冥様の為なら死ねる 作:ミズアメ
―――ゴドン!
鈍い音が響き渡った。頭が割れていてもおかしくはない。
「よし、決まった! って、マジ……―――!?」
確かな手応えがあった。
だが、嗣郎は立ち上がった。
「今のを受けて立ってられるの? 随分と頑丈な奴ね」
「…………」
軽口に嗣郎は答えない。
それもその筈だ。嗣郎は明らかに満身創痍。立っているだけで精一杯という風情だ。
頭は不安定に揺れ、膝も笑っている。先の一撃には、それほどの威力があった。もしも地面がアスファルトやコンクリートで舗装されていたなら、間違いなく死んでいただろう。
頭部の傷から流れ出した血が、嗣郎の顔を濡らした。
滴り落ちる血で、白いスーツがみるみると汚れていく。
「だけどもう、立っているだけでやっとみたいね。そのまま大人しくしててくれない?」
「…………け、がって……」
「は? なに?」
「―――ふざけやがって。ふざけやがって、ふざけやがって……! クソ! クソ! クソ! この餓鬼が……ッ!」
怨念と激情で糸目をカッと見開き、嗣郎は呪詛を吐く。
緑色の瞳は不安定にブレ、瞳孔が開き切っている。強膜は真っ赤に血走っていた。その様子からは、先程までの飄々とした余裕のある態度の面影が全く感じられない。
凄まじい怒気。
全身から噴出する怒りはそのまま呪力となり、堰を切って怒涛の如く溢れた。
「来い、『斑尾』―――ッ!」
《―――ガゥ!》
主の招集に応じ、冥冥や四羽の
成人男性の倍近い体躯の斑尾が、覆い被さるようにして嗣郎の肩に寄り掛かる。
練り上げられる莫大な呪力。
「―――――」
《―――――》
嗣郎は右手を高く掲げ、もう一方の手を腹の前で垂らす。
その両方の手に、式神である斑尾の手が重なる。斑尾は主の左肩に胸を預けた体勢から、脇を回り込ませて右手を重ね、掲げられた右手に自身の左手を添えた。
右手と左手。
左手と右手。
人と獣。
術者と式神――両者の手が、呪力が、密接に絡み合う。
その姿は、二面四臂の姿で伝えられる仮想の鬼神――両面宿儺を彷彿とさせるものだった。
上の掲げられた手は緩く膨らませた状態で指先を合わせ、中指だけが左右に離れ広げられている。
下に垂れた手は、犬の頭を象った形。
否、正確には馬だ。中指と小指は立たせ、人差し指と薬指は第一関節で折り曲げて指の背中同士を合わせていた。そして親指だけが左右に広げられている。
上は勢至菩薩印。
下は馬頭観音印――その変形。
やや変則ではあるが――呪術戦において、その
(不味い―――!)
嗣郎と斑尾の意図を察知し、甚弥もまた掌印を結ぶ。
素早く、迅速に。中指、薬指、小指を内側に握り込み、人差し指だけ立てて指の腹を合わせる。そして親指を握った掌の内部に押し込んで、それぞれ左右の薬指の側面を押す。
急いで呪力を練り上げるが、果たして間に合うか―――
「領域展―――――」
「―――――おいおい、こんなガキ共相手になにやってんだよ」
唐突に、冷や水を浴びせられた。
ドスが利いて低く、しかし艶のある男の声。
嗣郎が、甚弥が。驚愕に目を見開く。そして勢いよく振り返り、山頂の入り口を凝視した、
悪い虫の報せを受けた――そんな様子だ。
そして冥冥の烏――四羽の鴉鴉達の様子もおかしい。まるで獰猛な獣が近付いてきているかのように、怯えている。巨躯の威容はどこへやら、その姿はただの烏にしか見えなかった。
しかし、冥冥だけは、何も感じ取ることが出来ない。
現れたのは―――
急勾配の岩山を、鎖を使わずに――それも悠々と歩きながら姿を見せた男。
その男は服の上から分かるほど筋骨隆々な身体をしている。その佇まいからして、ただ者でないことは明らかだ。だが、それ以上に冥冥が驚いたのは―――
呪力が、無い。
冥冥は改めて、男を注意深く観察する。
年齢は二十代の前半。着ているのは黒のスウェットシャツと、ゆったりとした同色のズボンのみ。短く切られた黒い髪と同色の眼。童顔気味な甚弥とは違い目付きが鋭いが、顔立ち自体は似通っている。そして口元の右側には、特徴的な切り傷の跡がくっきりと残っていた。
その男は、紛れもなく―――
「ゲェ―――!
―――禪院甚弥の腹違いの兄、禪院甚爾であった。
「よお。久し振りだな、甚弥」
言うや否や、甚爾の姿が消えた。
有り得ないほどの素早い動き。疾風迅雷の体捌きによって、数メートルもあった彼我の距離を一瞬で零にした上、気付いた時には既に冥冥の四方を護っていた鴉鴉四体の首が圧し折られていた。
更に甚爾は、追撃の姿勢を取っている。
体勢を低く。握り固めた拳を、矢弓の如く引き絞った様。次の瞬間には放たれるであろうソレからはやはり欠片ほどの呪力も感じられなかったが、それが直撃すれば命はないだろう、と冥冥は本能で察した。
「な……―――」
「冥様ァアッ!」
二人の間に、甚弥が割って入る。
これもまた有り得ない瞬身だ。離れた位置で戦っていた筈の甚弥だが、今は冥冥の目の前にその姿がある。
甚爾が拳撃を放つ。
巌の如く硬く、岩よりも重い拳が、甚弥の
一切の躊躇なく拳を振り抜く甚爾。
甚弥は後ろに庇った冥冥ごと岩山の上を吹き飛んだ。二人は一度も地面に接触することなく山頂の景色を滑空し、実に標高1982メートルの高山の崖から命綱もなしに落下した。
「フン……」
詰まらなさそうに鼻を鳴らす甚爾。
彼は何の感慨もなく、踵を返して歩き出す。
「……情けを掛けたのですか?」
擦れ違う間際、嗣郎が言った。
問い質すというよりも咎めるニュアンスを多分に含んだ剣呑な一声であったが、当の甚爾に気にした様子はない。それでも足を止めて、会話に応じはしたが。
「情け? ハッ、俺は知らねぇよ、あんなヤツ等。俺は他所の家に婿入りした身だ、もう禪院家とは何の関係もねぇ。ただ単に、テメェがあんまりにも手間取ってたから手伝ってやっただけだ。俺に殴られた上、この高さから落ちたんだ。さっきの連中も生きちゃいねぇよ」
言っていることに嘘はない。
実際、先程の殴打に手心など一切なかった。岩肌の高山から落ちて、生きている筈がないというのももっともだ。
だが―――
「そもそも仕事はもう終わってんだろ? とっとと降りるぞ。ここの眺めにももう飽きた」
「……随分とよく喋りますね。腹違いとはいえ、妹を
「……あン? 何か言いたいことがあるなら、はっきり言ったらどうだ?」
「フン、別に? ―――斑尾」
主の差し出した手に、斑尾は何かを吐き出した。
暗黒を形にしたように黒いソレ。それは干涸び、細長く湾曲した肉の管だった。
異形化した内臓の木乃伊。
それこそが、彼等が回収すべく求めた呪物である。
特級呪物――彼の両面宿儺の指と同じ、平安時代の呪術師の成れの果て。その一部だ。
「十二指腸、といったところでしょうか」
つぶさに観察して検めてから呪物を仕舞う。それから入れ替わりにスーツのズボンからハンカチを取り出し、嗣郎は顔の血を丁寧に拭った。
嗣郎は「さて」、と告げて、一旦途切れた話題を繋ぎ直す。
「貴方の言う通りです。先程は些か、私も熱くなり過ぎました。当初の仕事も済んでいることですし、この場はこれで良しとしましょう。―――
「…………」
「消えなさい、『斑尾』」
汚れたハンカチを放り捨て、嗣郎は自らの式神の頭を撫でた。
すると斑尾の姿が霊のように掻き消える。
嗣郎は怪我などしていないかのように、悠々と下山していく。
釈然としないものを感じつつも、甚爾はその後を追う――が、一度だけ足を止めた。そして甚弥と冥冥が消えて行った空を見やる。
―――――とーじ! いっしょにスマブラやろ!
鬱陶しい餓鬼だった。
禪院家前当主の妾の子。腹違いの妹。しかし呪術の才能に恵まれ、兄弟の末っ子で且つたった一人だけの女児であったことから、蝶よ花よと愛でられて、一切の不自由なく育った糞餓鬼。
禪院甚弥は、呪力が全く無い肉体を持って産まれた甚爾とは全く対称な、ただ血が繋がっているだけの他人だ。
だから虐め、嬲った。
しかし――どれだけ殴っても、金を巻き上げても。
嫌な顔一つせず、懲りもせず。アヒルみたいにニコニコと笑って後を付いてくる。その存在が、ただただ鬱陶しかった。
だが―――
あの家に、一切の悪意なしに好き好んで甚爾に近付く者が何人いたか。あの家に、甚爾を名前で呼んで人として扱う者が何人いたか。あの家に、甚爾を嘲笑うことなく、屈託のない笑顔を向ける者が何人いたか。
血こそ繋がっていようとも。
家族と呼べるような者が、あの家にいたか―――――
「―――――ハッ、らしくもねぇ」
感傷、という嗣郎の言葉が脳を過る。
それごと、甚爾は過去の記憶を振り払って歩き出した。
次、会ったら殺す。
特に意味も理由もなく。伏黒甚爾は、そう決めた。