相棒 ーー杉下右京に憧れた転生者がキヴォトスで刑事になる話ーー 作:ほくほく亭ともを
トリニティ総合学園、本校舎・特別迎賓室。
杉下サキョウが去った後の室内には、冷え切った紅茶の香りと、耐え難いほどの重苦しい沈黙が漂っていた。
「……っ、あの無礼者!!」
突如として、西園寺ルリがヒステリックな声を上げ、純白のテーブルクロスごとティーセットを床に薙ぎ払った。
ガシャアン!という陶器の砕ける鋭い音が部屋に響き渡り、琥珀色の液体が美しい絨毯に無惨な染みを作っていく。
「レッドウィンターの議長だか何だか知りませんけれど、たかが辺境の野蛮人が!この美しきトリニティの中心で、私に向かってあのような口を利くなど……許されませんわ!ナギサ!」
「……はい、ホスト」
背後に控えていた桐藤ナギサは、表情を一切変えることなく、静かに頭を下げた。砕け散ったティーカップの破片が彼女の足元まで飛んできていたが、一瞥もくれなかった。
「すぐに正義実現委員会のツルギを呼びなさい!ヴァルキューレがダメなら、我が校の武力でシスターフッドを制圧します!反逆の疑いでサクラコごと捕縛し、あの小賢しい小娘も不法侵入者として地下牢に放り込んでやりなさい!」
肩で息をするルリの姿を、ナギサは極めて冷徹な瞳で観察していた。
(愚かな……)
ナギサの胸中に渦巻いていたのは、ホストへの同情ではなく、決定的な失望だった。
サキョウの言葉が事実であれば、シスターフッドを物理的に破壊することは、ゲヘナの雷帝に「設計図」の残りを無防備に差し出す行為に等しい。外交問題などという次元を超え、トリニティそのものが灰燼に帰す可能性があるのだ。
「ホスト、恐れながら申し上げます」
ナギサは透き通るような声で、しかしはっきりと言い放った。
「現在、大聖堂にはレッドウィンターの最高議長が滞在しております。正義実現委員会を動かし、明確な証拠なく武力行使に及べば、レッドウィンター連邦学園との全面戦争をトリニティ側から仕掛けることになります。連邦生徒会も、最早我々を庇いきれないでしょう」
「っ……!では、どうしろと言うのです!このままあの小娘の好きにさせろと!?」
「いいえ。情報の精査が必要です。杉下議長が口にした雷帝の設計図……これがハッタリなのか、事実なのか。まずは私が情報部を動かし、裏を取ります。正義実現委員会は、あくまで『防衛拠点への配置』という名目で大聖堂周辺を包囲するに留め、物理的な侵攻は避けるべきです」
ルリは忌々しそうに舌打ちをすると、ヒールで床を強く踏み鳴らした。
「……いいでしょう。ただし、ナギサ。あなたの放ったスパイが役に立たなかったせいで、このような失態を演じたのです。必ず、シスターフッドの秘密を暴き出しなさい。それが次期ホストとしての、あなたのテストですわ」
「承知いたしました」
足早に部屋を去っていくルリの背中を見送りながら、ナギサは深く、暗い溜め息を吐いた。
彼女は己の胸に手を当てる。心臓の鼓動が、かつてないほどに早鐘を打っていた。
恐怖ではない。圧倒的な知性に触れたことによる、粟立つような戦慄だった。
杉下サキョウ。
あの小柄な女は、たった一杯の紅茶を飲む間に、ティーパーティーの権威を地に堕とし、ヴァルキューレの包囲網を解き、そしてナギサ自身の情報網の死角を完璧に突いてみせた。
「……毅堂キツハからの連絡が途絶えた理由、そして、シスターフッドの地下にあるという『設計図』……」
ナギサの瞳に、薄暗い疑心暗鬼の炎が宿る。
「誰も信じられない。西園寺ホストすらも。……私が、私自身の手で真実を暴かなければ、トリニティは終わる」
それが、後に疑心暗鬼の怪物と恐れられることになる桐藤ナギサという少女の、真の覚醒の瞬間であった。
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「……お見事でした、サキョウさん。ティーパーティーの監視網が、目に見えて後退しています。正義実現委員会が遠巻きに配置されてはいますが、あれは監視というより、威嚇に近いですね」
シスターフッド大聖堂、副代表室。
サクラコは窓の外、遠くの通りに展開し始めた黒と赤の制服の集団を見下ろしながら、安堵の息を漏らした。
ソファには、スリーピースのジャケットを脱ぎ、ワイシャツ姿になったサキョウが深く腰掛けていた。
「威嚇してくれているうちが華ですよ、サクラコさん。あの桐藤ナギサという生徒……あれは、上に立つ西園寺ルリよりもよほど厄介な頭脳を持っています。物理的な侵攻を止め、情報の遮断と包囲戦に切り替えた。彼女が設計図の裏を取る前に、我々は本命を見つけ出さなければなりません」
サキョウは手元の懐中時計の蓋を開け閉めしながら、部屋の隅で腕を組んでいるミネに視線を向けた。
「さて、サクラコさん。そしてミネさん。そろそろ、私に本当のことを話していただけませんか?」
サクラコの肩が微かに跳ねた。
「本当のこと……とは?」
「とぼけないでいただきたい」
サキョウの声は穏やかだったが、その響きには一切の逃げ道を許さない冷酷な重みがあった。
「二年前、白峰イノリが私をトリニティから遠ざけるために自ら罪を被り、そして隠した設計図。雷帝が欲しがり、ティーパーティーが恐れるもの。……あなたは、それがこの大聖堂のどこにあるか、おおよその見当がついているはずです」
沈黙が降りた。
ミネは悲しげに目を伏せ、サクラコは強く唇を噛み締めていた。
「……なぜ、そう思われるのですか?」
「大聖堂の廊下を歩いた時に、違和感を覚えたのですよ。歴代のシスターフッド代表、ならびに副代表の肖像画が飾られている美しい回廊。……しかし、そこには白峰イノリの肖像画だけが不自然に欠落していた。外された形跡もない。最初から飾ることを禁じられたかのように」
サキョウは立ち上がり、本棚に並ぶ古書を指でなぞった。
「そして、ヒナタさんが抱えていた大量の荷物。大聖堂の彫刻の模写、歴史のレポート、そして不釣り合いな重火器。彼女は物品管理責任者だと言っていましたが、あの重武装は単なる管理者のものではない。……開かずの領域を、物理的に巡回・防衛するための装備です」
サクラコは観念したように、深く頭を垂れた。
「……あなたの目は、本当に恐ろしい。イノリ様が、あの人だけには決して深入りさせてはならないと仰っていた理由が、今なら痛いほどわかります」
「サクラコ……」ミネが心配そうに声をかける。
「話しましょう、サキョウさん。あなたを巻き込むことになってしまった以上、隠し立ては無意味ですね」
サクラコは机の引き出しの奥から、一本の古びた真鍮の鍵を取り出した。
その鍵の頭には、ユリの花と、見慣れぬ歯車の意匠が組み合わされていた。
「シスターフッド自治区の地下深くに、『無名の聖徒の地下墓所』と呼ばれる封鎖区画が存在します。数世紀前、トリニティがまだ複数の分派に分かれて血みどろの抗争を繰り広げていた時代に作られた、巨大な地下遺跡です」
「カタコンベ……。そこに、イノリさんが何かを隠したと?」
「ええ。二年前のあの日、イノリ様は捕縛される直前、私にこの鍵を託しました。そして、こう言い残したのです。『もしゲヘナに雷が落ち、空が黒く染まる日が来たら、サキョウさんを呼んで。あの人にしか、この呪いは解けない』と」
サキョウの目が鋭く光った。
「呪い、ですか」
「雷帝が万魔殿の地下で作っている『アトラ・ハシースの模倣品』。あれは単なる破壊兵器ではありません。……周囲のキヴォトス人のヘイローの共鳴を強制的に引き起こし、生命力を抽出・変換する、禁断の装置です」
ミネが顔をしかめた。
「生命力を……?ちょっと待って、それって……!」
「そうです。雷帝ルシアは、意識不明の友人を目覚めさせるために、その装置を使おうとしている。ゲヘナ、あるいはトリニティ中の生徒のヘイローから微量ずつ生命力を吸い上げ、一人に注ぎ込む。……まさに、神をも恐れぬ外法です」
「なるほど」
サキョウは懐中時計のチェーンを指で弄んだ。
「しかし、設計図だけではその装置は完成しない。何か核となるパーツ、あるいはシステムが、そのカタコンベに眠っているわけですね」
「その通りです。イノリ様は、その核に繋がる扉を物理的に封印し、二度と開かないように暗号をかけました。……ですが、ここ数日、カタコンベの入り口周辺で、奇妙な振動と熱反応が検出されています」
「ゲヘナの工作員が、すでに地下から掘り進んで侵入している可能性がある、と」
「はい。ティーパーティーに知られれば、彼女たちは核ごとカタコンベを爆破しようとするでしょう。そうなれば、地下に張り巡らされた古代のエネルギー脈が暴走し、トリニティの半分が吹き飛びます」
サキョウは静かに息を吐き、キャスケットを被り直した。
「事情はすべて理解しました。やはり、細かいところを気にして正解だったようですねぇ」
「サキョウさん……?」
「行きましょう、サクラコさん、ミネさん。その無名の聖徒の地下墓所へ。ゲヘナのネズミどもがチーズを齧り切る前に、我々で罠を張らなければなりません」
サキョウの瞳には、かつてイルミナティの街で難事件を解決してきた時と同じ、冷たくも熱い探偵の光が灯っていた。
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大聖堂の祭壇の裏、分厚い石板の隠し扉を抜けると、空気は一変した。
湿った土と、長い年月を経て風化した石の匂い。そして、肌を刺すような冷たい冷気が、螺旋階段の下から這い上がってくる。
先頭を歩くミネが、タクティカルライト付きのシールドを構えながら周囲を警戒する。その後ろをサキョウが歩き、最後尾をサクラコがアサルトライフルを抱えて守っていた。
「暗いし、カビ臭いし……最悪の場所ね」
ミネが顔をしかめながら呟く。
「お静かに、ミネさん。音が反響しますよ。それに……」
サキョウは立ち止まり、壁の松明を立てるための金属製の燭台に触れた。
指先には、うっすらと新しい煤が付着している。
「……つい最近、誰かがここを通っていますねぇ。それも、我々と同じように、明かりを頼りに」
「やはり、ゲヘナの工作員が……?」サクラコが銃を構え直す。
「足元に気をつけてください。プロの仕業なら、トラップの一つや二つ、仕掛けてあってもおかしくありません」
三人はさらに地下深くへと進んでいく。
やがて、通路は開け、巨大な地底湖を擁する広大な洞窟へと出た。
洞窟の奥には、天井まで届くほどの巨大な青銅の扉がそびえ立っている。その表面には、トリニティの意匠である天使の羽と、不気味な幾何学模様がびっしりと刻み込まれていた。
そして、その扉の前には――。
「……先客がいらっしゃるようですねぇ」
サキョウの言葉に、ミネとサクラコが即座に身構える。
青銅の扉の前で、携帯用のバーナーと爆薬を仕掛けている数名の影があった。
黒いコートに、顔を隠すガスマスク。ゲヘナの風紀委員でも、万魔殿の親衛隊でもない。
「あれは……キヴォトスの裏社会で動く、フリーの傭兵部隊ヘルメット団の精鋭……いや、装備の質が違います。ブラックマーケットのプロフェッショナルですね」
サクラコが小声で分析する。
「雷帝が金で雇った猟犬、といったところでしょう。……おや?」
サキョウは目を細めた。
傭兵たちの一人が、爆薬の配線を終え、起爆スイッチを持ったまま扉の表面を撫でている。
しかし、その手が不自然に震えていた。
「……彼ら、扉を開けようとしているのではありませんねぇ」
「え?」
「扉を破壊しようとして、躊躇しているのです。イノリさんがかけた暗号があまりにも複雑で、物理的に突破するしかなくなった。しかし、扉に仕掛けられた防衛機構のヤバさに気づき、手を出せずにいる」
サキョウがそう推理した直後だった。
傭兵のリーダーらしき女が、苛立ち紛れに起爆スイッチを押した。
「伏せて!!」
ミネが叫び、巨大なシールドでサキョウとサクラコを覆い隠す。
轟音。
しかし、それは爆薬が扉を吹き飛ばす音ではなかった。
爆発の閃光が青銅の扉に触れた瞬間、扉の表面に刻まれた幾何学模様が眩い青白い光を放った。
空間そのものが歪むような、嫌な高周波の音が洞窟に響き渡る。
「な、なんだこれは……ぐぁぁっ!?」
傭兵たちが次々と頭を抱え、膝から崩れ落ちた。彼らの頭上にあるヘイロー(もし彼女らがキヴォトスの生徒であれば)が、不自然に明滅し、激しいスパークを散らしている。
それは、物理的な爆発ではなく、ヘイローに直接干渉する指向性のエネルギーショックだった。
数秒後、光が収まると、傭兵たちは泡を吹いて気絶していた。
「……無事ですか、お二人とも」
ミネのシールドの陰から顔を出したサキョウは、倒れた傭兵たちを一瞥し、そして静かに青銅の扉を見上げた。
「これが、白峰イノリの遺した封印……。力任せにこじ開けようとすれば、侵入者の生命力そのものを刈り取る、最悪の防衛機構というわけですか」
「イノリ様は……これほど恐ろしいものを……」サクラコが息を呑む。
「彼女は、決して開けさせないためにこれを造ったわけではありません」
サキョウは気絶した傭兵たちを跨ぎ、青銅の扉の正面に立った。
扉の中央には、複雑なダイヤル式の鍵穴と、古トリニティ語で書かれた銘板が嵌め込まれている。
「開けさせないためなら、ただ埋め立てればいい。暗号を残したということは、正しい鍵を持つ者には開ける権利を与えたということです」
サキョウは懐中時計を取り出し、その裏蓋を開けた。
そこには、かつてイノリが密かに彼に託した、小さな紙片が隠されていた。
「『天の光が私たちを守り、この尊い姉妹をその庇護のもとに置いてくれますように』……。シスターフッドのあの合言葉。あれは単なる挨拶ではなく、この扉を開くための鍵のヒントだったのですよ」
サキョウの細い指が、青銅のダイヤルに触れる。
カチリ、カチリと、迷いのない手つきでダイヤルを回していく。
「天の光……星の軌道を示す天文学的数値。尊い姉妹……シスターフッドの創設に携わった聖徒たちの数。そして、庇護のもとに……」
サキョウの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「実に彼女らしい、美しい数式です。……開きますよ」
最後のダイヤルがカチリと音を立てた瞬間。
青銅の扉が重々しい地響きとともに左右に開くと、数百年間閉じられていた空間から、想像を絶するほどの清浄な空気と、淡い金色の光が溢れ出した。
「これは……」
シールドを構えていた蒼森ミネと、アサルトライフルを握りしめていた歌住サクラコが、思わず言葉を失い立ち尽くす。
扉の奥の空間には、無数の水晶の柱が立ち並び、その中央の祭壇には、空中に浮かぶようにして一つの巨大な水晶球が鎮座していた。水晶球の中では、まるで心臓のように脈打つ、黄金色の光の奔流が閉じ込められている。
「『エデンの心臓』……。古文書にのみ記されていた、トリニティの大地そのものを支える原初のエネルギー・コア。まさか、実在していたなんて」
サクラコが震える声で呟いた。
「これが、雷帝の求めている『核』。これをアトラ・ハシースの模倣品に組み込めば、キヴォトス全土のヘイローを吸い尽くすことも可能になるでしょう」
ツイードのスリーピースに身を包んだ小柄な少女__杉下サキョウは、キャスケットのつばを軽く押し上げ、祭壇に近づいた。その足元に置かれた一冊の黒い革装丁の手帳を拾い上げる。表紙には、白峰イノリのサインが刻まれていた。
「イノリさんの手記ですねぇ。……やはり、彼女はすべてを知っていた」
サキョウが手記を開こうとした、その時。
パチ、パチ、パチ、と。
背後の暗闇から、場違いな拍手の音が響いた。
「素晴らしい推理力。そして、見事な鍵開けの腕前ね。……さすがは、シスターフッドの暗部を暴いた眠れる森の熊といったところかしら」
サキョウがゆっくりと振り返る。
ミネとサクラコが即座に武器を構え、暗闇を睨みつけた。
暗闇から姿を現したのは、先ほど気絶した傭兵たちとは全く異なる、小柄だが圧倒的な威圧感を放つ一人の少女だった。
黒と赤を基調とした軍服。冷徹なまでに整った顔立ち。そして、背中にそびえる巨大な漆黒の翼。彼女の身体の半分ほどもある巨大な機関銃が、無造作に片手で握られている。
「……おや」
サキョウは目を細め、懐中時計をパチンと閉じた。
「ゲヘナ学園、風紀委員会の……空崎ヒナさんですねぇ。このようなトリニティの地下深くに、ゲヘナの風紀委員が単独でいらっしゃるとは」
冷たい地下の空気が、ヒナの放つ魔力によってさらに温度を下げたように感じられた。
「……その手帳と、後ろの心臓。私に渡しなさい。偉大なる雷帝の名において、私が回収する」
ヒナの紫色の瞳が、獲物を狙う猛禽のようにサキョウを捉えていた。
ミネが一歩前に出る。
「ふざけるな!ゲヘナの風紀委員が雷帝の使い走りだなんて、誰が信じるものか!この聖域をこれ以上荒らさせるわけにはいかない!」
「ミネさん、お待ちください」
激昂するミネを片手で制し、サキョウはフフッと静かに笑い声を漏らした。
「どうしました、サキョウさん?」サクラコが怪訝な顔をする。
「いえね。少しばかり、細かいところが気になってしまうのが私の悪い癖なのですが……」
サキョウはヒナに向かって、ゆっくりと歩み寄った。一切の武力を持たない小柄な少女が、キヴォトス最強クラスの武力を持つヒナの射程圏内へと、臆することなく足を踏み入れる。
「空崎ヒナさん。あなたは嘘をつくのが、あまりお上手ではないようだ」
「……どういう意味?」
ヒナの機関銃の銃口が、ピタリとサキョウの胸元を狙う。
サキョウは銃口を突きつけられたまま、指を一本ずつ立てていった。
「第一の矛盾。 あなたは『雷帝の名において』と言いました。しかし、厳格な規律を重んじるゲヘナの風紀委員が、無法の限りを尽くすあの雷帝の配下に下るなど、あり得ない。あなたのその誇り高い瞳が、何よりの証拠です」
ヒナの眉が、微かにピクリと動いた。
「第二の矛盾。 ここはトリニティの最深部、シスターフッドの聖域です。いくらあなたでも、単独でここまで無傷で潜入するのは不可能です。ティーパーティーの監視網、そして先ほどまで大聖堂を包囲していたヴァルキューレの網を、どうやってすり抜けたのか?」
サキョウの翡翠色の瞳が、ヒナの紫電の瞳を射抜く。
「そして、第三の矛盾。 そもそも雷帝は、すでにヘルメット団の傭兵たちをここに送り込んでいました。雷帝があなたを差し向けたのなら、なぜ味方であるはずの傭兵たちと連携を取っていないのです?あなたは彼らが倒れるのを、ただ暗闇で待っていた」
サキョウは手元の懐中時計を弄びながら、決定的な一言を放った。
「あなたは雷帝の使いではない。むしろ、雷帝にこの心臓を渡さないためにここに来た。……違いますか?」
ヒナは無言のまま、機関銃の安全装置を外した。カチャリ、という冷たい金属音が洞窟に響く。
「……仮にそうだとして、あなたに心臓を渡す理由にはならないわ、杉下サキョウ」
「ええ。ですが、問題はあなたが誰と結託しているかです」
サキョウはヒナの背後、暗闇の空間を指差した。
「ヴァルキューレの動きを制御し、ティーパーティーの監視の目を欺き、ゲヘナの風紀委員であるあなたをこの場へ導ける存在。……そんなことができるのは、キヴォトスでただ一つの組織しかありません」
ミネとサクラコが、息を呑む。
「連邦生徒会……。あなたは、雷帝よりも先に心臓を手に入れるため、連邦生徒会と裏で手を結んだのですねぇ」
沈黙が降りた。
地底湖の水滴が落ちる音だけが、やけに大きく響く。
やがて、ヒナは深く、重い溜め息を吐いた。
「……本当に、底意地の悪い人ね。あなたのその頭脳、連邦生徒会が危険視するのも頷けるわ」
ヒナは銃を下ろすことはなかったが、その口調からは先ほどの偽りの威圧感が消え、代わりに彼女本来の、年齢にそぐわない深い疲労感が滲み出ていた。
「その通りよ。私は連邦生徒会から情報とルートの提供を受け、単独でここに潜入した。目的は、雷帝ルシアの暴走を止めること。あいつにこのエデンの心臓を渡せば、ゲヘナはおろか、キヴォトス全体が崩壊する」
「だから、連邦生徒会に引き渡すと?あの一年生が実権を握りつつある、得体の知れない組織にですか?」
サキョウが冷ややかに問う。
「連邦生徒会が何を企んでいようと、雷帝に渡るよりはマシよ。私は風紀委員として、最悪の事態を防がなければならない」
「実に健気な自己犠牲の精神ですねぇ。しかし……」
サキョウの声音が、一段と低く、鋭くなった。
「あなたは連邦生徒会という組織の恐ろしさを、まだ理解していないようだ。彼女たちが、ただ平和のためにこの心臓を保管すると思いますか?雷帝のアトラ・ハシースと、このエデンの心臓。連邦生徒会は、双方を天秤にかけ、最終的に、すべてを自分たちの支配下に置くための盤面を整えているに過ぎない」
「……っ!」
「二年前、シスターフッドの真実が握りつぶされた時もそうでした。連邦生徒会は、常に正義という名の布を被って、最も冷酷な選択をする。空崎ヒナさん、あなたは今、雷帝という怪物を止めるために、別の巨大な怪物に餌を与えようとしているのですよ」
ヒナは強く唇を噛み締めた。
彼女の心の中に、痛いところを突かれた動揺が走る。連邦生徒会との取引が、決してクリーンなものではないことなど、この利発な少女が気づいていないはずがなかった。
それでも、他に手段がなかったのだ。
「……御託はいいわ。私は私の信じるものを守るだけ」
ヒナが再び銃を構え直した瞬間、サクラコが一歩前に出て、サキョウを庇うように立ち塞がった。
「させません。これは私たちシスターフッドの、そしてトリニティの遺産です。外部の者、ましてや連邦生徒会の犬に渡すわけにはいきません!」
「サクラコ、私もやるわ。あの大きな羽むしり取ってやる!」ミネもシールドを構え、戦闘態勢に入る。
一触即発。
圧倒的な火力を持つヒナに対し、トリニティ屈指の実力者であるミネとサクラコ。激突すれば、この地下遺跡そのものが崩落しかねない。
「おやめなさい、お二人とも」
サキョウの静かな、しかし絶対的な命令が、その場を凍りつかせた。
「サキョウさん!?しかし!」
「ここで戦闘になれば、連邦生徒会の思う壺です。ヒナさんが我々を制圧しようと、我々がヒナさんを退けようと、上にいるティーパーティーとヴァルキューレがその隙を突いて雪崩れ込んでくる。……そうなれば、心臓は確実に奪われます」
サキョウはヒナに向き直り、手に持っていたイノリの手記を軽く振って見せた。
「ヒナさん。あなたに一つ、取引を持ちかけましょう」
「……取引?」
「ええ。あなたが連邦生徒会に持ち帰るべきはエデンの心臓ではない。この手記のコピーです」
サキョウは手記のページをパラパラと捲った。
「ここには、エデンの心臓の構造、およびアトラ・ハシースの模倣品に関する重大な欠陥が記されています。雷帝がこれを知らずに心臓を組み込めば、システムは自壊する。……つまり、心臓の現物を奪わずとも、雷帝を止める手段は残されているのですよ」
ヒナの瞳が、驚きに見開かれた。
「そんな情報が……?」
「連邦生徒会には、この情報の一部だけを渡しなさい。そうすれば、彼女たちもすぐには動けなくなる。その間に、我々が心臓をさらに安全な場所へと隠匿します。レッドウィンターの最高議長たる私の権限を使えば、外交特権の手荷物としてキヴォトス全土の目を欺くことも不可能ではない」
「私に……連邦生徒会を裏切れと言うの?」
「裏切るのではありません。利用するのです。あなたが本当に守りたいものがゲヘナの、ひいてはキヴォトスの未来であるのなら、誰かの引いた盤面の上で踊らされるのはやめにすることですねぇ」
サキョウは真っ直ぐに、ヒナの目を見つめた。
その小柄な少女の瞳の奥には、かつて幾多の陰謀を打ち砕いてきた、揺るぎない信念と知性が燃えていた。
ヒナは数秒の間、サキョウの瞳と、そして背後で輝く黄金の水晶球を交互に見つめていた。
自分一人で、すべてを背負おうとしてきた一年生の風紀委員。彼女の張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「……あなたの言う通りにしても、雷帝が止まる保証はないわ」
「ええ。ですが、最悪の結末を先延ばしにし、新たな一手を打つ時間は稼げます」
カチャリ。
ヒナは機関銃の安全装置を戻し、重い銃身を背中へと担ぎ直した。
「……いいわ。あなたのその悪い癖に、今回は賭けてみる。だけど、もしあなたが約束を破り、この心臓を悪用しようとした時は……」
ヒナは漆黒の翼を広げ、鋭い殺気を放った。
「次こそ、私があなたを撃つ」
「肝に銘じておきましょう」サキョウは優雅に一礼した。
サキョウは手記から必要なページを素早く抜き出し、ヒナへと手渡した。それを受け取ったヒナは、一度だけミネとサクラコを一瞥し、音もなく暗闇の中へと消えていった。
「……いってしまいましたね」
サクラコが、ほうと安堵の息を吐く。
「ええ。しかし、これで時間が買えたに過ぎません。連邦生徒会も、ティーパーティーも、そして雷帝も、すぐに我々の思惑に気づくでしょう」
サキョウは振り返り、黄金に輝くエデンの心臓を見上げた。
「さあ、急ぎましょうお二人とも。この大きな忘れ物を、彼らの手の届かない場所へ運ぶための大仕事が待っていますよ」
杉下サキョウの唇には、不敵な笑みが刻まれていた。
真の盤面は、ようやくここから始まるのである。