスが、ね」
そう言うと、彼は一瞬だけ言葉を失った。
私は、軽く息を吐く。
「ここ、あの子の理想の一つだったんだろうなって思ってさ」
ウルベルト。
悪役を徹底することに愛を注いでいた、ひねくれた人間。
「カルマ値マイナス五百。悪行の塊。
……ただ欲のために搾取する、崇高な悪魔」
彼自身は多分、そこまで徹底できなかった。
だから、デミウルゴスを作った。
……何か?
と問うように、デミウルゴスがこちらを見る。
私は、少しだけ空を見上げてから、話題を滑らせるように切り出した。
「ウルベルトの話、してもいい?」
「……!」
宝石の瞳が、煌めくように開かれる。
私は、丘陵の向こう――かつての世界で見た灰色の空を、重ねるように眺めながら言葉を継いだ。
「ウルベルトは人間だった。私も、人間だった」
遠くの悲鳴と、昔聞いた怒号が、どこかで重なる。
「ウルベルトは、富裕層に切り捨てられる貧困層が、嫌いだった」
一本、指を立てる。
「何をしても変わらない前提で、下から這い上がろうとするレジスタンスも、嫌いだった」
もう一本。
「でも一番嫌いだったのは、何も感じない上の人間だったと思う」
ガラスで出来た高層階層と、その下で腐っていく街。
「彼は、貧困層出身」
私は、自分の胸を指先でコツコツと叩く。
「私は、富裕層出身」
生まれも階層も、真逆。
でも、そのうち、ウルベルトはこう言った。
――富裕層も貧困層も、なんか変わんねぇな。
あの、どうしようもない疲れた笑い方で。
「レジスタンスを起こす人間たちの気持ちも、私は分かる」
「何も変わらないまま死んでいくのも、知ってる」
世界は、そう簡単には変わらない。
「だから、ウルベルトは選んだ。
自分で火をつけて、自分で燃え尽きる道を」
レジスタンスの蜂起。
彼はそこに自分の人生を全部突っ込んだ。
「こういう搾取、嫌いだったのよ。あの人」
私は、人体実験に使われている人たちを一瞥した。
目を合わせてはいない。ただ、存在を認識しただけ。
デミウルゴスは、完全に固まっていた。
宝石の瞳が、大きく震える。
「……ウルベルト様は、そのような……」
彼の頭の中で、
悪の大魔王として設計された自分と、
人間としてのウルベルトの像が、派手にぶつかっている。
「ウルベルト様の、意にそぐわないことをしている私に……生きている意味など……」
視線が、自分の手の血に、足元の実験台に、遠くのナザリックに滑っていく。
「己の罪深さを鑑みれば、この身など――」
「デミウルゴス」
私は、その自己否定の流れを、真ん中で叩き切った。
歩み寄る。
今度は、本当に、距離を詰める。
そして――そのまま、ふわりと抱きしめた。
「……っ!?」
デミウルゴスの身体が、文字通り固まる。
硬質な悪魔の肉体。
それに、細い人間の腕。
アンバランスそのものなのに、抱きしめるという行為自体は、妙にしっくり来ていた。
彼の胸元で、何かがトクトクと脈打っているのを感じる。
これは、彼のか。私のか。
それとも、両方か。
「私は、今のデミウルゴス、好きだけどね」
彼の肩越しに、くすんだ空を見ながら言う。
「ウルベルトは、きっと」
「自分が作った悪魔が、自分の知らないところで、自分なりの倫理と矛盾を抱えて悩んでるって知ったらさ」
私は小さく笑う。
「……たぶん、すっっごい嬉しそうな顔するよ」
あいつは、そういうところでいちいち喜ぶタイプだった。
デミウルゴスの頭の中で、歯車がとんでもない速度で回っている。
理解。罪悪感。忠誠。理屈。
そして、名前のない感情。
それをどう整理するかは、彼次第だ。
私はそこまで面倒見るつもりはない。
腕を離す。
「……」
デミウルゴスは、何かを言おうとして、言葉を失っていた。
私は、その沈黙をあえてぶった切る。
「で」
くるっと一歩下がり、スカートの裾をつまむ。
「私のこの姿、どう?」
「……」
喉が、ごくりと鳴った。
「これなら、子ども作れるね?」
からかい半分、本音半分。
完全に遊んでいる。
デミウルゴスは、言葉の出し方を忘れたみたいに押し黙った。
「……っ」
「綺麗だ」と言えば、ほぼ告白。
「似合っている」と言えば、期待を孕む。
「番にふさわしい」と言えば、忠誠の枠を越える。
どの選択肢も、彼の中では全部重すぎる。
だから、呼吸ひとつすら、どうついたらいいか迷っている。
私は、その様子を見て、心底楽しそうに笑った。
今、この瞬間がちゃんと楽しい、と。
そう思った。
そこへ、デミウルゴスのこめかみがぴくりと動いた。《メッセージ》だ。
《……デミウルゴスか? モモンガだ》
頭の中に、骸骨の声が響く。
《白夜嬢さんがそっちに行ってると聞いたんだが》
デミウルゴスは、ようやく再起動したみたいに、口を開く。
《……ええ。いらっしゃってます》
《ならいいんだ。白夜嬢さんは弱いからな。一人で行動させないように。頼んだぞ》
デミウルゴスは、一瞬だけ横目で私を見てから、真面目な声で答えた。
《……承知いたしました》
「モモンガさん、なんて?」
聞くと、デミウルゴスは微妙に言いにくそうな顔をしながらも、隠さず答える。
「白夜嬢様を、おひとりで行動させないように、とのことです」
「過保護だなぁ」
私は肩を竦めた。
「こういうところだけ、ギルマス権限」
そう言った瞬間、ふと別の記憶が頭をよぎる。
◆ ◆ ◆
数日前。
守護者たちの前で、「番」とか「子ども」とかの話が盛大に話題になった。
いつまでたっても煮え切らないモモンガさんに私はイラついて、言葉をかけた。
「私が率先して誰かと子供を作ろうとすれば、モモンガさんもアルベド抱くのに抵抗なくなる?」
そう言った途端、耳をそばだてていた守護者たちが、一斉に反応した。
アルベドは、ギュッと拳を握り――
「っしゃああああああああああああああああ!!!!」
と、謎の雄叫びを上げ、
シャルティアはその場で膝から崩れ落ちて「負けた……」みたいな顔をした。
「ま、待て! 違っ、アルベド!? 落ち着け落ち着け落ち着け!」
モモンガは、鎮静系のスキルを連発しながら半泣きだった。
「白夜嬢さん……あの、お願いですから、これ以上アルベドを焚きつけないで……!」
「自分でいじったNPC設定の責任は、自分でとるべきだと思うんですよねー」
私は視線を逸らしながら、さらっと言った。
視界の端で、デミウルゴスがじっとこちらを見ていた。
目が合った。数秒。
先に逸らしたのは、私の方。
コキュートスがそこで、淡々と確認する。
「モモンガ様ハアルベド。デハ、白夜嬢様ハ?」
モモンガさんは話に被せるように
「そうですよ!俺はアンデッドなんだから、子どもを作るなら白夜嬢さんの方が!」
話をすり替えようとしてきた。
いい加減認めればいいのに、何が気に入らないんだか。
「えー……私、モモンガさんと違って、別にそういう好かれ方してないし」
私が投げると、モモンガさんはNPCたちの方へ振り向いて、
「田中とかデミウルゴスがいるじゃないですか。なぁ?」
田中は、いつもの中二テンションを完全にどこかに落としてきたようで、
「えっ……あっ、いや、その……」
「主は純白で神聖で……そのような欲など向けることすら……」
ストールを顔の半分まで引き上げ、ハムちゃんずが「キュッ」と鳴いていた。
デミウルゴスは、一瞬田中を睨むみたいに見るが、結局何も言わなかった。
ただ、無言で、こちらを見ていた。
◆ ◆ ◆
「……デミウルゴスはどう思った?」
私はアベリオンの風に戻りながら、目の前の悪魔に問いかける。
デミウルゴスは、少し長く黙った。
風が、血の匂いと焦げた匂いを運んで通り過ぎていく。
「……私は、ウルベルト様の理想から外れた存在、なのかもしれません」
やがて、慎重に言葉を紡ぎ始める。
「ですが――ウルベルト様が、最後に私に残してくださった言葉があります」
視線が、私の肩口あたりで止まる。
「……『白夜嬢――セレスのこと、よろしく頼む。俺には出来なかった。完璧なお前なら、きっと全部うまくやっちまうんだろうな』と」
肺の空気が、一瞬だけ止まった。
セレス。
現実世界でしか呼ばれなかった名前。
ウルベルトが、最期に誰かに託したとしても、おかしくないもの。
「詳しい事情は、存じ上げません」
デミウルゴスは、胸に手を当てた。
「本来、知るべきかどうかも分かりません」
「ですが、頼んだと」
「ならば、私は――」
そこで一度言葉を飲み込み、顔を上げる。
「今の私の在り方を、ウルベルト様に恥じぬよう、全うするだけです」
ほんと、真面目すぎる悪魔だ。
その笑みの端に、ウルベルトの影が少し混じった気がした。
私は少し笑った後、くるりと踵を返す。
「……さて。そろそろ戻ろうかな」
ナザリックへ。
モモンガのところへ。
田中とハムちゃんずが待っている場所へ。
転移のために魔力を練り上げようとした、その時。
「セレス様」
名前に、足が止まる。
振り返ると、デミウルゴスがそこに立っていた。
膝もつかず、頭も垂れず。
ただ、まっすぐに。
「今の白夜嬢様も。
ウルベルト様の話をする白夜嬢様も。
実験を面白がる白夜嬢様も」
一つ一つ、噛みしめるように。
「……私は、お慕いしております」
アベリオンの風が、二人の間を抜けていく。
悲鳴が、さっきより少し遠くに感じた。
「そう」
私は、短くそれだけ返してから、口元だけで笑った。
「じゃ、またね」
転移の光が、視界を白く塗りつぶす直前。
さっきより、少しだけ肩の力の抜けた顔で立つデミウルゴスの姿が、ほんの一瞬見えた。