ルキンフォー・エム   作:來馬らんぶ

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#54 "Ticket to Past"

 

 

 

 

 

 ——なんで、いないの。

 

 死んでも守るっていってくれたのに。あの時の胸と頬の熱さを忘れたことなんてないのに。

 

 名前をくれたことだって、そう。

 

 全部、全部、覚えてるのに。

 

 

 

 

「た、すけ——ゼ……イ……ン、」

 

 

 

 

 かすれた声は、喉を潰される寸前の、空気の残りかすみたいな音だった。

 

 誰かを呼ぶにはあまりに弱く、願いと呼ぶにはあまりに遅い。

 

 (せい)は爪先を宙でバタつかせる。

 

 首を掴む(じん)の手は、冷たく、固く、鉄の(かせ)のように動かない。指が少し沈むたびに、肺から空気が抜けていく。

 

 SAMは地面に縫い止められたまま、かすかな駆動音を漏らしている。

 

 銀狼は刃を睨みながら、言うことを聞かなくなって地面から立てない太腿(ふともも)を必死に殴りつけている。

 

 青い格子が消えた広場には、もうゲームのルールも、勝利条件も、彼女だけの管理者権限も残っていない。

 

 ——そうつまり、

 

 ただ、死なない男と、死にかけている少女たちがいるだけだった。

 

 だから。

 

 

 

 

 

 その声は、届かないはずだった。

 

 

 

 

 

 それなのに——

 

 

 

 刃の指が、止まった。

 

 

 

「…………」

 

 光のない瞳が、わずかに揺れる。

 

 

 (せい)の首を締め上げていた手が、ほんの少しだけ緩んだ。

 

 空気が細く一瞬、喉に戻り、星の身体が小さく震える。

 

 

 刃は、(せい)を見ていなかった。

 

 もっと遠くを見ていた。

 

 

 今ここではない、どこかを。

 

 

 今ここにはいない、誰かを。

 

 

「……あ……」

 

 乾いた唇が動く。

 

「あ……の……男は……」

 

 声は低く、割れていた。

 

 刃自身のものなのか、傷口の奥で咲いていた朱い花のものなのか、誰にも判別できなかった。

 

「……どこ、だ」

 

 (せい)の目が見開かれる。

 

 銀狼も、息を止めた。

 

 今の一瞬、刃は確かに止まった。

 

 魔陰(まおん)に呑まれ、豊穣の再生に突き動かされ、何度壊しても立ち上がってきた男がここに来て動きを止めたのだ。

 

 理由はわからない。

 

 記憶なのか。

 

 反射なのか。

 

 それとも、まだ起きていない何かが、傷の奥に残っているのか。

 

 けれど、()()にとっては、その一瞬で十分だったと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

「——聞いて:」

 

 

 

 

 

 

 甘い声が、壊れた広場に落ちた。

 

 (せい)の肩が、ぴくりと跳ねた。

 

 暗がりから歩いてきた女————カフカは、赤紫の髪を揺らし、口元だけはいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。

 

 足音は静かで、急いでいるようには見えない。

 

 けれど、彼女の目は笑っていなかった。

 

 

「その子を、離して」

 

 

 カフカの言葉に、刃の指が、一本ずつほどけた。

 

 星の身体がドサッと落ちる。

 

 受け止める者はいない。星はそのまま地面に崩れ、何度も咳き込んだ。潰れかけた喉が空気を求めて鳴り、涙が勝手に滲む。

 

 

 それでも、生きていた。

 

 

 そのまま近づいてきたカフカは(せい)を見下ろし、少しだけ目を細める。

 

「キミはよく頑張ったわ、(せい)

 

 優しく褒める声でそう言う。

 

 が、次の瞬間、その隣にいる刃へ向けられた声は、同じ甘さのまま、芯が凍っていた。

 

 

 

「聞いて:——お座り」

 

 

 

 刃の膝が折れた。

 

 地面が割れるほどの音を立てて、膝が石畳に叩きつけられる。

 

 だが、それだけでは終わらない。

 

 

「——伏せ」

 

 

 刃の上体が前へ倒れた。

 

 腕が支えるより早く、額が瓦礫の上へ押しつけられる。まるで見えない巨大な手に、頭から地面へ押さえ込まれたようだった。

 

 骨が軋む音がする。

 

 

 うなり声を上げて、刃は動こうとした。

 

 

 背中の筋肉が膨れ、指が石畳に食い込む。"豊穣"による再生が傷を閉じ、立ち上がろうとする身体に力を戻していく。

 

 そのたびに、カフカは一歩ずつ近づいた。

 

「待て」

 

 刃の動きが止まる。

 

「動かないで」

 

 指先の震えまで止まる。

 

「息だけしていなさい」

 

 刃の胸だけが、かすかに上下した。

 

 言葉が重なっていく。

 

 命令が、刃の身体の奥へ沈んでいく。

 

 壊れた理性に命じているのではない。

 

 意志に命じているのでもない。

 

 カフカはより深層にある、刃という男がまだ反応してしまう場所へ、細い針を刺すように言霊(ことだま)でもって命じる。

 

 その様を見て銀狼は、ようやく息を吐いた。

 

「……遅い」

 

「ごめんなさい。少し、立て込んでいたの」

 

 カフカは笑った。

 

 その笑みのまま、視線が動いて行く。

 

 地面に倒れている(せい)

 

 次に、背中を貫かれたまま動けないSAM。

 

 最後に、膝をついたまま立ち上がれない銀狼。

 

 笑みが、少しだけ深くなる。

 

 

 

「——うちのおチビちゃんたち3人のことを、ずいぶんかわいがってくれたみたいね」

 

 

 

 刃は答えない。

 

 答えることを許されていない。

 

 

 

 ——もしこの光景を、カフカ検定特級を保持している男が見たらこう言ったことだろう。

 

 

 ——オイオイオイ、あ、これハイスコア更新レベルのリアルガチのマジなブチ切れっすね。死ぬわ、アイツ。

 

 

 

 カフカは刃の前にしゃがみ込んだ。

 

 指先で、彼の髪をそっと払う。まるで眠っている子どもの額に触れるみたいに、優しい仕草だった。

 

「だから、お礼をしないと——ね?」

 

 次の瞬間、赤い糸が刃の首に巻きついた。

 

 ぎち、と音が鳴る。

 

 刃の身体が地面からわずかに浮いた。糸に首を吊られ、伏せた姿勢のまま無理やり上体を引き起こされる。

 

 ゴキッと、頸椎が立ててはいけない音を発する。

 

 普通の人間なら、その一音だけで終わっていた。

 

 けれど刃は死なない。

 

 死なないからこそ、カフカは遠慮しなかった。

 

 乾いた銃声。

 

 刃の右手が弾けた。

 

 (せい)の首を掴んでいた指の付け根を、正確に撃ち抜いている。

 

 刃の腕が、もう何も掴めない形で地面に落ちる。

 

 しかし、

 

 待ってましたと言わんばかりに再生が始まっていた。肉が盛り上がり、骨が戻ろうとする。

 

 カフカは銃口を下げ、空いた手で刀を抜くと、

 

 刃の背中へ、赤い線が走った。

 

 深くはない。

 

 だが浅くもない。

 

 背骨の横、筋肉の束、動くために必要な場所だけを選んで裂いていく。

 

 どっかのポチに対するお仕置きのせいで勝手に高速で治る身体の壊し方を、カフカはよく知っていた。

 

 

 

 だから——

 

 

 

 愛機であるサブマシンガンではなく、カフカの左手に拳銃(けんじゅう)が現れる。

 

 装填(そうてん)されているのは、彼女が自分のために作らせた特注(とくちゅう)弾——ホローポイントの中空部分に、極細(ごくぼそ)の糸を仕込んだものだった。

 

 銃口が、刃の右手に()えられた。

 

「銀狼の右手も焼いてくれたものね」

 

 乾いた音が一つ。

 

 弾頭が手の甲を貫通する。

 

 着弾の瞬間、(なまり)花弁(かべん)が肉の中で開いた。中空部分から燐光(りんこう)を帯びた糸が放たれ、筋繊維と神経のあいだに蛇のように(すべ)り込み、編み目となる。

 

 

 刃の手は、すぐに塞がり始——

 

 

 

 めなかった。

 

 

 

 糸が傷口の縁を内側へ引き込む。閉じようとする肉を、体の奥へ引きずり戻す。

 

 治癒の力と糸の力が拮抗(きっこう)して——傷は閉じることが叶わない。

 

 どこかのポチに対するお仕置きのために編み出した、カフカ専用の装弾(そうだん)

 

 治る相手の傷を、治らせない技術。

 

 

「あとは背中と——そうね喉も」

 

 

 獣じみたうなり声が止む。どうやら声を発することのできる身体の器官が吹き飛んでしまったらしい。

 

 

 『え、エグない……?』と誰かのコメントが幻聴で聞こえてきそうな程に開いたまま、釣り上げられた魚のようにひくついている傷口から覗く剥き身の肉に対して引き金を絞る。

 

 まるで身体に次から次へ蜘蛛の巣が張っていくように風穴の数を増やし、その都度、カフカが浮かべる凄絶な笑みが深くなっていく。

 

 マガジン内の銃弾を撃ち尽くして、つまらなそうに鼻を鳴らした頃、

 

 

「カフ、カぁ……」

 

 

 星が、喉を押さえながらしゃがれた声を出した。

 

「しゃべらないで。喉を痛めているわ」

 

「……ホタル、が」

 

「わかってる」

 

 カフカは刃から目を離さずに、糸を一本、SAMへ伸ばした。

 

 貫かれた装甲に触れた糸が、損傷部位をなぞる。無理に引き抜けば悪化する。だから、縫い止めている剣の角度だけを少し変え、SAMの身体にかかっていた負荷を逃がした。

 

 内部から響いてきたのは、小さな吐息がかすれ声に混じった、

 

「……カ、フカ……?」

 

「もう大丈夫よ、ホタル。すぐに治療してあげる、もう少しだけそこで待っていて」

 

(せい)、は……」

 

「生きているわ」

 

「よかっ、た……」

 

 その一言で、SAMがホッとしたように力を抜く。

 

 銀狼も膝に手をつき、立ち上がろうとして失敗した。

 

 視界の端でエラー表示がちらついている。愉悦の空間を無理やり畳まれた反動(フィードバック)が、まだ神経に残っていた。

 

「……ほんっと、最悪」

 

「キミもよくやったわ、銀狼」

 

「褒められてもリザルトがゴミなら萎えるんだけど」

 

「負けていないでしょう?」

 

「……勝ってもない。あーもう悔しいッ」

 

「なら、次は勝てるようもう少し現実(リアル)の戦闘に慣れるコトね」

 

 カフカは刃の首に巻いた糸を軽く引いた。

 

 刃の額が、再び地面に叩きつけられる。

 

 その時だった。

 

 空気が、ふっと薄くなる。

 

 瓦礫の広場に、黒い羽のような影が舞った。

 

 

 

 

 

「——どうやら、安全は確保できたのかしら」

 

 

 

 

 

 眠りに落ちる間際に耳元でささやくような、柔らかな声がして、

 

 崩れた壁の上に、夜に紛れる黒鳥の羽を思わせる衣装の女性が立っていた。夜をそのまま薄く伸ばしたようなヴェールが揺れ、瞳には底の知れない静けさがある。

 

 彼女の名は、ブラックスワン。記憶の庭園(ガーデン・オブ・リコレクション)の一員であるメモキーパーである。

 

 その隣に、もう一人。

 

 白い手袋をはめた指先でスカートの裾をつまみ、優雅に瓦礫の上へ降り立つ女がいた。

 

 コンスタンス。

 

 燃え残りのような幽雅な気配をまといながら、泣きぼくろが特徴的なその表情は上品に整っている。

 

「まあ。ずいぶん荒れた舞台ですこと」

 

「ちょっと、元々壊れてたし。責任の半分以上はそこの不死身でしょ」

 

 誰この人たちと思いつつ銀狼が顔をしかめて言い返すと、コンスタンスは唇に指を添えて小さく笑った。

 

「くすくす。元気が残っていて何よりですわ」

 

 ブラックスワンは、倒れ伏した刃へ視線を向けた。

 

 カフカが一歩横へ退く。

 

「動かないようにはしてあるわ。でも長くは保たない」

 

「十分よ」

 

 ブラックスワンは刃の前に膝をついた。

 

 手袋に包まれた指先が、刃の胸元へ触れる。

 

 その瞬間、刃の周囲に淡い光が浮かび上がった。

 

 憶泡(おくほう)——記憶が、形になる前の薄い膜で包まれた泡のように、刃の身体から剥がれていく。

 

 リアルな映像というより断片的な抽象画のようなイメージが浮かんでは消えていく。

 

 鍛冶場の火。

 

 金属を打つ音。

 

 夜のように冷たい剣。

 

 白い月。

 

 誰かの笑い声。

 

 誰かに向けた、苛立ち。

 

 鬨の声。慟哭。

 

 誰かを見送る、沈黙。

 

 そのすべてが、小さい(あぶく)になってブラックスワンの手元へ集まっていく。

 

 カフカの糸が刃の首を押さえ、銀狼が震える手で端末を操作し、周囲に簡易の遮断フィールドを張った。

 

 (せい)も座り込んだまま、その不思議な光を食い入るように見ていた。

 

 あれが、人の記憶なのだと理解するには、少し時間がかかった。

 

 刃という男が、ただの怪物ではなかった時間。

 

 誰かと喜び、誰かと笑い、誰かと怒り、誰かと泣いて、誰かを愛し、誰かを憎み、誰かを失った時間。

 

 それを、いま自分たちは剥がしている。

 

 必要なことだとわかっていても、なぜか(せい)の胸の奥が痛んだ。

 

 痛みの理由が、首を絞められたせいではないと気づいたとき、ブラックスワンの指が止まった。

 

 

「……妙ね」

 

 

 空気が変わった。

 

 光の泡が、途中で詰まったように動きが止まっていた。

 

 刃の記憶を引き出していたはずなのに、その奥から別の色が滲んでいた。

 

 朱。

 

 花の色。

 

 傷口から咲いていた彼岸花の色。

 

 ブラックスワンは、わずかに眉を寄せる。

 

「この記憶、奥底に別の泡があるみたい」

 

「別の泡?」

 

 カフカが問う。

 

「ええ。彼本人のものではない記憶が、混じっている。いや、記憶というより、もっと——彼の中に根を下ろしている、別の何かとでもいえばいいかしら」

 

 銀狼が舌打ちした。

 

「それ、たぶん戦闘中に見えたやつ」

 

 全員の視線が銀狼へ向く。

 

 彼女は額に手を当て、ガンガン痛む頭を無理やり働かせるように目を細めた。

 

「その刃ってやつの中に、別のが入ってた。本人の生体反応とズレてるやつ。しかも、かなりヤバいの」

 

「ヤバい、というのは?」

 

 ブラックスワンが静かに促す。

 

 銀狼は、少しだけ黙った。

 

 言葉にすると、嫌な感じが増す。

 

 だが、黙っていても消えない。

 

 

「たぶん——使令クラスのなにか

 

 

 コンスタンスの笑みが、ほんのわずかに止まった。

 

 カフカは表情を変えない。

 

 けれど、刃を押さえる糸が数本増えた。

 

「そう」

 

 カフカは刃を見下ろす。

 

 やわらかな声のまま、目だけが冷えていく。

 

「なら、なおさら丁寧に扱わないとね」

 

「丁寧って言葉の意味、私の辞書と違わない?」

 

 銀狼のぼやきに、誰も答えなかった。

 

 ブラックスワンは再び刃の記憶へ触れる。

 

 今度は、奥に絡んだ朱い泡を避けるように、必要な部分だけをすくい取っていく。

 

 刃という男の現在ではなく、もっと前。まだ百冶と呼ばれ、剣を打ち、誰かの隣で未来を信じていた時代。

 

 その時空座標を含んだ記憶だけを、薄く、細く、しかし壊さないように。

 

 光が集まっていく。

 

 最初は霧のようだった。

 

 次第に輪郭を持ち、平たい結晶の形へ変わっていく。

 

 刃の胸元から剥がれた記憶が、ブラックスワンの手の中で、ひとつの光円錐へと固まった。

 

 淡い光を宿したそれは、静かに震えていた。

 

 まるで、まだ中で誰かが息をしているみたいに。

 

 

「——これで抽出は完了よ」

 

 

 ブラックスワンが言う。

 

 (せい)は息を呑んだ。

 

 銀狼だけが、疲れ切った声でつぶやく。

 

「ねぇカフカ……これが今回の目的ってわけ?」

 

「ええ。キミたちと私の脚本のね」

 

 カフカは首肯し、刃に対し、「聞いて:眠って」とささやくと、強張っていた身体の筋肉はゆるんでいき、瞼が閉じた。

 

 そこまで見届けてようやく銀狼は、

 

「はぁ……ゼインがあのクソネコって言ってたワケがわかった気がする。何考えてんのアイツ」

 

「ふふっ、それならまた猫の気持ちがわかるようになりたい?」

 

「あ、あれは忘れて! 2度とゴメンだから!!」

 

 あの口調のまま過ごした地獄の1週間を思い出して顔を真っ赤にした銀狼。

 

 と、

 

「——少しいいかしら? これ、長くは安定しないわ」

 

 ブラックスワンの両手に包まれた光円錐に、微かな揺らぎが走っていた。

 

「本人の状態が不安定すぎる。奥に混じったものも、こちらの抽出に反応しているから」

 

「つまり?」

 

「鮮度が良いうちに、すぐに届ける必要がありそう、ということですわ」

 

 コンスタンスが、ゆっくりとカフカを見る。

 

 続く形で、ブラックスワンも、銀狼も、(せい)もカフカの反応をうかがう。

 

 一同の視線を集めたカフカの横顔は、鈍い光しか放っていなかった目つきをいつもの穏やかなものに戻し、

 

 

「そうね。それは——」

 

 

 

 

 

 

 

 

    ★    ★    ★

 

 

 

 

 

 

 

 

 ——自分、行けます。行かせてください(過去)

 

 とは言ったものの、肝心要(かんじんかなめ)光円錐(こうえんすい)がなきゃダメなわけでそれまで待機なんかなーとぼんやり考えつつ、俺はヘルタ様の背骨の脇を指圧していると、

 

 

「んんっ、あーそこそこ。——下僕サンプル」

 

「へい?」

 

 中央テーブルの上に突っ伏したヘルタ様が、こちらを見ないまま指を鳴らした。

 

「そろそろ返してあげる」

 

「えっ」

 

 俺は反射的に背筋を伸ばした。

 

「もしかして、愛を?」

 

「武器」

 

「ですよねー」

 

 わかってた。

 

 わかってたけど、言うだけならタダじゃないですか。だから戦争がなくなんねーんだよ。愛より武器じゃなぁ。

 

「……はぁ、まったく手ぶらで行かせるわけないでしょ」

 

 ヘルタ様は呆れたようにため息をつき、壁際に控えていたアーランへ視線を向ける。

 

「アーラン。直したやつ、持ってきて」

 

「はっ、ミス・ヘルタ」

 

 アーランは短く返事と敬礼を返し、いったん下がっていく。

 

 その背中を見送っていると、アスターがいつの間にか俺の横に来てじっとこちらを見上げていた。

 

「……え、なに?」

 

「ちょっと失礼しまーす」

 

 俺の腕を抱き寄せて顔を寄せると、スマホを取り出して自撮りを数枚、目にもとまらぬ早業(はやわざ)で撮影してしまう。

 

 え、ちょ、勝手にツーショ撮られたの? ちゃんとCD買った? チェキは無料じゃないんだぞ。

 

 と、ぽかんとしている俺に対して、

 

「ご協力ありがとうございまーす。これで実家に対して言い訳と外堀(そとぼり)をどうにかできそうです」

 

 え、なに、こわ……外堀ってどゆこと……? 俺の勘が放置したらかなりマズいことになりそうだと警鐘(けいしょう)を鳴らしていた。

 

 だが、問いただすより先に、

 

「ちょっと下僕サンプル、手が止まってる」

 

「あ、はい、すんません!」

 

 ヘルタ様にマッサージの続きを促され、おまけにすぐ自席に戻って、ぶっ壊したタブレットとは別の端末に向かって忙しそうにし始めたアスターに言うタイミングを逃してしまう。

 

 

 悶々(もんもん)としている間に、戻ってきたアーランは、両腕にケースを抱えていた。

 

 ひとつは細長い。

 もうひとつは、細長いというより、重そうだった。

 

 というか、実際に重いのだろう。アーランの腕はぶれていないが、前腕のあたりに血管と筋肉が浮かび上がっている。

 

「ミス・ヘルタ。ご指示の装備をお持ちしました」

 

「そこに置いて」

 

「承知しました」

 

 アーランはテーブルの上にケースを並べた。

 

 手つきは丁寧だった。

 

 真面目なやっちゃなぁ。俺にはまぶしいよ、その仕事ぶり。

 

「ミスター・ゼイン、どうぞ。こちらがお預かりしていた、パルサーエッジ ・ヘルタカスタム。と、こちらが、ノヴァイレイザー・ヘルタカスタムです」

 

「おー、サンキュ!」

 

 我が相棒たちと久しぶりの再会だ。会えない期間が俺たちの絆をより深めてくれたとか適当を言ってみる。ってか末尾になんかついてなかった? 俺の気のせい?

 

 まず、細長いケースの留め具に指をかける。

 

 ぱちん、と軽い音がして、蓋が開いた。

 

 中に入っていたのは、見覚えのあるパルくん——ではなかった。

 

 いや、見覚えはある。

 

 あるんだけど。

 

 1本じゃない。

 

 

 

 

 

 

 

 2本ある。

 

 

 

 

 

 

「…………」

 

 俺はしばらく黙って、それらを見つめた。

 

 銀色の(つか)が、左右に並んでいる。どちらにも微細な回路が走っていて、片方が本体で片方が予備、という感じでもない。

 

 そっと片方を持ち上げる。

 

「おおっ!」

 

 前より少し軽いし、スリムになっている。

 

 そう思った次の瞬間、ボクもと言わんばかりにもう片方の柄が淡く光った。

 

 

「……ヘルタ様」

 

「なに」

 

「俺のパルくん、増えてません?」

 

「見てわからない? 増やしたの」

 

「あーそっかぁ、増やしたんすねぇ」

 

 明るい家族計画の結果なのか、パルくんが、双子になっていた。

 

「中身見たけど元の一本は、起動機構と位相回路に負荷が集中しすぎていたの。ミィルらしいね。美学なんてカケラもなくて、見た目は軽く、扱いも軽い。だから中は無理やり継ぎ足した回路だらけ」

 

 ヘルタ様はケースに残った方の柄を手に取って、面白くなさそうに目を細めた。

 

「でも腹が立つほど綺麗な()()ぎ。整備性は最悪だけど、噛み合わせだけは美しいんだから。あの子、こういうところだけ本当に嫌になる」

 

 ヘルタ様はもう片方の柄を指で弾く。

 

「だから私は——出力系統を2つに分けたの。これで二刀流で使える。しかも、その方が1本あたりの負荷は下がるし、片方が壊れたりなくしたりしても、もう片方で戦える」

 

「えスキめっちゃ親切」

 

「それだけじゃないよ。柄をこう、合わせてみて」

 

 ちっ、サブリミナル好きを華麗にスルーされちまったわ。

 

 言われるまま、拍子木(ひょうしぎ)を持つように2本の柄を近づける。

 

 マグネットのようにカチッとひっつく。

 

 その瞬間、2本の柄が1本の太い柄へ変わり、中央の回路が一気に光った。

 

 ブゥン、と低い唸り。

 

 いつものサイズの光刃じゃない。

 

 光の刃が、分厚く、長く伸びていく。片手剣というより、両手で振る大剣だった。

 

「おお……」

 

 

 やばい。

 

 

 これは、やばい。

 

 

 俺の中の男の子の部分が、かなり元気になっている。ちなみに男の子の部分って、変な意味じゃないんで嫌いにならないでね。心よ心。

 

 

「二刀流でも使えるし、合体させれば大剣にもなる。出力を一点に戻すから、単純な攻撃力はこっちの方が上。ただし、取り回しは悪いかも。あなたが振り回される可能性もあるしね」

 

「俺が武器に振り回されるタイプの人間だと?」

 

「違うの?」

 

「俺が振り回されるのは、おねーさんだ――」

 

「はい、どんどんいくよ」

 

「あーん、聞いて~」

 

 ヘルタ様は、ついでみたいに自分の腕にはめてた小さな腕輪を投げてよこす。

 

 慌てて受け取った。腕時計のバンドくらいの銀色の細い輪だ。内側に小さな回路が並んでいる。

 

「それも着けて」

 

「これ、なんすか? 大丈夫なやつ?」

 

 といってもはめちゃうんだなぁ。

 

「当たり前でしょ。パルサーエッジ側とその腕輪(ブレスレット)、相互に位置情報を持たせてある。やむを得ず手放しても、一定距離内なら手元に戻せるよ」

 

「……え、マジで?」

 

 ブーメランできる……ってコト!?

 

「マ、ジ。下僕サンプル、どうせ投げるでしょ」

 

「い”? いやまあ、状況次第では」

 

 よみがえるシロッカの思い出の数々。

 

「落とすでしょ」

 

「それは……はい」

 

 よみがえるグラ——

 

「吹き飛ばされるでしょ」

 

 よみ——のねーちん、

 

「あーん、そこまで見越さないで~」

 

 腕輪をはめると、パルサーエッジの柄がわずかに震えた。ペアリングしたのかもしんない。

 

 試しに一本を少し離れた作業台へ置いて、腕輪に意識を向ける。

 

 

 次の瞬間、

 

 

 柄が、するりと俺の手元へ滑ってきた。まるで糸で手繰(たぐ)るよう……というより、

 

 

 

「おおお〜!」

 

 すげぇ。擬似(ぎじ)フォース。あ、言っちゃった。

 

 クッソ便利じゃんかこれ。

 

 俺のパルくんが帰巣本能(きそうほんのう)を覚えたぞう!

 

「ただし万能じゃないからね。強い遮断フィールドの中、星神(アイオーン)由来の干渉下、あと当然だけど回収するルート上に物理的に邪魔があれば戻らない」

 

「いやいや大改善っすよ、ヘルタ様万歳〜、大好き〜」

 

 なんなのこの人、俺のことわかりすぎてるフシがある。もしかして好きなのかな。えーもう困る〜。

 

 

 ——ん?

 

 

 ……なんか舌打ちが聞こえた気がするが気のせいだよな、うん。

 

 俺はパルサーくんとエッジくんとなった相棒をいつもの腰にぶら下げる。

 

 そんでもって、もうひとつの重いケースに目を向ける。

 

 ノイちゃんこと、ノヴァイレイザー。

 

 かわいい愛称をつけて、どうにか心理的距離を縮めようとしているが、実態は全然かわいくねーのよなぁ……、

 

 ケースを開ける。

 

 中のノヴァイレイザーは、前より形が整っていた。

 

 というか、明らかに部品が増えている。

 

 銃身の側面には冷却用らしい薄い羽根が畳まれていて、グリップの根元には新しい接続口が三つ。前は無理やり詰め込まれていた感じのカートリッジ周りも、きちんと差し替えやすそうになっている。

 

 そんでもって、一緒に渡した残りの燃料カートリッジ2発はそのままに、ヘルタ様の帽子のイラストが描かれたラベルが貼られたカートリッジがたくさんある。

 

 ヘルタ様は、ノヴァイレイザーの銃身へ複雑そうな顔で視線を落とす。

 

「こっちは、正直あまり触りたくなかった」

 

 声の温度が少し下がる。

 

「チャドウィックの理論を、ミィルが勝手に兵器にしたもの。そこへ私がさらに威力を足したら、同じ穴のムジナになるでしょ。だから虚数崩壊インパルスの中核には手を入れていない」

 

 ヘルタ様が言葉を切る。

 

「ただ、あなたにそのまま持たせるのも嫌だった。撃つたびに全身を焼かれて、反動で転がって、冷却不良で銃身が歪む。武器として下品すぎる。それに――」

 

「使い手も下品、って?」

 

 俺がへへへと笑うと、どうやら図星だったらしく、ヘルタ様はむすっとして、

 

「使い手も下衆(ゲス)

 

 大事なことだから2回言うよね、そりゃ。なんか気持ちアレンジされてたけど。

 

「ミィルのカートリッジは残っている2発だけ。そこは増えてないよ」

 

「え〜っ、増えてないんすか!」

 

 結構そこ、実は期待してたんだけどなぁ。

 

「ヘルタ様でもやっぱり難しいもんなんすね……」

 

「勘違いしないで」

 

 ヘルタ様は、不機嫌そうに眉を寄せると、

 

「この私を、誰だと思ってるの。正確に言えば、時間をかければ解析も複製もできる。けれど、今やる価値がないの。これは燃料というより、ミィルがチャドウィックの理論を無理やり押し込めた封止弾(ふうしだん)。思想も材料も工程も悪趣味だし、再現するには検証が多すぎる」

 

 なんか、スイッチ入れてしまったっぽい。

 

「こっちはグノモンの作成と最終調整、帰還アンカーの設定、光円錐回帰理論の検証まで抱えていたの。下僕サンプルの自爆用の弾を増やすために、私の時間を使い潰すと思う?」

 

「す、すんません」

 

「よろしい。口の利き方に気をつけること」

 

 ヘルタ様は腕を組むと説明を再開する。

 

「既存モードもそのまま。極点集中(フルバースト)と、極度拡散展開(オールレンジフォール)。壊れていた銃身展開は直したついでに、後者のロックも解除したから使えるようになってる」

 

「え、オールレンジすか?」

 

 そんなんあったっけ?という思考が顔にダダ漏れていたらしく、

 

「呆れた……」

 

「いや違うんですって、俺がこいつをぶっ放す時って大抵一撃でドデカいのブッ倒さないといけないケースが多くてですね」

 

「じゃあ、そうじゃない時に使えばいいんじゃない」

 

 雑に返すと、ヘルタ様は、例のケースの横に並んでいたラベルのついたカートリッジを3つ取り出した。

 

 ミィルの燃料カートリッジより小さい。色も違う。危険物というより、精密機器の部品に見える。

 

「それで、こっちが新しく作ったヘルタカートリッジ」

 

「ヘルタ様カートリッジ?」

 

 思わず復唱したが、声に出しただけで、なんか強そうだった。

 

「うん。本体に焼き込まれていた元の2つのモードとミィルカートリッジは使わない。このカートリッジは弾と制御モードを一体化してあるの。ノヴァイレイザー本体には、銃身と演算と冷却と反動制御だけ借りる。既存モードをいじるより、新しいモードを足したほうが速かったから」

 

「ってことは、ノイちゃんに追加コンテンツが来たわけっすね」

 

「最低の理解だけど、だいたい合ってる」

 

 だいたい合ってりゃいいんですよ、ヘルタ様。

 

 あるカートリッジを指で弾くと、

 

「1つ目。チェインハウンド」

 

 カートリッジの表面に、小さな猟犬のようなマークが浮かぶ。

 

「単体絶対追尾モードね。一度ロックした獲物は逃がさない。曲がってでも、回り込んででも、必ず命中する。物陰、障害物、屋根越しでも追う」

 

「ワン、ダフル。名前の通り、猟犬っすね」

 

「鎖に繋がれた猟犬だよ。だから、欠点もある。あとツッコまないから」

 

 ヘルタ様は俺を見る。

 

「一度ロックしたらひたすら演算して追尾するから当たるまで途中で別の敵に切り替えられないし、次弾も撃てない」

 

「それはまた……使い所の見極めが肝心な」

 

 ヘルタ様は、2つ目のカートリッジを示す。

 

「2つ目。フィクスドカノン」

 

 今度のカートリッジには、砲台のような記号が刻まれていた。

 

「ノヴァイレイザーを地面や壁に固定して、定点砲台にする。あなたは銃から離れて、パルサーエッジで戦える。その間、銃は勝手に援護射撃を行う」

 

「え、ノイちゃん自立すんの?」

 

「自立じゃないから。腕輪を制御キーにして、最低限の射撃判断を渡しているだけ」

 

 俺は手首の腕輪を見る。

 

 パルくんを呼び戻すための便利腕輪は、いつの間にかノイちゃんのリモコンを兼ねていたらしい。

 

「つまり、一人で前衛と後衛をやれってことっすか」

 

「そう。一人クロスファイアね」

 

「言い方だけならめっちゃかっこいい……」

 

 ソロクロスファイア……、ヒェア……、

 

「実際、使いこなせれば強いんじゃない。あなたが敵の正面を取って、ノヴァイレイザーが横や背後から撃つ後方支援もどきさせるとか」

 

「あのー使いこなせれば、の部分が聞こえたんすけど」

 

「わからなかった? 聞こえるように言ったから。あとこっちは重さ的に腕輪で回収できないから」

 

 ですよね。

 

 つまり、置く場所を間違えたらただの重い置物になる。

 

 しかも、ノイちゃんを置いて俺がパルパルで突っ込むとすっと、回収できなかったときに凶悪兵器の不法投棄でお縄につく可能性がある。

 

 でも、決まったら絶対かっこいいのでは。

 

 それはわかる。

 

「3つ目。エレメンタルショット」

 

 3つ目のカートリッジには、7つの小さな光点が並んでいた。

 

「ま、これは属性付与弾だね。一発ごとに属性を選べる。炎、氷、雷、風、虚数、量子、物理」

 

「おお、ゲームっぽい」

 

「敵の弱点に合わせて使い分けるためのものだよ。威力そのものは控えめだけど、汎用性は一番高いんじゃない?」

 

 たしかに。

 

「つまり、困ったらこれ」

 

「そう。困ったらこれ。あなたはだいたい困るでしょうし」

 

「あーん、過去行くってのに、俺の未来を見ないでください」

 

「聞いたよ。ルアン・メェイから。ズタボロになるのが趣味なんでしょ」

 

 し、しどい。

 

 誰が好き好んでボロ雑巾になりたがるんだっつーの、寄ってたかってみんなが俺をボロ雑巾に仕立て上げていくんだ。ウェーン。

 

 まーつまりまとめるとだ。

 

 チェインハウンドは、追尾弾。

 フィクスドカノンは、遠隔操作型の独立砲台。

 エレメンタルショットは、属性弾ってことか。

 

「なるへそなるへそ」

 

 俺はノヴァイレイザーをしまい、カートリッジをローブの内ポケットに詰めていく。

 

「——ありがとうございます、ヘルタ様。いっぱいの愛、受け取りました。全部の弾は発射する際にヘルタ様のハートを撃ち抜く気持ちでトリガーを引きますね」

 

「急に真面目な顔してふざけたこと抜かさないで。愛ってなに気持ち悪い」

 

「あーん、せっかく感謝したのに!」

 

「感謝するなら働きで返したら。あなたの旅行じゃないんだから」

 

「旅行気分で過去に行くやつ、たぶんいないっすよ」

 

「あなたならありえるでしょ」

 

 えーそんなことないっすよぉ。

 

「あとヘルタ様、1ついいすか」

 

「なに」

 

「……なんでこんな男の子心わかるんすか?」

 

 スレンダーなお胸を張ってふんぞり返りつつ、ヘルタ様は、そりゃもう子供みたいに、

 

 

 

 

 

「だって天才だもーん」

 

 

 

 

「え、か(↑)ーわ(→)ーい(↑)ーい(↓)〜」

 

 

 俺がギャルっぽく全身で称賛を表したその瞬間、

 

 

 

 本気でイラッとしたとき特有の、反射で出る速度で放たれた舌打ちが耳に届く。

 

 

 

 俺はギギギと発生源の方へと目を向けざるを得ない。

 

 あのぉー……めちゃくちゃ舌打ちの音が聞こえたんすけど、アスターさーん? おたくってなんかストレス溜まってるの?? 今のなんか物凄い速度でタイピングしている仕事に対する舌打ちだよね?? それがつい出ちゃったんだよね? ねっ、ねっ?

 

 アーランもフライングフィッシュ並に目泳いで滝汗かいてるし。

 

 かー……これだから年下は……、さっきの意味不明な行動もするしよぉ……ったく、見習えよな、

 

 ほれ、年上の見本のようなルアン姉ちゃんも手持ち無沙汰になっちゃったのか刺繍枠(ししゅうわく)取り出しちゃってんじゃねーか——んんん?

 

 あれれー、手元よくよく見ると同じ場所に針を抜き差ししてるだけで「プスッ……プスッ」としかつぶやいてないぞー? 

 

 滅茶苦茶恐いんだけど。夢に出そう。

 

 

「はぁ、下僕サンプルと会話してるとIQ下がりそう。とにかく説明は以上だから。せいぜい頑張って」

 

「はい、必ずやヘルタ様の役に立ちますんで」

 

「ご褒美目当てでしょ」

 

「当たり前じゃないすか。必ずやあーんなことやこーんなことのご褒美もらいに帰ってきますんで!」

 

 

 

 その時だった。

 

 

 

 研究室の照明が、チラつくように一瞬だけ暗くなった。

 

 

「……あん?」

 

 顔を上げる。

 

 空気が、薄く揺れていた。

 

 風が吹いたわけではない。

 

 それなのに、中央テーブルの表面が、水面みたいに波打つ。

 

 夢か、それともアブナイおクスリでもキメたみたいな現実感の薄い光景の中、

 

 次の瞬間、黒い羽がひらひらと舞って、

 

 

 

「——お待たせしたかしら」

 

 

 

 声がする。

 

 気づけば部屋の入口付近に、おねーさんが立っていた。

 

 

 ——どちらさん? とかどうでもよかった。

 

 

 カールがかった薄紫の長髪と寝所(しんじょ)から出てきたばかりのような薄衣の衣装はボボンキュッボンを惜しげもなく披露してくれる——控えめに言って、女神。

 

 その隣に、全身白ずくめのもう一人。

 

 白い手袋をはめた指先でスカートの裾をつまみ、優雅に一礼するおねーさんがいた。

 

 おまけに耳元から生えてんの……角? い、いや、そんなことは些事(さじ)だ、男の子だって股間に1本角が生えてんだから、女の子に2本角が生えてたっていいじゃない。じゃねーわ、とにかく——————、

 

 

「——ごきげんよう」

 

 

 彼女は、こちらへ視線を向ける。

 

 その目が、すっと俺を撫でた。

 

 撫でた、という表現はたぶん正しい。

 

 見られたのではない。

 測られたのでもない。

 

 もっと柔らかく、もっと近く、けれど触れられた後に少しだけ冷たさが残るような視線だった。

 

「お初にお目にかかりますわ。ゼイン様」

 

「——え、あ、ども」

 

 とっさに返事をする俺の方はというと、見てもいたし、測ってもいた。なんなら撫でるというか舐めるというかガン見していた。

 

 

 その白づくめのおねーさんの主張が激しすぎる胸を。

 

 

 

 ——デッッッッッッッッッッカ!!

 

 

 

 スイカップとはこのことだったんだ。ラピュタは本当にあったんだよ。俺はいま初めて本当の意味であの言葉の意味を理解した。

 

 

 ああ……なんか涙、涙出そう。

 

 

 スイカップになんか、もう一人のおねーさんも髪の色こそ惜しいものの、カールがかった髪といい、ミステリアスな雰囲気といい、ほぼ下着みたいな服でエロいし、もうこれは名誉メーテルでいいんじゃないの。

 

 どうやら俺の物語はここまでだったみてーだ。ここまで致死量のおねーさんを浴びたらA.R.Pもなんも関係ねーわ。みんなありがとう……スゥゥ……、

 

記憶の庭園(ガーデン・オブ・リコレクション)よりメモキーパーとして参りました。彼女はブラックスワン。わたくしはコンスタンス、と申します」

 

 スゥゥ……名誉メーテルいやブラックすわん……、そしてスイカップいやコンスタンスねーさんは夢と希望とスイカで出来た胸元に手を添え、少しだけ首を傾けた……スゥゥ……

 

「けれど、どうぞダリアとお呼びくださいませ。その方が、近しい感じがいたしますわ」

 

「ダリア、さん」

 

「あら。さん、などと距離を置かれると寂しいですわ」

 

「ダリアお姉ちゃん……」

 

 口に出した瞬間、彼女は満足そうに微笑んだ。え、許されるんだ……スゥゥ……、

 

 いかん。

 

 非常にいかんですよ。

 

 き、気持ちはわかるぞ、ゼイン、だが、落ち着け、息を吸いすぎてどうにかなってしまいそうだ。いったんまずは吐くんだ。スゥゥ……。

 

 お、俺にはカフカすわんという心の絶対年上おねーさんがいるのだ。助けてカフカさん。もう俺の意志でどうにか出来る問題じゃない。

 

 別にスイカを見るだけなら果物(注:スイカは果実的野菜)だから浮気じゃないし、名前を呼ぶだけなら人類の基本的なコミュニケーションだし、年上のおねーさんが近づいてきた時に鼻の下が伸びるのは呼吸と同じく生理現象であって俺個人の罪じゃない。

 

 などと脳内裁判で必死に無罪を勝ち取ろうとしていると、ヘルタ様が絶対零度の目を向けてきた。

 

「ふーん、ただの脂肪にそんなに鼻の下を伸ばすんだ?」

 

「いえ、あれはロマンが詰まっているのであって」

 

「下僕サンプルはわかってないね。あんなのそうなろうとすればいくらでもなれるんだから。あえてそうしないの。わかる?」

 

 いや、俺なんも言ってないすけど、どうしたんすか?

 

 と思っていると、

 

 ブラックすわんは、俺たちのやり取りを静かに眺めた後、両手で包んでいたものをテーブルの上へ置いた。

 

「いきなり現れてごめんなさい。急いでいたものだから。話は通っていると聞いているけれど、私たちはこれを持ってきたの」

 

 淡い光を宿した、平たい結晶。

 

 光円錐。

 

 だが、俺がこれまで見たことがあるものより、妙に重たそうな印象を持った。

 

 色は淡い。

 

 静かだ。

 

 なのに、どこかで金属を打つ音が聞こえた気がした。

 

 火の熱。冷えた月。

 

 俺は思わず、喉を鳴らした。

 

「えっともしかして……これが、例の光円錐っすか」

 

「ええ」

 

 ブラックすわんがうなずく。

 

「あなたの仲間から依頼された条件は満たしているわ。星神(アイオーン)の力が活発だった時代へ辿るための時空座標も、十分に含まれている」

 

 ってことは、カフカさんも(せい)たちもどうにかうまくいったってことか。

 

 ヘルタ様が光円錐へ手をかざす。

 

 いくつもの検査窓が空中に開き、光の結晶をさまざまな角度から読み取っていく。アスターがすぐに端末を操作し、数値の列を追い始めた。

 

 ヘルタ様はアスターに、

 

「いけそう?」

 

「はい、どうやら……行き先もわかりました。これは——仙舟同盟(せんしゅうどうめい)?」

 

 アスターの指が、端末の上で止まる。

 

「星暦7300年代前半。正確な年までは固定できませんが、飲月(いんげつ)の乱より、およそ70年前後の座標帯です」

 

「ふぅん、ざっと700年ちょっと前ってとこね。ちょうどいいんじゃない"豊穣(ほうじょう)"の民も"巡狩(じゅんしゅ)"を掲げる仙舟も今よりずっと荒っぽく動いていた頃でしょ」

 

 さらっとスゲーこと言ってるんだけど。

 

「はい、現代の史料では……のちに『雲上の五騎士』と呼ばれる人々が、歴史の表舞台に現れ始める時代です」

 

 なんだそのうんじょーのごきしってのは、キセキの世代みてーでかっこいいじゃん。

 

「決まりね」

 

 ヘルタ様は口元を少しだけ上げた。

 

 それから俺を見る。

 

「よかったじゃない下僕サンプル。チケットが来たわよ」

 

 うん、そうなるよね。心の準備まったくできてないんだけど。

 

「チケットっていうには、ずいぶん重そうなんすけど」

 

「過去行きの片道切符が軽いわけないでしょ」

 

 ちょいちょいちょい、今なんて?

 

「片道って、帰りもあるって話でしたよね?」

 

「こっちにはちゃんと用意してるよ」

 

 ヘルタ様は光円錐の横に、グノモンを置く。

 

『——当該光円錐(とうがいこうえんすい)及び憶質(おくしつ)との同期、完了しました。時間座標を抽出中——』

 

 どうやら、光円錐から必要な情報を読み取っているらしい。その間に、ヘルタ様は、

 

「グノモンのことはもう説明したでしょ。過去に行ったら、これがあなたの案内役。通信はできない。未来(こっち)から指示は受けられない」

 

 ヘルタ様は、銀色の懐中時計を指さし

 

「ただし、記録上わかっている歴史は入力(インプット)してあるから照合できる。あなたが本来の流れからどれだけ外れたかを測るには、それが必要だから」

 

「本来の流れ……」

 

収束圧(しゅうそくあつ)っていったでしょ。世界が、どれくらい元の歴史に戻ろうとしているかだね。グノモンはそれを測る。あなたの生体データ、星神由来の現象、それから歴史との差分。危なくなったら警告するよ。帰還可能な時点も出す」

 

「あのー最後のやつだけずっと出しといてほしいんすけど」

 

「メモリの邪魔だから却下」

 

「あーん」

 

「それと、前にも言ったけど、歴史や過去の人間に対して勝手な行動は慎むこと。帰れなくなっても知らないよ」

 

「うす、任せてください」

 

 俺だって帰れなくなるのは困るもん。

 

「未来のことをべらべら喋らない。大事件を正面から止めようとしない。変なものを持ち込まない。困ったらグノモンに聞く。死にそうになったら、死なないように努力する」

 

 なにこのちっちゃい子が一人で遠出する前のお母さんみたいな感じ。知らないおねーさんにはついてきます。

 

「最後だけ急に雑じゃないすか?」

 

「これくらい雑でも伝わるでしょ」

 

「信頼の形がひどい」

 

 まぁ伝わるんですけど。

 

 ルアン姉ちゃんが静かにこちらへ歩いてきた。

 

 姉ちゃんは俺の手首を取り、脈を確かめるように指を添える。

 

「ゼインさん。身体の状態は安定しています。A.R.P.も問題なく機能しています」

 

「は、はい」

 

 近い。

 

 ルアン姉ちゃんの指が、俺の手首に触れている。

 

 体温が少し低い。声もいつも通り静かだ。

 

 それなのに、俺の心拍数だけが勝手に上がる。

 

『心拍数の上昇を確認。原因として、緊張、恐怖、または対象ルアン・メェイへの好意反応が考えられます。また充血しつつある部位は——』

 

「グノモンくん、今すぐ黙ろうか」

 

『本機は観測結果を報告しました』

 

「観測にも思いやりとデリカシーって必要ってこと後で教えてやる」

 

『思いやり、定義不明。後ほど参照します』

 

 ルアン姉ちゃんは、少しだけ笑った。

 

 少しだけ。

 

 それだけで俺は生きていける。過去にも行ける。たぶん。

 

「無茶はしないでください」

 

「それ、俺に言います?」

 

「はい。私の最高傑作である——あなたに言っています」

 

 おう……その台詞はワタクシめには効きますぅ……。

 

 ルアン姉ちゃんはそのまま、俺の腕に小さな測定パッチを貼る。透明な薄い膜みたいなものだ。皮膚に触れた瞬間、すっと馴染んで消えた。

 

「グノモンに生体データを送る補助具です。強い干渉下でも、あなたの状態を見失いにくくなります」

 

「ありがとうございます。これでルアン姉ちゃんが俺をずっと見てくれるってことですね」

 

「いいえ、正確には、グノモンがあなたの身体情報を観測します」

 

「ルアン姉ちゃん経由で?」

 

「いえ、グノモンが」

 

「…………そっかぁ」

 

 人生、そんなに甘くない。

 

 その横で、ダリアお姉ちゃんがふふ、と笑った。

 

「ずいぶん愛されていらっしゃるのね」

 

「えっ、俺が?」

 

「ええ。まるでミス・ヘルタも、ルアン・メェイ様も、あなたを無事に戻すために手を尽くしておられる。とても興味深いですわ」

 

「勘違いだよ」

 

 ヘルタ様が即座に切り捨てた。

 

 早いって。もう少し夢を見させて。

 

 ダリアお姉ちゃんは俺のすぐそばまで歩み寄ってきた。

 

 香水なのか、花の匂いなのか。甘い香りがふわりと近づく。けれど、その奥にかすかな焦げた匂いが混じっているような気がした。

 

「それで、ゼイン様」

 

 耳元に顔を寄せられ、

 

「は、はい」

 

「——ゼイン様のボスは、あなたにどこまでお話しになったのですか?」

 

「どこまで、って」

 

「今回の旅のこと。行き先のこと。戻った先で、あなたが何を得るのか」

 

 あくまでその声は優しい。問い方も、刺すようなものじゃない。

 

 それなのに、どうしてだろう。まるで鋭くとがった爪の先が首に触れているような感じがした。

 

 俺は少しだけ考え、

 

「まあ、いつも通りっすね」

 

「いつも通り?」

 

「うちのボスは大事なことを言う時ほど、全部は言わないんで」

 

 ダリアお姉ちゃんの目が、わずかに細くなる。

 

「それでも従うのですか?」

 

「従うっていうか……」

 

 俺はグノモンを見た。

 光円錐を見る。

 ヘルタ様を見る。

 ルアン姉ちゃんを見る。

 

 それから、ファミリアのみんなを思い出した。

 

「うちのボス、ムカつくくらい先が見えてるんすよ。で、俺はその手は食わねーぞって動くんすけど、結局その通りに動いてる。まあ、そういう関係っす」

 

「それは……信頼、ですの?」

 

「うーん」

 

 信頼。

 

 たぶん、それはある。

 

 でも、それだけではない。

 

 エリオの脚本は、いつも俺をとんでもねぇ場所へ連れていくし、どエラい目に遭わせる。

 

 

 だけど、あいつは言っていた。

 

 

 

 

 ——ただ、ゼインが思っているよりもずっと、

 

 ——ぼくはあなたを大切に思ってるってことさ。

 

 

 

 ……ったくこっぱずかしいこと言いやがって。

 

 でも、だからこそ、

 

「信頼っつーか、それもシャクなんで、アレだ、腹立つ納得っすね」

 

「腹立つ、納得」

 

「はい。ムカつくけど、あいつが言うなら従ってやってもいい。まっ、そんな感じです」

 

 ダリアお姉ちゃんは、ゆっくりと微笑んだ。

 

「なるほど。運命の洞観者が大切になさる方は、そういう目をされるのですね」

 

「え、今の俺、いい目してました?」

 

「ええ。とても」

 

 彼女の指先が、俺の肩口に近づく。

 

 触れるか触れないか。

 

 その距離で止まった。

 

「もっと近くで、拝見したくなるくらいには」

 

 いかんいかんいかん。

 

 これはいけませんよ、

 

 お、俺にはカフカさんという筆頭おねーさんがいる。

 

 いや別に付き合ってないけど。付き合ってないけど俺の中ではだいぶ付き合っているし、おそろのタトゥーあるしぃ、なんなら将来的にはそういうことでひとつよろしくお願いしたいと思っています。

 

 今ここでダリアお姉ちゃんの微笑みにふらついてスイカ畑にダイブしてしまったら、俺の中のカフカ裁判長が無言で死刑判決を下すことは間違いない。

 

 しかし、お姉ちゃんが近い。スイカ当たってる。

 

 人類はなぜ、これほどまでに無力なのか。

 

「コンスタンス」

 

 ブラックスワンの声が、静かに割って入った。

 

「あら。弟様と少しお話したかっただけですわ」

 

「あなたの少しは、相手にとって少しではない場合の方が多いと思うけれど」

 

「心外ですわ」

 

 ダリアお姉ちゃんは、楽しそうに一歩引いた。

 

 俺はそこでようやく息を吐く。

 

 助かった。今の弟様はやばかった。

 

 ブラックすわんが俺へ視線を向ける。

 

「ゼインさん。初対面のあなたにアドバイスできることがあるとすれば……この光円錐は、あなたを過去へ導くわ。ただし、あなたが向かうのは自由な過去じゃない」

 

「自由な過去じゃない?」

 

「ええ。これは記憶に刻まれた道のようなもの。道の外へは、簡単には出られないわ。長く留まれる時期と、そうでない時期があるでしょう」

 

 ヘルタ様が補足する。

 

「言ったでしょ、感情の密度が高い記憶ほど、座標が安定する。逆に平穏な時期は飛ばされる可能性がある。あなたの都合で何十年も好きに歩けるわけじゃない」

 

「あ、はー……」

 

 俺は頭をかいた。

 

「つまり、観光できるタイプのタイムトラベルじゃないってことっすね」

 

「誰が観光しに行けと言ったっけ?」

 

「いや、でも、せっかく過去に行くなら名物とか」

 

「下僕サンプル」

 

「はい」

 

「仕事」

 

「うす」

 

 ヘルタ様に怒られちまった。

 

 アスターが小さく咳払いし、端末をテーブルに接続する。

 

「初期パラメータの調整、完了しています。帰還アンカー本体との同期も待機状態です」

 

 同時にグノモンも、

 

『本機も時間座標の抽出を完了』

 

「よろしい」

 

 そこで俺はふと疑問を覚えた。

 

「そういや、これ誰の光円錐なんすか?」

 

 空気が、ほんの少しだけ止まった。

 

 ほんの少し。

 

 普通なら気づかないくらいの沈黙だった。

 

 ヘルタ様は答える気がなさそうで、

 ルアン姉ちゃんは目を伏せて、

 ブラックすわんは、静かに俺を見て、

 ダリアお姉ちゃんは、意味深に微笑んでいた。

 

「……え、なにその反応。怖いんすけど」

 

「今は知らなくていいよ」

 

 ヘルタ様が言う。

 

「えーでも」

 

「情報は荷物になる。あなたはただでさえ、無駄なものを抱えがちなんだから」

 

「無駄なものって……なんすか」

 

 じろ、とヘルタ様は()めつけてきて、

 

 

 

「——運命、とかじゃない」

 

 

 

「……それって……」

 

 一瞬、『解放』という文字がよぎるも、

 

「間違えた。性的嗜好(せいてきしこう)ね」

 

「いや、間違え過ぎ」

 

 思わずツッコんだものの、ヘルタ様はそれ以上はもう答える気がなさそうだった。

 

 ふーっと息を吐き出し、

 

 俺はグノモンを見つめる。

 

「出発前に、少し仲間に連絡してもいいすか?」

 

「手短に」

 

 ヘルタ様が許可を出す。

 

 俺はスマホを取り出し、連絡帳からカフカさんの名前を押した。

 

 呼び出し音が鳴る。

 

 ——が、出ない。

 

「…………」

 

 まあ、忙しいのかもしんねーな。

 

 シロッカのときのことを踏まえて、先に今回の行き先を伝えておきたかったし、出発前に声を聞きたかったし、なんなら送り出してもらいたかったんだけど、

 

 ま、しゃーない。

 

 俺は通話を切った。

 

 それから、『星核ハンターファミリア』のチームチャットを開く。

 

 カフカさん。

 (せい)

 ホタル。

 銀狼。

 エリオ。

 

 俺が勝手に設定したアカウント名ではあるものの、見慣れた名前が並んでいる。

 

 

 俺は少し考えてから、文字を打った。

 

 

『ちょっくら過去の世界に行ってきまーす』

 

 

 送信。

 

 画面を見つめる。

 

 既読は、つかなかった。

 

 

「……よし」

 

 

 俺はスマホをしまった。

 

 

 ヘルタ様がこちらを見る。

 

「覚悟は?」

 

「ないっす」

 

「正直ね」

 

「それが取り柄なんで。でも、ま、行きますわ」

 

 

 俺はグノモンを握り、パルサーエッジの腕輪を確かめ、ノヴァイレイザーの重みを肩で感じた。

 

 

 いや正直、怖くないわけがない。

 

 

 過去に行く。

 

 知らない時代へ行く。

 

 おまけに行き先は、アスターの言っていた仙舟(せんしゅう)

 

 とくりゃあ、待ち受けているのはめくるめく中華ワールドなわけで、そこにいた誰かさんの記憶を辿って、星神(アイオーン)の力が暴れる時代へ行く。

 

 しかも、あんま歴史に影響を与えてはいけないらしい。

 

 

 無理くね?

 

 

 俺に一番向いてない任務じゃね?

 

 

 今からでも、誰か変わんない?

 

 

 でもなぁ、

 

 エリオが、それが正しいって見定めたんなら、

 

 

 

 ——俺が行くしか、ねーわな。

 

 

 

「グノモン」

 

『はい。被験者ゼイン』

 

「頼りにしてるぞ」

 

『本機の役割は、被験者ゼインを救助することではありません。観測、記録、時空座標の測定、帰還アンカーとの同期維持です』

 

「よし、後でお前に空気を読むってことを教えてやる」

 

『空気を読む、定義不明。空気は吸うものです。後ほど参照します』

 

「……もういいわ、それで」

 

 少しだけ笑って、俺は一歩前に出た。

 

「——グノモン、始めて」

 

 ヘルタ様の言葉を皮切りに、グノモンがゆっくりと震え始める。

 

 

『演算:時空間航行処理——開始』

 

 

 アスターが端末を見ながら声を上げる。

 

「こちらの帰還アンカー本体、同期開始。生体データ、安定。時空座標、固定しました」

 

 ヘルタ様が指を鳴らす。

 

「グノモン。最終処理」

 

『了解しました』

 

 懐中時計の蓋が、ひとりでに開いた。

 

 文字盤の代わりに灯った光が、俺の顔を照らす。

 

『航行先時空座標、固定完了』

 

 床の線が、細かい文字列へ変わった。

 

『帰還アンカー本体との同期を確認』

 

 胸の奥に、何かが引っかかる感覚があった。

 

 

 形容しがたい、遠くのどこかに糸を結ばれたみたいな感覚。

 

 

『被験者ゼイン。航行処理を開始します』

 

「……っ」

 

 光が、足元からせり上がった。

 

 反射的に腕輪を握る。

 

「——下僕サンプル」

 

 まぶしさに目を細めていると、ヘルタ様の声がして、

 

「なんすかっ?」

 

 

 

 

 

「——行ってらっしゃい。必ず戻ってくること」

 

 

 

 

「はいっ! 行ってきます!」

 

 

 

 グノモンの声が、最後に響く。

 

 

 

 

『——跳躍(ジャンプ)

 

 

 

 白い光が、視界を埋め、

 

 

 

 

 

 

 宇宙ステーションの床が、音もなく消えた。

 

 

 

 

 

 

 




執筆時BGM:「少女S」SCANDAL、「ホログラム」NICO Touches the Walls




愉悦星ちゃん実装前に二刀流フラグ出したかったぽよ……ガクッ
長くなりやしたが、こっからが4章です〜

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