——×64。
あの数字が
金爪の先端を失った右腕をだらりと下げて、崩れた地下聖堂の残骸を背に、ただ——立っている。
エレーナも言わずとも、任せてくれるらしい。背後からついてくるような気配はない。
一歩、また一歩と、間合いが詰まっていき——五歩で間合いに入る距離になると同時に俺は床を蹴った。
痛みにおかしくなりつつも、奥歯を噛みしめ、右の拳を握り、どストレートを——顔面に叩き込む。
そう、
——黄泉のねーちんの力を借りず、俺ひとりの火力で、こいつを削り続ける。
そのためにはもう、回避を捨てるしかねぇ。
正面。
——アベンチュリンの×32でひびが入った身体。そこにひたすら拳を重ねていけば、確実にたどり着く先がある。
問題は、削り切る前にこっちが先に潰れるかどうかってだけの話で——
「——この銀河は、間違っていると思いませんか」
唐突に、
金爪を振り下ろしながら。こっちが死に物狂いで避けてる
口調が——戻りかけている。
さっきバグりかけてたはずなのに。ただ、まだ違和感がある。きれいに揃えようとして、逆に微妙にずれている。そんな不安定さが
「それとも争いが絶えず、弱者は踏みにじられ、祈りは届かない。——それを"仕方がない"と受け入れることを、あなたたちは"正しい"と呼ぶのですか」
金爪が
体勢を立て直しながら、息の合間から声を押し出す。
「いやめっちゃそう思うよ——俺も」
「——争いばっかだし、小難しい言葉ばっか使うクソ運命に
嘘はついてねーぞ。シロッカどころかこっちの世界で生きてきて見てきたもの全部がそう言ってる。だいたい、マジで難しすぎる。俺聞いたことない言葉ばっか使うもん。”
同意されると思ってなかったのか。
見逃さない。
左足で地面を割って
——×2。
衝撃が
着地。息が荒い。汗が目に入る。腕は動く。まだやれる。
「——であれば」
顎を突き上げられた姿勢のまま、星嘯が言った。首を戻しながら。殴られた跡を気にする素振りすらなく。
「なおのこと——”
さっきまでの不安定さが消えて、まるで
「壊して、作り直す。それ以外に、この銀河が救われる道はありません」
金爪を構え直してくる。
身構え、呼吸を整えてから、
俺は口を開いた。
「——それはないない」
「同意したでしょう、この銀河は間違っていると」
「したよ。——でも、だからってブッ壊すのは
金爪が横に
その軌跡を潜り抜けながら、左の拳で脇腹を打った。——×1。浅い。返ってくる痛みも弱い。
「おかしいのは認める。でも全部ぶっ壊してチャラにすりゃ解決なんて——乱暴すぎんだろ。こっわ」
星嘯の目が、すっと細まった。
「……乱暴、ですか」
声のトーンが更に変わり、教壇の声が失せた。もっと奥にあるもの——より核に近い何かが、
「では聞きましょう」
金爪が止まった。——攻撃をやめたわけじゃない。構えたまま、こちらを見据えている。次の一撃のために溜めているのか、それとも。
「あなたは——壊さずに、どうやって救うのですか」
その問いは——すぐに答えられなかった。
口を開こうとした。何か気の利いた、軽くて鋭い一言を。それが出てこない。喉の奥で言葉が絡まって、
沈黙を埋めるように、拳を振った。右ストレート。——×1。
「……同志は」
星嘯の声が、どんどん変わっていく。
さっきまでの教壇の声でも、窓の外の天気の声でも、核に近い声でもなくなる。冷え切っていたそれに、体温が帰ってきたような声。
「——同志は、姉を救いたかっただけです」
同志——ビョルン。
「幼き頃から理想を胸に抱き、二人で旅をして、”調和”を広めようとした。正しいことを実行した。それなのに——姉は壊され、声を奪われ、心を踏みにじられた」
金爪が振られる。避けた。避けたものの、さっきより俺の動きが
「同志は姉を取り戻すために、自分の身体を切り売りした。目を。皮膚を。臓器を。——それでも足りなかった」
知ってる。……全部聞いたよ。ビョルンの口から。
拳を握り直す。踏み込む。左のフック。——×2。
でも——
「”調和”を信じて、正しいことをして、それでも救えなかった人間に、あなたは何と言うのですか」
——即座に切って捨てることもできたろう。
だが、それはダメだ。
ビョルンの顔が浮かぶ。「もう何もかもが遅い」と言ったあの目。エレーナが「お姉さんが本当に望んでいると思うの」と叫んで、ビョルンは——答えなかった。
「彼は——間違っていたのでしょうか」
星嘯の声が、揺れた。
——人称が、ずれた。「同志」から「彼」に変わった。ほんの小さなずれだ。でもそこに、
「姉を救いたかった。壊された世界を許せなかった。それは——間違いだったと?」
拳が、止まる。
いつの間にか殴るのをやめていた。身体が動かないんじゃない。動かせない、のとも違う。
——動かす理由を、一瞬見失った。
一理ある、と思った。
思ってしまった。
ビョルンのやったことは許せねぇ。延々裏で各勢力を操り、子どもたちを利用して、シロッカ全体を争いの終わらない星に変えた。そしてそれをもって”壊滅”を推し進めようとした。
でも——その出発点にあったものは。姉を救いたかった。たったそれだけのことだった。そのたったそれだけのことが、この銀河のどこにも届かなかった。
その絶望の末に至った運命を——「間違いだ」と切り捨てられるほど、俺は何かを持っているのか。
「私は——」
——私は。
「彼は」じゃない。
「同志は」でもない。
——「私は」。
「私は、ただ——救いたくて、救われたかった」
それは誰の言葉なんだろうか。
ビョルンの言葉なのか、
——いや。これが、
ビョルンの痛みを
星嘯の目が、こちらを据えたまま、そらされることはない。
次の言葉が来る。わかっていた。
「——あそこで声も出せずに立っている
視線が、俺を通り過ぎて——後方へ向いた。
ロビンの、いる方向。
「奪われ、壊され、それでも何も変わらない。
一瞬。
——
でもそれを抱きかかえ、落ち着かせるように——白い空間で聞いた小鳥の声がした、気がした。
小鳥。あの青い小鳥。白い圧に押し戻されそうになりながら、必死に翼をばたつかせていた。排除されかけても、あの空間から出ていかなかった。
鳥かごと、空と、どっちが正解だったのか。
——「いつか答えを聞かせてね」とあいつが聞いてきた問い。
ずっと、答えが出なかった。
——あ〜〜〜、
——やめだやめだ、頭を使うのは、
——俺らしく、ねぇや。
——なんに縛られるでもなく、
——ただ、心の、魂が
「——わりっ、わかんねぇわ」
声は
「正解なんてわからねぇ。ビョルンが間違ってたかどうかも、この銀河がどうすりゃ直んのかも——俺にはわかんねぇよ」
「けどな——」
息を吸う。肺が
でも——口は動く。
「正解とか間違いとかの話じゃねぇだろ」
星嘯の目が、わずかに見開かれた。
「鳥かごにいた方がよかったか、外にいた方がよかったか、どっちが正解か間違いかなんて誰にもわかんねぇ」
あの小鳥を思い出す。白い空間で、圧に押し潰されそうになりながら、それでも飛んでいた。弱々しくて、ふらふらで、とても空を渡れるような翼じゃなくて。
それでも——飛ぶのをやめなかった。
「どんなに
声が大きくなっていく。自分で制御できない。
「声を奪われて、歌を奪われて、——それでもそいつは立ってる。明日に向かって、前に進もうとしてる」
名前は出さない。出さなくていい。
「そんなヤツをひとり、俺はよぉーうく知ってんだよ」
届くように、声を張り上げりゃあ、
それでいい。
「年下だけど、スゲぇそいつが前を向いてんのに、
年上の俺がブン投げて諦めんの、
認めるわけにはいかねぇだろ」
息を吸い、
「せいぜい勝手に”運命”ってレッテル
ハッキリと、
「正解か不正解なんて二択は意味ねぇんだよ。
んなことよりも……、
たとえ”不正解”だったとしても、
自分が選んだことを必死こいて、
”正解”にしてくんだよ。
それが”運命”なんて適当に
てめーの”命の運び方”ってもんだろうが。
そんな——傷だらけの美しさを認めず、
勝手にみんなの人生終了させようとすんじゃねぇ。
俺は叫んでやった。
その瞬間、星嘯の身体が——ブレた。
×32の時と同じだ。
おそらく
その予想が合っていて、融合の接着剤が
——×64。
残りの面の中に、あの数字が眠っている。
ただし——問題がある。
じゃあどうする。
アベンチュリンは幸運か何かで最高倍率を引き寄せた。
それが真似出来るか? ……これまでのギャンブルの負け分考えるとちょっち不安が過ぎる。
俺は——俺のやり方でやるしかねぇ。
空振りでも
50分の1が、49分の1になり、48分の1になり——20面まで削れば5%。10面なら10%。面を減らせば減らすほど、×64に近づく。
当然、空振りでも反動は返ってくる。殴った分の衝撃が、自分の身体に。当たってもいないのに。30回以上、それを食らい続けることになる。
それだけじゃない。——削ってる最中に偶然×64の目が出ることだってあり得る。当たってねーのに×64の反動だけ食らって、しかも×64の面が消える。最悪の幕引きだ。考えたくもねぇ。
けど、それを怖がってたら一生面は減らない。
普通の身体なら、どんくらいだ? せいぜい2,3回で限界ってとこか。
——あいにく、俺の身体は普通じゃなくなってんのよ。
ルアン姉ちゃんが勝手に仕込んだであろう、このイカれた再建能力が続く限り——何度でも、
これは俺にしかできない。
拳を握った。右。左。どっちも動くな、よし、まだ動く。
星嘯に向かって——踏み出す。
一発目。
右ストレート。全力。
当たってないのに、右拳にどすんと衝撃が返る。まるで壁を殴ったみたいだ。指の関節が文句をブー
二発目。
左フック。星嘯の耳を狙う。——また外れた。今度は金爪が割り込んで弾かれる。
賽子——×1。左手全体に鈍い痛み。砕けたなこりゃ。1面。残り48。
三発目。
右のボディ。身を低くし腹を狙う。
——×2。倍の衝撃が右腕限定の暴風雨と化す。もう骨も筋も半狂乱だろう。1面。残り47。
外す。食らう。治る。
四発目、五発目。連続で振る。どっちも空を切る。
残り45。
「——何を、して——!?」
後ろからエレーナの声が飛んできた。黙ってられなかったんだろう。
振り返らず代わりに、左手を後ろに向けて、制する。
——黙って見とけ。
エレーナの声が途切れた。
六発目。
右のアッパー。下から突き上げる。
——×2。顎から脳に衝撃が突き抜けるような反動。一瞬、視界が白く飛ぶ。1面。残り44。
頭を振って視界を取り戻す。
七発目。空振り。×1。痛ぇ。
八発目。空振り。×1。痛ぇ。
九発目。かすった。×2。ひたすらに痛ぇ。
残り41。
十発目。空振り。
この辺から、記憶が怪しくなってくる。
十一。十二。十三。殴って、外して、食らって、治って。繰り返す。また繰り返す。身体が覚えたルーティンを、頭を使わずにこなしていく。単純作業。拳を振る。当たらない。痛みが来る。骨が軋む。肉が裂ける。数秒で元通り。また振る。
どっかで冷静な自分もまたいて、暴発すらしねーのかよ。笑えるな。みんな俺のこと運が良いとか言ってくるけど、これ見てそれでも言えんのか? とか考えている。
——十五発。
残り35面。
腕の感覚がなくなり始めた。痛みはある。あるけど、遠い。身体の奥で誰か別の人間が殴られているみたいだ。身体の修復が追いついているのか追いついていないのか、もうわからない。
十八発。残り32。
空振り。空振り。かすった。空振り。
膝が笑い始めた。踏み込む力が弱くなっている。自分でわかる。拳を振る動作も雑になってきた。最初は顔面やボディを狙い分けていたのが、今はただ——前に突き出すだけ。
二十一発。残り29。
視界がぼやけてきた。汗なのか血なのか、わからないものが目に入る。
二十五発。残り25。
よう、やく——半分だ。
ここまで来た。来ちまった。
息が荒い。荒いなんてもんじゃない。喉から音が出てる。ひゅう、ひゅう、って。肺が潰れてるのか穴が開いてるのか、どっちでもおかしくない。
二十七発。まだ。空振り。×2。反動で右腕の肘がぽきっと折れた。声にならない声が漏れる。腕がだらんと垂れる。4秒。さっきより遅い。修復が——遅くなってる。いくらなんでも限界が近い。
二十九発。残り21。まだ。
三十発。空振り。残り20。
——ここだ。
50面中の×64を引く確率は2%だった。今、20面。5%。まだ低い。でも——2%の頃よりはマシだ。分の悪い賭けには違いないけど、さっきよりはほんの少しだけ、光が見える。
膝が折れかけた。
踏みとどまる。歯を食いしばって——いや、奥歯がひび割れてるのがわかる。食いしばるたびにじゃりじゃりと
「——それで? 終わりですか?」
もう何発振ったか数えてない。三十何発目かの拳を前に突き出そうとしたとき——
ふっ、と。
何かが、背中に触れた。
風みたいに、ふわっと背中を撫でて通り過ぎた。
あたた、かい。
この感覚は——知っている。
白い空間で感じたのと同じだ。あのとき頬に落ちてきた、湿った、あたたかさ。
あいつの涙が届けてくれたもの。
振り返りたかった。振り返って後ろを見たかった。でも身体が動かない。首を回す余裕すらない。
代わりに——聞こえてくるのは、
何かのメロディ。
耳からじゃなく、身体の内側に直接流れ込んでくる。カタチのはっきりしない、でも確かに音楽と呼べるもの。
遠くて、
近くて、
やわらかくて、
芯がある。
何の曲なのかわからない。声なのか、楽器なのかすら判別できない。
ただ——それが誰から届けられているのかがわかり、身体の隅々まで
痛みが引いてくれたわけじゃない。痛みはある。全身のどこもかしこも壊れかけている。でも、その痛みの奥に、もうひとつ別の想いが流れ込んでくる。
俺は1人じゃないと寄り添うように、
見なくても、わかる。
きっと、その行為を形容していいのなら。
——祈り。
「それが——お前にしかできねぇことってワケかよ。サンキュ」
翼の生えた希望のように——、
腕が、軽くなった。さっきまで鉛みたいだった右腕が、嘘みたいに上がる。修復が追いついたのか、それとも——。
理屈はわかんねぇ、
でも——いける。
根拠はない。脳は「無理だ」と言っている。身体の信号は全部赤信号だ。
それなのに、胸の奥の——白い空間から持ち帰った何かが、静かに、でもはっきりと言っている。
——いける。と。
拳を握り直した。
右。左。どっちも動く。どっちも握れる。
右手を突き出し、——構えた。
頭ん中に去来したのは、あの白い空間。
あの一人ぼっちの背中。
俺を見つめた、砂嵐の向こう側——
「何をす——」
「——力貸せぇぇッ!
引きこもり!!!」
踏み込んだ。
残り20面。その中のどれかに×64がいる。当たるかどうかはわからない。
わからないけど——さっきまでと、何かが違う。
背中にあるあたたかさ。身体の内側を流れるメロディ。それが拳の先まで届いている気がする。
けど、拳を握った手が震えていない。ここまで三十発以上振って壊れ続けた手に——力が満ち満ちている。
右足で地面を蹴った。
脳内に言葉が流れ込んでくる。それをそのまま吐き出す。
「星は遠く 命を運び」
全力。出し惜しみなし。持ってるもの全部を右の拳に乗せて、星嘯の——金爪の、その奥を狙う。
「歩みは軽く 旅は続く」
”させません”——
「それは
当然だ。ここまで三十発、一度もまともに当てさせなかった相手が、最後の一発だけ素通りさせるわけがない——。
「
金爪と拳が、正面からぶつかる——
世界が、止まった。——ように感じた。
面がひとつずつめくれていく。×1でも×2でもない。数字が流れて、流れて——
止まった。
刻まれていた数字を見て、呼吸を忘れた。
×64。
——出た。
拳が、光りを放つ。
嘘だろ。比喩じゃない。右の拳が琥珀色に光っている。
×64は——この拳に今、全部が凝縮された。
ならやることは、ただ、ひとつ——!
「
金爪が、目の前にある。
ぶつ、
かる。
拳と金爪が激突した瞬間——音が消えた。
衝撃波でも
無音の中で、
金爪に亀裂が走るのが見えた。
ついに、
限界を迎え、
金爪が——砕けた。
破片が琥珀色の空間に飛び散る。スローモーションみたいにきらきら光りながら散っていくのが、場違いなくらい、やけに綺麗だった。
そして——金爪の奥に、あったもの。
今は暗い光を放つ球体。脈打つように明滅している。見覚えがある。
——星核。
こいつが、全部の中心にあったもの。ビョルンとソニアを飲み込んで、星嘯の分体を作り上げて、シロッカを地獄に至らせる元凶。
拳が——止まらない。
金爪を砕いた勢いのまま、右手が星核に向かって伸びている。止める理由がない。ここまで来るために三十発以上空振りして、身体を壊し続けた。
指先が、星核に触れた。
掴んだ瞬間——胸の奥で、何かが応える。
指先から星核に、何かが流れ込んでいくのがわかる。俺の意志じゃない。身体が勝手にやっている。
「■■」の力が、星核を通じて、その中に閉じ込められたものに——届こうとしている。
——ビョルン。ソニア。
——待ってろ、自由にしてやる。
「
声が出ているのかどうかもわからない。口が動いて、言葉が出て、でもそれが自分の声なのか、もっと別のどこかから来ているのか——
視界が、光で白く染まっていく。
琥珀色の
白。
全部が白に塗り潰されて、
——気がついたら、
——俺はまた、あの場所に立っていた。
■執筆時BGM
「翼の生えた希望」ロビン
⇒タイミングはお任せします。ぜひ流してみてください。
「Starrrrrr」[Alexandros]
⇒詠唱シーンはずっとかけてた