ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#42 "BYE x GAME -バイバイゲーム-"

 

 

 

 

 ——とはいえ、こいつを連れて前に出るわけにはいかなかった。

 

 

 おまけにこの場の法則(ルール)とやらもまだよくわかってねーし……、

 

 

「こりゃ骨が折れそうだな……ロビン。しばらく下がってろ」

 

 目が「嫌だ」と言っているが、怪我(ケガ)させるわけにいかねぇんだよ。わかれ。

 

「お前にしかできねぇことが絶対(ぜってぇ)ある。そんとき頼むわ。それまで、——俺のカッコいいとこでも目離さず見とけ」

 

 その言葉で、ようやくロビンは小さく、(うなず)いた。

 

 背を向ける。

 

 正直、何ができるのやらって感じだが、まっ、

 

 

 ——よく言うよな。考えるより、走れと。

 

 

 なので考えるより先に、足が地面を蹴っていた。琥珀色(こはくいろ)の大地が靴の裏で鳴る。胸の傷はまだ完全に(ふさ)がっちゃいない。走るたびに胸の内でトキメキではない何かがもぞもぞと動いている——キモいのは変わらねーけど、止まる理由にはならない。

 

 (コブシ)を振りかぶる。

 

 いやこんなんもうただの喧嘩じゃんか。いつぶりだよ。隣町の工業高校の番長(バン)が相手じゃねーんだぞ。相手は銀河レベルの災害級といっていい”壊滅(かいめつ)”の使令(しれい)——絶滅大君(ぜつめつたいくん)星嘯(せいしょう)分体(アバター)なんだぞ。

 

 一歩で間合いに入った——つもりだった。

 

 金爪(きんそう)(ひらめ)いた。

 

 見えなかった。踏み込んだ瞬間にはもう、星嘯(せいしょう)の爪が目の前にある。咄嗟(とっさ)に首を(ひね)って直撃はまぬがれたが、頬を浅く裂かれる。風圧だけで身体が横に追いやられてしまう。

 

 拳は(くう)を切る。

 

 

 ——だってのに、賽子(ダイス)が回転し始める。

 

 

「——げっ!?」

 

 

 百面体が反応している。面がめまぐるしく入れ替わって——×1。等倍判定。こちとら1ミリもお触りしてない。なのに倍率が出て——

 

 

「——っづ!!??」

 

 

 右の拳に、痛みが走った。

 

 おいおい——空振りしただけなのに、拳がシビれる。まるで俺がブン殴ろうとした分の力で殴り返されたって感じだ。

 

 なるほど……これがチュリ男の言ってた”返ってくる”ってやつか。賽子(ダイス)は”行動を起こした”時点で回る。攻撃でも防御でも、当たったかどうかは関係ない。

 

 そして——賽子(ダイス)の面がひとつ、暗くなった。消費された。

 

 ……おいおい。このルール、空振りしたら自分だけ痛い上に残りの面も減るのかよ。当たればまだ相手にもダメージがいくけど、(はず)したら単に大損じゃねーか。

 

 ——しかし、足は止めない。いつぞやの”脚本”じゃねーが、もう活路は前にしかない。もう一度踏み込む。今度は低く——金爪の()ぎ払いの下をくぐって、(ふところ)に入ろうとした。

 

 二の爪が来た。——上をくぐれば下から。読まれている。肩口を(えぐ)られて、たたらを踏んだ。

 

 拳は、また空を切った。

 

「い”っっ——っづづ!!??」

 

 賽子(ダイス)が回る。——×2。つまり倍。当たってねーのに倍の反動が手首から上腕にかけて走って、骨がミシッと鳴った。いや、下手したらヒビ入ってるぞ、これ——!?

 

 

 面は無情に、更にひとつ暗くなる。

 

 

 くそ、二面目。これ以上無駄に消費したら——

 

 

「——武器もなしに。何のつもりですか」

「——お触りしたくなっちまったんだよ。諸事情でさ」

 

 今は亡きパルサーエッジ君とノヴァイレイザーちゃんに心の中で合掌(がっしょう)しつつ、

 

 三度目。右から回り込む。フェイントを——入れる暇もなかった。金爪の一振りが空気ごと斬り裂いて、胸の前を通過した。後ろに()んでなかったら胴体が真っ二つになってた。風穴の次は輪切りかよ。

 

 また空振り。ダイスが回る。——×1。当たってないのに再び同じ威力の衝撃が右手を叩く。三面目が暗くなった。

 

「——っきしょ!!」

 

 届かない。全然、届かない。

 

 しかも届かないまま、面だけが減っていく。アベンチュリンが維持してるこのフィールドの資源を、俺が一人で無駄に食い(つぶ)している。まったくエコじゃねぇよ。シロッカに優しくありたい。

 

 武器があったときでさえ一方的にやられた相手に、素手で何ができると思ってんだ俺は。拳のリーチで金爪に挑むなんて、竹やりでミサイルに突っ込むようなもんだ。このまま空振り続けたら、当てる前に賽子(ダイス)が全部消えるだろアホ——

 

 

 ——でも、

 

 

 ——不思議と、何かができると思ってんだ。

 

 

 足を動かし続ける。届かないからってどく理由にはならない。どいたらその時点でこの戦いは終わる。アベンチュリンの賭場(フィールド)が、ねーちんが稼いだ時間が、ロビンの覚悟が、全部パァになる。

 

 

 ”おかえり”——耳をかすめたのは、そんな言葉で、

 

 

 

 

「——(すき)は私が作ろう。さすがに腹に()えかねているだろう? 一発くれてやるといい——」

 

 

 

 

 影が、俺の横を抜けた。

 

 刀が鞘走(さやばし)る音。白い髪が琥珀色の光を弾いて、一閃。

 

 星嘯の金爪を弾き——あの腕が、

 

 道を(ゆず)る。

 

 

 胴体が、一瞬だけ()いた。

 

 

 

「——いや、ほんっと、大好きっすわぁッ——!!!」

 

 

 全力で踏み込む。金爪が戻ってくるまでのコンマ何秒。足が地面を割るくらいの勢いをつけて、右の拳を——星嘯の顔面に、叩き込んだ。

 

 

 百面体が回った。面が切り替わり——

 

 

 ——×1。

 

 

 さっきと同じ。だが、今度は違う。

 

 拳の感触が星嘯の身体を(とら)えている。決して幻影(まぼろし)なんかじゃない。賽子(ダイス)の倍率が乗った瞬間、確かに芯みたいなものに触れた。殴った手応えがある。

 

 そして同時に、右の拳に(にぶ)い痛みが返ってくる。殴った分だけ自分にも来る。さっきまで三発空振りして三発とも一方的に食らった返しと、同じ痛み。

 

 

 だけど、嬉しい、痛み。

 

 

 

「——ようやく、届いたぜ」

 

 

 呟いたのは俺だ。

 

 

「——たかだか一発当てた程度で」

 

 吐き捨てるように言う星嘯(せいしょう)に、

 

一発屋(いっぱつや)かどうかは、もうちょい見ててくれよ」

 

 いやはや……ここまで来るのに、どんだけ苦労したと思ってんだ。てか、まだまだ苦労が待ち受けてるんですけどぉ……と、横目で賽子(ダイス)を見やる。

 

 殴れば殴るほど自分も壊れるうえに、出た目がデカければデカいほどヤバい。かといって、当たらなくても自分は痛ぇし。

 

 こんなん頭おかしくなるわ。でもな——、

 

 黄泉(よみ)のねーちんが二の太刀(たち)、三の太刀(たち)と刃を振り続けてくれる。

 

 都度、賽子(ダイス)は回るが、毎回暗くなった面で止まる。面は消費されない。でもねーちんの肩にも、腕にも、斬り続けるたびに浅い傷が増えていく。返しの痛みは”虚無”にも容赦(ようしゃ)しないようだった。

 

 それでもねーちんは止まらなかった。星嘯(せいしょう)の注意を自分に縫い付けて、隙を作り続ける。

 

 

 なら——その隙、全部使い切る。さっき無駄にしちまった三面の分まで。

 

 

 ねーちんの刀が金爪と噛み合うたびに、コンマ数秒の穴が生まれる。そこに拳をねじ込む。殴る。賽子(ダイス)が回る。——×2。倍の衝撃が星嘯(せいしょう)に入って、同じだけの反動が拳を伝って腕をのぼっていく。いってぇなァ……今度こそ骨がヒビ割れたかもしれねぇ、けど、まだ、動くぞ。

 

 星嘯(せいしょう)が半歩——下がった。

 

 ()いてる。たしかに()いてんだ。

 

 武器もない素手のパンチでも、ねーちんが道をこじ開けて、賽子(ダイス)が倍率を乗せてくれるなら、この化け物を動かせる。

 

 

 もっぺん死ぬ気で殴るしかねぇ——

 

 

 ねーちんの刀が星嘯(せいしょう)の金爪と深く噛み合う。あ、と思った瞬間、斬撃一辺倒(ざんげきいっぺんとう)だった流れすらも断ち切るように、刀から手を離し、身体を旋転(せんてん)し――蹴りが炸裂(さくれつ)する!

 

 その一瞬——星嘯の動きが完全に止まった。

 

 今だ。

 

 全身のバネを使って()んだ。地面を蹴って、高く——重力分すらも加算して、星嘯(せいしょう)の頭上から、右の拳を振り下ろす。持てる全部をブチ込む。

 

 

 賽子(ダイス)が回る。面が狂ったように入れ替わって、止まる。

 

 

 ——×8。

 

 

 8倍。

 

 

 全身全霊の拳を星嘯(せいしょう)に叩き込んだ瞬間、これまでとは明らかに違う手応(てごた)えがあった。

 

 拳の先、奥にある芯がぐらりと揺れて、星嘯の身体が宙に浮き、そのまま振り切り、壁まで弾き飛ばし————た!!

 

 

 そして、着地した勢いそのままに、

 

 

「っっしゃあ!! どーだ、見てたかロビン!!」

 

 

 雄叫(おたけ)びを上げながら、ピースした。

 

 

 

 

 が、

 

 ロビンは口をあんぐり開けてパクパクしてる。

 

 は? え? ちょっとリアクション薄くない? もうちょっとこう……あるじゃんか。今のカッコよかったでしょ、キャーステキーメロいーあるでしょ。

 

 ドン引きの表情で、”そ、それそれ……”と指さされ、視線をその先に向ければ、

 

 

 

 

 

 

 ——ぷらんぷらんになったワテクシの右手がそこにあったのでした。

 

 

 

 

 

 

 ためしに振ってみると。(ひじ)から先が一回転した。すげぇや、ウデコプターができそうだ。

 

 

 ……

 

 

 ……え”?

 

 

「え……え? えぇ…………ぅそぉん……」

 

 思いっきり下痢(げり)をスプラッシュフリーして胸をなで下ろしたら紙がなかったときくらい(なさ)けない声が出た。

 

「ち、違うから。これは、その、骨が折れそうだって、そういうことじゃないから」

 

 自分でフラグ立てて回収なんかしてないからと一生懸命ロビンさんに伝える。

 

 いったん膝をつく。心折れたわけじゃないからね。あ、折れたとかいう表現使うのこれから禁止ね。

 

 ぶらんと()れ下がった右腕をもうちょっとちゃんと確認してみることにする。

 

 どれどれ……、

 

 絶対に、こんにちはしてはいけない肘関節(ひじかんせつ)が顔を出して、こんにちはしていた。そうだよね、×8、8倍だもんね、こんにちは。

 

「チュ、チュリ男、どうしよこれ——」

 

 この場の責任者であるアベンチュリンが音速で顔を(そむ)ける。

 

「ね、ねーちん……」

「すまない……」

 

 そ、そうだよね、マジレス気味に謝られちゃうと困っちゃうな。ゼイン、ちょっと疲れちゃったかも……

 

 

 

 あ、ちょい待ち。

 

 

 

 ニチャァ、と——音がした。

 

 

 折れた(ひじ)が、勝手に動き出す。骨が内側からぎちぎちと音を立てて、元の位置に戻ろうとしている。(すじ)が引っ張られ、肉が盛り上がり——三秒、四秒。ありえない速度で、腕が元の形に戻っていく。

 

 

「…………」

 

 ぶんぶん振っても、ループ・ザ・ループしない。

 

 はい〜〜〜これで二回目。いい加減()れろよ俺の脳。

 

 無理デェェェェス!!!!!

 

 慣れねーよこんなもん。自分の腕がニチャァ…ってキモオタ風に自動修復していく光景に慣れる日が来てたまるか。

 

 クソデカため息をつきながらも、右腕が、もう握れることを確認する。拳が作れる。さっきまでしおれていた腕とは思えない力が戻ってきている。

 

 

「…………卒業だな」

 

 

 人間から。これまでありがとな俺。新しい俺、よろしくな。

 

 

「——この世からということでよろしいですか?」

 

 

 案の定、叩き込んだはずの壁が撒き散らした塵煙(じんえん)の中から、星嘯(せいしょう)が復帰してくる。自信なくしそうになるが、俺の拳の跡は星嘯の身体にちゃんと刻まれてい————あ、

 

 

 気づいた。

 

 

 これ——いけんじゃね?

 

 折れても治るなら、何度でも殴れる。ダメージが返ってきても、……この身体が治るのなら、また殴りに行ける。

 

 普通の人間だったら×8の一発で退場だ。腕が折れて、そこで終わり。でも俺はこの異常なぼでーの回復力(かいふくりょく)のおかげで——壊れても戻る。おそらく何度でも。

 

 

 

 とんだ、自爆野郎(じばくやろう)だ。だが、これはこの場にいる他の誰にも出来ない、

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ——ああ、たぶん、

 ——今、俺はすっげぇワルい顔してるわ。

 

 

 

「うんにゃ、これまでの俺とお前の関係性にだよ——!!」

 

 

 走り出す。

 

 再びねーちんと目で連携(れんけい)(はか)る。殴る。成功。ダイスが回る。——×1。舌打ち。拳が届いて、同じ衝撃が指の骨を(きし)ませる。痛ぇ。けど折れてねぇ。次。——×2。踏み込んでボディに叩き込む。反動で中指と薬指がひしゃげた——3秒で指が膨らみ直して、ぱきぱきと骨が()まる音がする。痛ぇんだよ。次。——×1。(あご)を打つ。拳の皮が裂けて、裂けた端から塞がる。

 

 

「あああああ、いってぇなぁ!!!!」

 

 

 殴るたびに壊れて、壊れるたびに治る。めちゃくちゃだ。格闘技でもなんでもない。泥臭(どろくさ)すぎる喧嘩(ケンカ)もどき。でも、この賭場(フィールド)と、この身体(ぼでー)の組み合わせでしか成り立たない——力業(ちからわざ)消耗戦(しょうもうせん)

 

 

 でも、——確かに効果は、あった。

 

 

 星嘯(せいしょう)の表情が変わっていく。

 

 最初の余裕が消えている。何度砕いても戻ってくる拳が鬱陶(うっとう)しいのか——いや、違う。この目は鬱陶(うっとう)しさじゃねぇ。

 

 理解できないものを見ている目だ。

 

 壊れたのに治る。折れたのに立つ。道理に合わないものへの——イラ立ち。

 

 

 ——だから、そう動いたんだろう。

 

 

 星嘯(せいしょう)がねーちんの刀を金爪でうまい具合に弾き、一気に間合いを詰めてきた。狙いは間違いなく俺。壊しても壊しても治る異物を、今度こそ潰しに。

 

 金爪が横一閃(よこいっせん)——

 

 

 避け、れねぇ。半身で受けるしかない。

 

 

 左の脇腹を金爪が抉った。おそらくというか確実に内臓に届いている。身体がくの字に折れて、琥珀(こはく)の大地を転がる。口から血が出た。鉄の味が広がる。

 

 星嘯(せいしょう)が追い討ちをかけようとした——その前にねーちんの刃が割り込んでくれて、間一髪なんとか距離が生まれた。

 

 脇腹を押さえる。指の隙間から血が(あふ)れて——いや、待て。もう(ふさ)がり始めてる。じわじわと肉が盛り上がって、例のキモいプチ触手が傷口を(おお)い始めている。

 

 でも——さすがにきっちぃな。金爪の直撃は賽子(ダイス)の倍率関係なく痛え。×1や×2の自傷とは次元が違う。あれをまともにもう2、3発もらったら、いくらこの悩殺(のうさつ)グラマラス……脳殺(のうさつ)グロテスクぼでーでも……回復が追いつかなくなる可能性がある。そのとき、

 

 

 

 怪人が——アベンチュリンが、俺の前に出てきた。

 

 

 

 浮いていた足が琥珀の地面に降りる。仮面はひび割れだらけで、左半分がもう欠けている。シルクハットはどこかに飛んでいったのか、ない。むき出しになった金髪が琥珀色の光に染まっている。

 

 俺に負けないくらいボロボロだ。

 

 フィールドを維持するだけで限界だったはずのこいつが、なんで前に——

 

 チュリ男の視線が賽子(ダイス)に向いた。一瞬だけ。残った面の数を数えるみたいに目を細めて、それからフィールドの端——明滅し始めた光の膜を見て。

 

 

 何かを、計算し終えた顔をした。

 

 

「……流石(さすが)だよ、マイフレンド。だけど、少しばかり……時間が()しててね。下がっていてくれ」

 

 

 声だけは——いつも通り、軽かった。だが、何か引っかかるものを感じて、

 

 

「はぁ? 何する気——」

 

「君は——分の悪い賭けは好きかい?」

 

「大好き」

 

 反射的に答えてしまったそのやりとりは、シロッカへ出立する直前に黒猫と交わしたやりとりそのもので——、

 

 

「じゃあ信じてくれ。なぁに、次は——僕の番ってことさ」

 

 

 もしおねーさんだったら惚れそうになるくらい柔らかく笑うと、アベンチュリンはポケットに両手を突っ込んで賽子(ダイス)に向かって歩き出す。

 

 そんなことを言われたら、……信じるしかない。

 

 百面体は空間の中央で、ゆっくり回転している。ここまで、あれは誰の行動(アクション)にも反応して勝手に回ってきた。プレイヤーが動けば自動で回り、目を出す——それが法則(ルール)

 

 でもアベンチュリンの動きは違った。賽子(ダイス)に向かって単に近づいていくだけだ。参加者(プレイヤー)としての行動(アクション)じゃない。賭場(フィールド)の主としての——

 

 

 仮面の残骸(ざんがい)の奥で、虹色の瞳が光り、

 

 

 それに、手を伸ばした。

 

 

 怪人の長い爪が——百面体に、直接触れる。

 

 

 その瞬間、

 

 百面体が、これまでとは比べ物にならない速度で回転を始める。面が(うず)を巻いて、数字がぐちゃぐちゃに入り混じって——轟音(ごうおん)。琥珀色の空間全体が震える。

 

 

「お、おい、まさか————」

 

「そのまさかさ——最後の倍プッシュ(レイズ)だ」

 

 

 面が渦を巻くなんてもんじゃなくなる。もはや百面体の形すら見えない。琥珀色の光の球が空間の中央でひたすら(うな)りを上げている。風圧だけで髪が暴れ放題になる。

 

 アベンチュリンの虹色の瞳が——百面体と同じ光で明滅していく。

 

 まるで同期しているかのようなタイミング。

 

 これまでダイスは勝手に回って勝手に止まるだけの進行役(ディーラー)だった。誰の味方でもなく、出たとこ勝負の機械的な審判(しんぱん)でしかなかった。

 

 でも今は違う。賭場(フィールド)の主の手によって、無理矢理——参加させられようとしている。

 

 

 ——そして、アベンチュリンの手が、離れた。

 

 

 

夢見て投じよ、賽こそはすべて(アーレア・ヤクタ・エスト)

 

 

 

 指が百面体から離れた瞬間、回転が一気に上がり、閾値(いきち)を超え——百面体が宙に飛んだ。

 

 琥珀色の光を尾のように引きながら、賭場(フィールド)の最頂点まで打ち上がって——

 

 落ちてくる。

 

 回転が急速に収束していく。面が一つ、また一つと読み取れるようになっていく。

 

 

 ——どれが、何が、出る——?

 

 

 結果が出るより先に、足元が変わった。

 

 琥珀色のフィールドの地面が——()がれ始めている。

 

 最初は一枚。靴の裏で踏んでいた光が、丸く切り取られて浮いた。

 

 コイン、あるいはカジノチップだ。琥珀色の光を固めた、アベンチュリンが作り出す空間そのものの欠片。

 

 二枚、五枚、十枚——足元だけじゃない。賭場(フィールド)のあちこちから光の円盤が剥がれて浮かび上がっていく。ぞわぞわする。地面が生きてるみたいに震えて、次々と自分を引き剥がしている。

 

 何十。何百。止まらない。

 

 琥珀のチップが空を埋めていく。アベンチュリンの頭上に、天井が見えなくなるほどの厚みで集まっていく。

 

 さっきまでしっかり光っていた賭場(フィールド)の地面が、ところどころ暗くなっている。穴が開いたわけじゃない——薄くなっている。踏んだらそのまま抜けてしまいそうだ。

 

 こいつ、自分の賭場(フィールド)(けず)って弾に変えてるのか——?

 

 どうし、て、という問いは、

 

 

 

 ——空間の真ん中に、百面体が音もなく戻ってくることで、回答となる。

 

 

 そこには、一つの面が、浮かび上がっている。

 

 

 刻まれた数字を見て、息を飲み込む。

 

 

 ×1じゃない。×2でも×8でも×16でもない。

 

 

 

 

「——姉さん。——ああ、そうだね。

 ——僕は、きっとツイている」

 

 

 

 軽くなんかない。

 

 耳に届いた、その声は願いが込められた、確かな重さがあって、

 

 仮面の奥で虹色の瞳が燃えていた。

 

 

 

 

 

 ——×32。

 

 32倍。

 

 この場における。最高倍率。

 

 さっきの俺の8倍の、その4倍。もしそれが全力パンチなどではなく、本当の威力を持つ一撃に込められるとするなら——()()()()()()()()()に追いつくより先に、背筋が粟立(あわだ)った。

 

 

 

「バカ野——アベ——チュリ——!!!!」

 

 

 

 アベンチュリンの腕が振り下ろされた。

 

 

 青緑色の天蓋が、崩れ落ちる。

 

 

 何百ものチップが星嘯に向かって殺到(さっとう)する。

 

 それは一枚一枚に×32の倍率が刻まれた、

 賭場(フィールド)そのものの絨毯爆撃(じゅうたんばくげき)

 

 上からも横からも、光の円盤が嵐のように叩きつけられていく。

 

 着弾のたびに衝撃波が琥珀の空間を揺らす。一発、二発じゃない。数え切れない打撃が重なって、空間全体が絶叫しているかのようだ。

 

 ようやく最後の一枚が着弾して——その余韻(よいん)が空間に残っている間に、

 

 アベンチュリンの身体が、折れた。

 

 膝をつく、なんて穏やかなもんじゃなかった。

 

 仮面が真ん中から砕け割れ、破片が飛び散るのと、全身を何かに叩き潰されたみたいに琥珀の地面に崩れ落ちるのがほぼ同時。

 

 かろうじて片手で身体を支えている、が、その腕もがくがく震えている。

 

 あれほどの攻撃——×32の反動。

 

 自分が倍率を乗っけて撃った分と同じだけの力が、そっくりそのまま返ってきたんだ。生きているだけで奇跡と言っていい。

 

「アベンチュリンッ!!」

 

 思わず駆け寄る。

 

 口から鮮血を吹き出す。金髪が額に張り付いて、肩で息——いや、呼吸にすらなってない。喉がひゅうひゅう鳴っているだけだ。

 

 だというのに、

 

 仮面の残骸の奥から覗く虹色の瞳だけが、炯々(けいけい)と、まだ光を失っていなかった。

 

 

 その証拠に——賭場(フィールド)は、消えてない。

 

 

 薄くはなっている。足元の琥珀は明らかにまばらになった。さっきチップに変えた分だけ、地面は()せてスカスカだ。端の方なんか光が明滅して今にも途切れそうに見える。

 

 でも、消えてない。百面体はまだ浮いている。法則(ルール)はまだ生きている。

 

 この死にかけの状態で——まだ、維持してるのか。こいつ。どんだけ修羅場(しゅらば)くぐってきてんだ。

 

「……まい……ったな、ゴフッ……けっ……果……ブレるし……なかな……か、硬いね」

 

 血を吐きながら笑ってんじゃねぇ……よ……。

 

 そんなアベンチュリンの身体を張った全力の攻撃をもってしても——、

 

 

 

 

 

 

 

 

 煙が、晴れていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 なおも、星嘯は——立っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ただし、さっきまでとは違う。

 

 白いボディスーツのあちこちが裂けている。ストールがちぎれている。右の肩から胸にかけて、初めて見るほど深い亀裂が走っている。

 

 ——深手(ふかで)。明らかに、相当のダメージを負っている。これまでどんな攻撃でも涼しい顔してた化け物を、ここまで……追い詰めたんだ。

 

 

 

 けど、違和感(いわかん)がある。

 

 

 星嘯(せいしょう)輪郭(りんかく)が——揺れている。

 

 通信状態が悪いときのネット動画、ってのがほんとに正しいかわからないが、解像度が(あら)くなったようにシルエットがぐにゃっと(ゆが)んで、一瞬——二つに分かれかけた。

 

 重なった影が、ほんの一瞬だけ別々の方向に引っ張られて、また重なる。

 

 

 白い空間で見た砂嵐と同じノイズ。あのとき画面がバグったみたいにぐちゃぐちゃになったのと——同じ印象を持った。

 

 

 星嘯の手が、己の胸に触れた。

 

 

「? ——なん、ですか。今の、は」

 

 

 声は震えていた。

 

 痛みに(うめ)いたんじゃない。殴られて(ひる)んだんでもない。自分の身体の中で何かがズレたことに、本人がついていけてない。そんなトーンだった。

 

 

 胸に当てた手が、さぐるように動く。確かめている。何を? 自分が自分であることを、だろうか。

 

 

 ——こいつ、自分に何が起きたかわかってない、のか?

 

 

 見たことのない顔だった。聖絶宣言のときも、終曲黙示録(レヴェレーション)のときも、こいつはいつだって余裕だった。丁寧語で、澄んだ声で、「救済」だの何だのと、その名の通り、(うそぶ)いていた。

 

 それが今、胸を押さえて、目が泳いでる。

 

 

 それを好機と取ったのか、

 

 黄泉のねーちんが——動いた。

 

 

 刀を構えたまま、前に出る。星嘯(せいしょう)から視線を外していない。あの深い目が、星嘯の輪郭のブレを見逃していなかった。

 

 

「……やはり、そうか。もう、維持できなくなってきている」

 

 

 確信に満ちた断言。

 

 

「——あれは、本当は一つの存在じゃない。二つの似て非なるものが無理に重なっている……」

 

 

 ねーちんの目には、さっきのブレがどう映ったんだ。俺には一瞬の映像の乱れにしか見えなかったものが、ねーちんには構造ごと見えているんだろうか。……わからない。

 

 

 

「何を、おっしゃっているのか」

 

 

 

 星嘯の声は慇懃(いんぎん)言葉遣(ことばづか)いを(たも)っていた。まだ保とうとしていた——が、

 

 

 金爪が、小さく震えている。

 

 

 パルサーエッジの全力振り下ろしを余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)で受け止めていたあの爪が。ねーちんの刀を何十回と弾き返したあの爪が。かちかちと、持ち主の意思とは裏腹の形で鳴っている。

 

 

 口は余裕を(つくろ)ってるというのに、手は全然違うことを表明してしまっている。

 

 

 黄泉のねーちんが、もう一歩踏み込んだ。

 

 

「先ほどのブレ——あれは分離(ぶんり)兆候(ちょうこう)だ。もう一つの存在が、引き剥がされかけた。——違うか?」

 

 

 間髪入れない。ねーちんは、答えを聞くために問いかけたというより、”わかっている”と突きつけるために言っているように思えた。

 

 星嘯の口が——開きかけて、閉じる。

 

 金爪の震えが、大きくなった。

 

 肩が、わずかに持ち上がる。呼吸が浅くなっているのが、こっちからでもわかる。

 

 身体のブレが——また走った。今度はさっきより長い。影が二つにブレて、なかなか戻らない。こいつの中で何かが暴れている。

 

 

 

 

 

 

「——黙れ」

 

 

 

 

 それだけ。

 

 敬語が、消えてなくなった。

 

 これまでイヤになるほど聞いてきた澄んだ丁寧語のどこにも、こんな音はなかった。喉の奥から搾り出したような、低い、生の声。

 

 図星を突かれた何かが、反射的に口を塞ごうとした——そんな反応だった。

 

 星嘯の身体にブレが再度走った。

 

 今度は戻るのに時間がかかっている。影が二つに分かれて、発作に抗うように揺れて、ようやく一つに重なり直す。

 

 金爪を握りしめる。震えを止めようとするかのように、ぎちり、と。

 

 そして——冷や汗が吹き出た。

 

 

 

 星嘯(せいしょう)(かも)し出す雰囲気が一変する。

 

 

 

 さっきまでの戸惑いが消えている。代わりにあるのは、もっと原始的な何か。

 

 追い詰められた獣が、逃げ場を探すのをやめた目。逃げるんじゃなく、檻ごと壊す方に舵を切った目。

 

 金爪が——宙を撫でた。

 

 見覚えがある。あのときと同じ仕草。指揮者が指揮棒(タクト)を構えるときの——

 

 

 ……認めるわ。この賭場(フィールド)法則下(ルールか)であるならば、撃ってこないと、甘い見積もりをしてたんだ。

 

 

 だけど、

 

 

「聴け——星々の海に……星よ、満た、せ——天蓋は裂け——」

 

 

 おかしい。

 

 

 前に聞いた詠唱と、順番が違う。あんときは整った詩を朗読するみたいに、きれいに繋がっていた。

 

 今は言葉がめちゃくちゃだ。「聴け」の途中で「星よ」が割り込んで、「天蓋」が追い越す。壊れたスピーカーから同時に3つの音声が流れてるみたいだ。

 

 もはや自分の技の手順すら、保てなくなっている。

 

 

 

「——滅び、を——唱和、せよ——」

 

 しかし最悪なことに——力は出る。

 

 停止していた星嘯の天環と地環(ヘイローたち)が再び動き出す。

 

 アベンチュリンの空間を上書いていくように光点が灯り始めた。1つ、3つ、7つ——加速度的に増えて、線で繋がっていく。

 

 

 星図が、広がってしまう。

 

 

「——終曲黙示録(レヴェレーション)星海頌歌(アストラルカント)——光、あ、れ(フィーアト・ルクス)——」

 

 

 最後の一節すら詰まった。「あれ」の一語がつっかえて、苦しそうに吐き出された。

 

 

 金爪が振られると同時に——

 

 

 一本目の光の柱が落ちた。

 

 

 ……落ちたものの、これは違う。

 

 前のときとは、全然違う。

 

 前の終曲黙示録(レヴェレーション)は言ってみりゃあ音楽だった。

 

 前奏があって主題があって展開部があって、金爪が正確に拍を刻んで、光の柱が計算された軌道で襲ってきた。

 

 破壊のオーケストラ——あのときは確かに、そう呼べるものだった。

 

 今は拍がない。無茶苦茶だ。

 

 リズムも何もなく。二本目が一本目の着弾を待たずに落ちる。三本目が見当違いの方向に飛ぶ。四本目が地面を(えぐ)る。タイミングもバラバラ、方向もバラバラ。

 

 精密な指揮が消えて、ただ無秩序に撃ち散らかしている。

 

 

 

 賽子(ダイス)は——既に回っていた。

 

 

 

 紛れもなく星嘯(せいしょう)の光の柱は行動(アクション)だ。賽子(ダイス)は反応する。面が入れ替わって——×2。倍の反動が星嘯自身(せいしょうじしん)に降りかかる。身体のシルエットのブレが四発分の反動により止まらない。

 

 なのに、次の指揮棒(タクト)が振られる。五本目。賽子(ダイス)が回る。——×1。

 

 光の柱が俺の頭上を通過した。衝撃で身体が浮いて、琥珀の地面を転がる。立て直す間もなく六本目が壁を穿(うが)ち、飛来した(つぶて)が頬を裂いた。

 

 こっちを狙ってるのか狙ってないのかすらわからない。あのときは「そこで観覧しているといいでしょう」と偉そうに邪魔してきたくせに、これじゃあただ暴れてるだけだ。でもそれが逆に厄介すぎる——読めない。

 

 

 

 ——ガチでやばいぞ。どうする。

 

 アベンチュリンも死にかけだ。一刻も早く治療しねぇとまずい。

 

「——死ぬな……死ぬなよ、勝手に死んだら承知しねーぞ。死の淵まで本当に追いかけにいくからな。おい、聞いてんのか!?」

 

 アベンチュリンの返事はなかった。虹色の瞳がこっちを見上げて、かすかに——はは……と、本当にかすかに笑った気がした。呼吸のたびに胸が上がるのが遅い。間隔が開いていってる。

 

 この場のルールは全部こいつの上に乗っかってる。こいつが落ちたら賽子(ダイス)も消える。そして賽子(ダイス)が消えたら最後、俺の拳はただの素手に戻る。

 

 ——早くこの状況を終わらせねーと、アベンチュリンが死ぬ。今度こそ詰む。

 

 七本目。賽子(ダイス)が回る。——×1。八本目。——×4。4倍の反動が星嘯を襲う。

 

 星嘯の膝が一瞬落ちかけた——が、すぐに立ち直り、指揮棒(タクト)を振り上げる。まだ撃つ。撃ちながら壊れていっている。

 

 面が一つ、また一つと暗くなっていく。正確な数は追えてない。でも確実にこの場の寿命が削れている。だが、この無差別乱射の中で、いくら治癒能力があったとして、はたしてたどり着けるのか——拳を握りしめて、

 

 

 

 ——腹をくくった。

 

 

 

 そんなタイミングで、何かがもたらした風が頬を撫でる。

 

「————!!」

 

 光の柱の隙間を()うように星嘯(せいしょう)との距離を詰めていく。

 

 あのトリガーとなっている指揮を止める気だ。

 

 九本目の光の柱が正面から黄泉のねーちんの進路を塞ぐ。回避が間に合わない——刀で受けた。光を斬り裂くんじゃなく、刃でもって()らす。反動がねーちんの身体を半歩押し戻す。腕が(しび)れたのか、刀を持ち直していた。理屈のわからない超人的な芸当に舌を巻く。

 

 賽子(ダイス)が回る。これも、ねーちんの行動(アクション)とカウントされる。——暗い面で止まった。面は消費されない。

 

 十本目が追い打ちのように来た。真上から。ねーちんは横に跳んで避けた——が、着弾の衝撃波で地面が割れて、破片がねーちんの脚を打った。よろけた。白い髪の先端が()げる。

 

 賽子(ダイス)が回る。暗い面。消費なし。

 

 立て直す暇なく十一本目。左から。今度は避けきれなかった。光の柱の端がねーちんの右腕をかすめ——肘から先が焼け焦げている。刀を持つ手がわずかに痙攣(けいれん)する。

 

 でも刀を落とさなかった。焦げた右腕で、(つか)を握り直し。左手で服の一部を裂き、巻き付けて無理矢理固める。歯でしっかり締め付けて、まだ、

 

 止まらない。一歩、もう一歩。光の柱が落ちるたびに傷が増えていく。左の頬が裂けた。脇腹から血が滲んだ。それでも足が星嘯に向かって進み続ける。

 

 賭場(フィールド)の面はひとつも減っていない。ねーちんがどれだけ傷ついても、賽子(ダイス)は暗い面で止まり続ける。

 

 

 ——あの人だけが、今、何も奪わずにあの化け物に近づいていける。

 

 

 星嘯(せいしょう)が気づき——指揮のためではなく金爪を、直接叩きつけようとする。

 

 ねーちんが低く身体を沈めた。金爪が頭の上を通過する。髪が数本、斬り飛ばされた。

 

 その姿勢のまま、下から踏み込む。最後の一歩。星嘯の懐に入った。

 

 刀を、振り上げる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——金爪を、斬った。

 

 

 

 

 

 

 

 金爪の先端が宙を舞う。切断された欠片がくるくる回りながら光を反射して、琥珀の地面に落ちた。乾いた金属音が響く。

 

 光の柱が——途切れた。地環から放たれていた光が、噴き出す途中でぶつりと消える。天環の増幅が失われ、星図の反射が止まる。

 

 エネルギー切れを起こしたかのように、光点がひとつ、またひとつと消えていく。天環と地環が軌道を失って、力なく漂い始め——

 

 静寂が訪れる。

 

 

 

 

 ——止め、た。

 

 

 

 

 ねーちんが——星嘯の目の前で、刀を振り抜いた姿勢のまま立っている。

 

 息が荒い。右腕は焦げている。左頬から血が流れている。全身に等倍の反動が蓄積した傷が走っている。

 

 金爪——指揮棒(タクト)を折って、暴走を止めてなお——ちゃんと、立っている。

 

 ここに到達するまでに賽子(ダイス)の面はひとつも消費していない。

 

 この人が受けた傷のぜんぶが、この場の誰の資源も奪わずに支払われた、ねーちんだけが引き受けた、代償なんだ。

 

 

「や————」

 

 

 ——った、と思った。

 

 

 思った、瞬間。

 

 

 

 金爪の残った根元が——動いた。

 

 

 

 先端を失った金爪が、最短距離で突き出される。速い。ねーちんが刀を振り抜いた直後の、一番無防備な体勢——

 

 

 ねーちんの脇腹を、貫いた。

 

 

 

「——ッ」

 

 

 

 小さく息が漏れた。それだけだった。叫びもしなかった。

 

 金爪の根元がねーちんの脇腹を突き破って、背中から飛び出している。

 

 

「ねーちん————ッ!!!」

 

 声の限り叫び、全力を両足に込める。痛みなんて忘れた。

 

 星嘯が金爪を引き抜く。ねーちんの身体がゆっくりと倒れていく。膝から力が抜けて、崩れ始める。

 

 俺が駆け寄るより先に、ねーちんの視線が動いた。

 

 俺を見て——それから、後ろにいるはずのアベンチュリンを見た。

 

 口元がかすかに動いた。やるべきことを全部やって、最後に一息だけ吐いた——そういう顔だった。

 

 

 

「——すまない、後は頼む。……やはり、私には賭け事は向いていないようだ」

 

 

 琥珀の地面に、黄泉のねーちんが倒れた。

 

 刀が手から離れて、乾いた音を立てる。白い髪が薄くなった琥珀の光の上に広がった。それを追いかけるように血だまりもまた広がっていく。目が、閉じていく。

 

 

 

 賽子(ダイス)は回らなかった。

 

 ねーちんが倒れても、百面体は沈黙したままだ。行動(アクション)じゃないと、ただ、力尽きただけだから。面はひとつも動かないと言わんばかりに。

 

 最後の最後まで——この人はフィールドの資源を一つも奪わなかった。

 

 

 

 走り寄って膝をつく。ねーちんの肩に手を伸ばして——触れた。まだ温かい。呼吸がかすかにある。気を失っているだけだ。大丈夫だ。重傷だけど。絶対に。俺はそう信じる。

 

 

 顔を上げる。

 

 

 星嘯が右手を見下ろしていた。先端を失った金爪。切断面がじりじりと金色の火花を散らしている。終曲黙示録(レヴェレーション)指揮棒(タクト)であり、元々の本体であった手を壊されたことを信じられないように。

 

 背後からアベンチュリンの咳が聞こえる。フィールドの端がちかちかと明滅している。

 

 ねーちんは動かない。ロビンは後方にいる。

 

 

 

 

 ——まともに動けるのが、俺しかいない。

 

 

 

 

 もはや猶予(ゆうよ)はない。

 

 早くしないと。——何を?

 

 倒さないと。——どうやって?

 

 わかんねぇ。だけど、ねーちんが一つも無駄にしなかった面が、まだ残っている。アベンチュリンがまだ歯を食いしばってる。ロビンが信じている。

 

 

 拳を握る。折れても治る。壊れても戻る。

 だから——残る最高倍率 ×16を信じて、……×32を耐えしのいだ星嘯を殴るしかねぇ。

 

 

 

 

 

 ——あとは、俺しかいねぇんだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「————誰か1人、大事な人を忘れてない?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ああ、

 

 

 あああああ〜〜〜〜〜〜〜ッ!

 

 ほんっっっとに。ぐうの音も出ねぇよ。

 

 

 

 

 ——賽子(ダイス)の残存する明るい面の内、1つの数字が霞んでいき、別の数字になろうとしている。

 

 

 

 

「——来んの遅くないすか」

 

「ごめん、ちょっと子どもたちを避難させててさ。これでも、頼りになる皆さんに預けてきて、すぐに戻ってきたんだよ? 褒めてくれてもよくない?」

 

「最高っすわ、——愛してるぜ、俺の上司(マイ・ボス)

 

 隣にそいつが並ぶ。

 

「——どーせ、そんなの色んな人に言ってんでしょ?」

 

「うんにゃ、少なくとも()に言ったのは初めてだぜ?」

 

 

 賽子(ダイス)に刻まれた、新たな倍率は、

 

 —— ×64。

 

 

「ッ……ふー、まぁ、いいや。仕事終わったら色んなコト聞かせてもらう予定だし」

 

 

 横目で笑みを浮かべながら、

 

 ——エレーナは言う。

 

 

 

 

「残業はここまで。とっとと上がるためにさ、

 ——なんとかしてよ、私の部下(マイ・インターン)

 

 

 俺も笑いを隠せない。

 

 こんな短い時間で成長するかフツー? なにがあったんだよ。女子(じょし)三分(さんぷん)会わざれば刮目(かつもく)して見なきゃいけない感じ?

 

 でもなー、

 

 そうだよなぁ、帰りたくて仕方なかったのよ、ちょうど俺も。

 

 まぁ、でも、その前に、キリよく終わらせねぇといけねぇ仕事がある。

 

 

 

 

 

 そんな、返事の代わりは、

 

 

 

 

 

 ——背中で語らせてもらうことにするかね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 






執筆時BGM:
「虚空のシズク」Antistar
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